一、枯葉の匂いが雨の色を

文字数 1,628文字

 始発の路面バスから降りると、十一月の早朝の冷気に身を震わせた。草木の匂いに、暫く佇んだ。懐かしさよりも複雑な心境が愁いを帯びたモノカを躊躇わせた。
 「……嫌っていたわけじゃない。」
 モノカはそう呟いて、霜を踏みしめ林道に向かった。変わらない景色が記憶の中で剥離し、現実に蘇っていくのに時間は掛からなかった。海辺の高校に通い始めた頃に開通した渓谷に架かる橋の中程で一度立ち止まった。深い谷底を流れる清流を眺め独り言ちていた。
 「……こんなに高かったなんて、忘れていた。気付かなかったのかな。」
 山腹を回り込むように林道が続き、登り切った場所から田畑の拡がる集落が見渡せた。田畑の中に民家が点在し、その先に楠が茂る神社は、昔のままの姿で遠くからでも分かった。地元の小さな中学校から進学校に通った三年間も、この景色を見て独り安堵したのだった。
 あの頃は、自分の身の丈を持て余していたのだろう。それでも毎日が必死で孤独で楽しかった。
 「……ここまで帰ると、安心できたんだ。」
 古い都があった大学に進学してからは、意識して故郷を心の片隅にしまいこんでいた。
 「……嫌な娘だったかな。」
 モノカは、そう自分に問い掛けてから腕時計に視線を落とした。父親が役場に向かっている時間だった。畑の中を降る林道をゆっくりと足を進ませた。途中に古い民家を改装した飲食店が出来ていた。モノカは、その家に独り住んでいた老婆を想いだした。
 「……そうか、そうだよね。」
 店先に掛けられた手描きのお洒落な看板が微笑みを誘った。
 『……可愛すぎね。』
 モノカは、心の中で呟いた。老婆のことを考えないようにした。
 霜が降りる畑に仕事に出ている村人の姿が見えた。モノカを遠目にしたなら若い旅行者に思えただろう。モノカの姿は、大人の女性になっていた。

 神社の一の鳥居の手前で立ち止まった。参道を掃き清めるキヨの姿が見えた。モノカの胸の奥で静かに落ち葉のような揺らぐ気持ちが懐かしかった。神域に入り足を止めた。
 「……お兄ちゃん。」
 モノカは、昔のように従兄を呼んだ。箒の手を休めてキヨが顔を向けた。驚いた様子も見せず笑顔も昔のままだった。幼い頃からモノカは、キヨの慌てる姿を見たことがなかった。
 「……早くから、ご奉仕ご苦労様です。」
 モノカは、そう挨拶して近付いた。
 「驚いてほしかったな。」
 「お帰り。」
 キヨの声音も変わらなかった。モノカは、幼い頃から七つ年上のキヨの気を惹きたくて困らせる行動をした。しかし一度も慌てずにキヨは、嫌な表情を見せなかった。
 「もしかして、予感しましたか。」
 モノカは、少し意地悪がしたくなって冷静な従兄を揶揄った。キヨが、柔らかい微笑みを浮かべて答えた。
 「空気の流れが変わったからね。良いことがあると思った。」
 「それはそれは……。」
 モノカは、歳の取らない風貌の従兄に甘えるように言った。
 「妖怪ね。」
 キヨに近付きモノカは、澄んだ瞳を覗き込んだ。高いヒールを履いていたが、未だ少し背がとどかなかった。
 「……綺麗な目ね。妖怪のくせに。」
 モノカは、言葉を続けた。
 「まだ、携帯持ってていないの。」
 「必要ないから。」
 「そぅ……、でしたね。」
 モノカは、自分が何を言っているのか気付き、取り留めのない会話に照れ笑った。モノカが笑い終わるのを待ってからキヨは誘った。
 「朝食、食べにおいでよ。」
 「そうね。叔母様にも挨拶しておかないと。」
 モノカは、尋ねた。
 「単車で来ているのでしょう。乗せてよ。」

 モノカは、社務所の奥の自宅に立ち寄った。モノカの部屋は、昔のままだった。時々、父親が窓を開けて空気を入れ替えてくれているのだろう。空気が澱んでいなかった。就職して五年の間、何かと理由を付けて帰郷しない娘に小言一つ零さない父親の静かな優しい気遣いを見たように思えた。小さな旅行鞄を片隅に置いて、飾られたままの古い写真を眺めた。
 「……やっぱり、妖怪ね。」
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