第24話  融と樹

文字数 3,057文字

土曜日。二人は樹のアパートの前に居た。

涼子の家から帰る樹と待ち合わせて樹の家に向かった。
「最初だけ一緒に行って貰うと助かる」
樹は言った。
「一人ではちょっと怖くて」
そう付け加えた。
融は一体何が起きたのかと思った。

昨夜、融は樹から電話を貰って驚いた。同時にやっぱり来たかと思った。
詳しい話はアパートですると樹は言った。

「宇田さん。御免なさい。迷惑を掛けて」
「融君の所為じゃないから」
樹は言った。

樹は少し逡巡してドアを開けた。
きょろきょろと中を見回して、ほっとする。 
 
部屋に入って樹の話を聞いた。
樹がTシャツの襟ぐりから咬み痕を見せた。痕は黒と紫に変わっていた。
「逃げようとして靴で顔を殴ったら噛み付いた」
樹は言った。
融は絶句した。


ふつふつと怒りが沸いて来る。その少年にもそして自分にも。どうしてもっと樹の身を心配してやらなかったのか。自分はある程度予想していたはずだ。来るならそこから来ると。
何故ならそこにしか接点がないから。
だが、まさかこんな乱暴な方法を取るとは思ってもみなかった。
そんなストーカーみたいな事をするとは・・・。
後を付けて部屋に押し入るなんて・・状況が悪かったら樹は・・もっと酷い目に遭って・・写真を拡散されたり・・・そう思っただけでぞっとした。

樹に申し訳が無かった。
心の中で自分を罵倒する。
張り倒してやりたいと思った。


樹は脅かされても乱暴されても自分の電話番号や住所は教えなかった。
「どうして教えなかったの。そんな酷い目に遭う前に」
融は言った。
「君がそんな目に遭って、俺は・・」
「・・・だって、融君は一人で小夜子さんを抱えて大変なのに・・・融君に何かあったら小夜子さんの面倒を誰が見るの?」
樹にそう言われて融には返す言葉が無かった。

「あなたが陸に思えたの。そして小夜子さんが私に。陸が私を守っているみたいに思えた。
あなたを守らなくちゃって思ったの。
だってあなたは小夜子さんをたった一人で守っているのだから」


融は樹の言葉を黙って聞いていたが、ひとつため息を付くと頭を抱えた。
しばらくじっとそうしていた。
「融君?」
融は「くそっ」と小さく呟いて椅子に寄りかかる。
腕を組んで黙って樹を見る。
すっとその目が細くなる。
樹は目を伏せる。
ちょっと怖い。


彼は突然立ち上がると樹を抱き締めた。
「ちょ・・ちょっと融君」
樹は慌てた。
少しだけ。
融はそう言った。
樹は黙って抱かれた。


彼の匂い。
彼のコロンと彼自身の。
記憶の中に眠っていた香りが蘇って来た。
樹は目を閉じた。
そうだ。
あの頃もこうやって抱きしめてくれた。


「御免。本当に御免。俺の所為でこんな酷い目に遭ってしまって。謝って済む事では無いけれど‥・本当に御免」
樹は涙がこぼれそうになる。
それを堪えて明るく言った。

「うん。もう大丈夫。大丈夫だから。もう平気。史有君も実家へ帰るみたいだし。それにね。佐伯先生が史有君の話をまとめてくれたから、それを読んでこれからの事を考えよう。それからその後は、部屋の片づけを手伝う事。嫌な事があったから模様替えをしようと思うんだ。だから融君はそれを手伝う。それでお互いにチャラにしよう」
樹は明るく言った。

融は樹を離さなかった。
「ねえ。約束してくれる。これからそんな危ない目には遭わせないけれど・・絶対に。けれど万が一そんな事になったらまず自分を庇って。俺じゃなくて。小夜子とか俺じゃなくて。・・・君に何かあったら俺はもうどうしていいか分からなくなる」

「・・・分かったから。そうする」
融は樹の目を見て言った。
「絶対だ」
「うん」
「警察へは?」
「ああ・・・。どうかな。詳しく聞かれていろいろと説明しなくちゃならないし・・こんな咬み痕を警察の人に見せるのも嫌だし・・そうなると職場にも報告しなくちゃならないし、・・・佐伯先生も立場が悪くなるし、勿論私もきっとある事無い事言われるだろうし・・・
仕事もやばくなるし・・・風邪だって嘘付いたのがバレるし・・・。だから行くのは止めようと思っている。面倒だから・・・・それにもう忘れたいの。他人に詳しくなんて説明したくない」
融はじっと樹を見る。
それはその通りだと思った。


「その紙を見せてくれる?」
融が言った。
樹は立ち上がってごそごそとバックの中から紙を取り出した。
「6年前。吉野だって」
一読して融は顔を上げた。
「これが理由?」
「そう」
「嘘だろ?」
「いや。そうだって」
「大体、これ俺の訳がない。俺、吉野なんて行った事無い」
「きっとそうだと思った」
樹は言った。
「ねえ。これコピーをくれる?」
「分かった」
樹はすぐにコピーを取って渡す。
「でね。佐伯先生が融君に電話番号を教えてもいいと言っていたから。だから後は直接彼に聞いてみると良いんじゃないかな。すごく礼儀正しい先生だから。弟と違って」
「宇田さんを助けてくれたんだろう」
「そう」
「一応保護者代理なんだから。責任は彼にあるから。当然だよな。・・・ちょっと俺も会って言ってやらないと気が済まないから電話番号、送ってくれる?・・その弟、思いっきり殴ってやりたい」
「だから、そういうのは絶対に止めて。彼もすごく凹んでるから。そんな事をするなら教えないよ」
樹は言った。

融は呆れた。
「宇田さん。何と言うか・・・お人好しもそこまで来ると馬鹿が付くよ」
「いや、佐伯先生、すごい勢いで史有君ぶん殴ったから。私、びっくりした。それも二発も。あんなに冷静な人なのに大きな声を出して怒鳴ったよ。私、佐伯先生が怒鳴るのを初めて見た。
彼の顔見たらすごく怖くて私、ビビった。
でも良かったー。隣近所留守で。在宅だったらえらい騒ぎだったよ。大体、あんなでかい男が二人で暴れたら部屋が壊れる。」
「警察に通報されていたね」
「危うくセーフだった。本当にくそ野郎だよ。あの弟は」
樹が言った。

「その後、私、史有の事ぼこぼこに殴った」
こうやってグーで。樹がそうやって手を握った。
「人を殴ると自分の手が痛いって初めて知ったよ。これで史有の顔3回殴って、後は体をこうやって・・・」
樹がサンドバックを殴る真似をする。

樹の腕を掴むと融は自分に抱き引き寄せた。
「もう、分かったから・・」
「あいつ、最後にようやく悪かったって・・」
樹の目から一粒、涙がこぼれ落ちた。
一粒落ちると後は止め処も無くぽろぽろと落ちる。

融は見ていられなかった。
彼女の頭を抱いて言った。
「怖い思いをさせてしまって本当に済まなかった。もう二度とそんな思いはさせないから。約束する」
樹を抱き締めて髪に頬を寄せた。
「二度と君に触れさせない」
融はそう言った。
「絶対に」

融は泣き続ける樹を黙って抱いていた。
その背中を優しく撫で続けた。
樹が落ち着いて来たのが体を通して分かった。
二年前もこうやって樹を抱いた。
ただ抱いていた。
今みたいに彼女が落ち着くまで。
体が樹を覚えている。


自分の腕の中にすっぽりと納まる体。
こんな華奢な体で自分を必死に守ってくれた。
細い項に唇を寄せた。
樹がびくりとする。
樹が愛おしくてたまらなかった。
ずっとこのまま樹を抱いていたいと思った。


融は樹の顔を覗き込むと濡れた頬にキスをして、唇に触れた。
樹は目を閉じて融の胸に手を当てる。
吐息が漏れる。
お互いがお互いの唇を探して、口付けを繰り返す。
次第に熱を帯びてくる。
彼の首に手を回した。
融の手が樹の頭を支えて離さない。
頭の奥が痺れる感じ。


「俺、君の事、離したくない。もう二度と離したくない。・・・ねえ、俺と付き合って。今度はちゃんと恋人として」
融が耳元で囁いた。
樹は融の胸に顔を埋めたまま頷いた。

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