潮騒が揺らぐその間で 七話
文字数 1,810文字
あの夜は、大人の世界を観る貴重な機会になった。夜も更けて招かれた場所は、湾の沖に浮かぶ小島の邸宅だった。私的な機船で渡る小島に人が住んでいるのをミチカは、知らなかった。港から見える樹の茂る小島は、洋館が隠れているように思えなかった。外海に面して建つ館は、現実離れした趣があった。
レイサが借り受けている建物は、年数を経ているものの良く整備されていた。
藤棚のテラスで大人三人が、懐かしい昔の話に浸り楽しんでいた。
ミチカは、マリサと少し離れた砂浜のベンチに座った。月が上る前の星々の深い瞬きは、少し開放的な気持ちになれたのだろう。ミチカは、優しい言葉を向けた。
「いつも、白い服だね。」
「……サナが、選んでくれるのです。」
「よく似合う。」
「……サナが、喜んでくれます。」
話は続かなかった。それでもミチカは、二人だけで居られて幸せだった。潮風に混じるマリサの柑橘系の移り香が、ミチカの気持ちを酔わせた。
「昔、どこかで会っていないだろうか。」
ミチカは、初めて見かけた日から記憶の轍から抜け出せない疑問を投げかけた。少しばかり間を置いたマリサは、困惑していた。
「……すみません。」
「ごめん。困らせる質問をしたね。」
ミチカの労わる言葉にマリサは、一瞬だけ視線を向けた。
「口説いたつもりじゃないから。」
「……はぃ、分かります。」
マリサの柔らかな仕草が、ミチカの心を騒がせた。時間がゆっくりと流れる感覚が嬉しかった。ミチカは、話題を探した。
「映画は好き?」
「……映画館が苦手です。」
サナが、シアタールームを設けている説明にミチカは、心底から感動した。
「凄いな。サナさんの拘り?」
「……サナは、素敵な人なのです。」
マリサは、自分が褒められたかのように恥じらった。
「今、気になっていることを聞いていいかな。」
ミチカに尋ねられたマリサが、暫く考え込んだ。目を伏せて困惑する仕草の愛らしさにミチカは、気持ちの昂りを抑えた。
「……明日、訪れる一日でしょうか。」
マリサの真面目に考えた答えが嬉しかった。ミチカは、その言葉が持つ意味の重さに気付けなかったのだ。
「昨日想ってい今日は、マリサさんにとってどうなの。」
「……どうなのでしょう。」
マリサは、少し哀し気に呟いた。
足元に忍び寄る波音が、悠久の時を誘うように魅惑的だった。
いつの間にか、サナが近くに来ていた。
「マリサを、家までお願いしていいかしら。」
サナの頼みにミチカよりもマリサの方が先に逡巡を見せた。
「先に戻っていてね。戸締り、ヨロシク。」
サナの一方的な指示にマリサは、感情を抑え張り詰めていた。胸を締め付けるような声で返事をした。
「……はい。」
初老の紳士が操船する機船が岬の入江に着くまでマリサは、小島から目を離さなかった。別荘近くの砂浜に船首を乗り上げて二人を下した。
月明かりが零れ落ちる海は、鉛白銀に煌めいていた。静かな潮騒が、ミチカとマリサの間で揺らいだ。岬に向かって入江の波打ち際を歩いた。
「……ここを、初めて訪れたのは、七年前です。」
マリサが自分から話したのは、それが最初で最後だった。
「……小学六年生の、七月でした。」
話は、それだけだった。その言葉にミチカは、思い出した。海岸通りを走る路面バスからの光景を。天蓋のない車のサイドシートに座る少女の姿が蘇った。
小学生だったミチカは、あの景色をどのように感じ取ったのだろうか。心の片隅に埋没していた色褪せた迷いが疎ましかった。ミチカは、考えを押し留めるように問いかけた。
「この浜辺は、君にとって、どんな印象だったの?」
マリサからの返事は、彼女の深い思案に埋もれて帰ってこなかった。岬の別荘までの距離が短く感じた。
マリサは、玄関の扉を閉めようとして一瞬だけ躊躇った。マリサの眼差しに微かな変化が見えた。ミチカは、彼女の感情の移ろいに気付いたが、声を掛けられなかった。
「……。」
伏し目がちに視線を落としマリサは、何か呟き扉を閉じた。ミチカは、暫く扉の前から動けなかった。行動に移せなかった勇気が、若い後悔を齎していた。
ミチカは、暗い気持ちを抱えて不甲斐ない姿を否定した。
独り歩く月明りの帰路が、長く果てしなく思えた。
重い足取りで家に辿り着き、湯船に浸かっても気持ちは沈んでいた。鬱々とした思案のままに、撮り溜めていた映画をぼんやり眺めた。
レイサが借り受けている建物は、年数を経ているものの良く整備されていた。
藤棚のテラスで大人三人が、懐かしい昔の話に浸り楽しんでいた。
ミチカは、マリサと少し離れた砂浜のベンチに座った。月が上る前の星々の深い瞬きは、少し開放的な気持ちになれたのだろう。ミチカは、優しい言葉を向けた。
「いつも、白い服だね。」
「……サナが、選んでくれるのです。」
「よく似合う。」
「……サナが、喜んでくれます。」
話は続かなかった。それでもミチカは、二人だけで居られて幸せだった。潮風に混じるマリサの柑橘系の移り香が、ミチカの気持ちを酔わせた。
「昔、どこかで会っていないだろうか。」
ミチカは、初めて見かけた日から記憶の轍から抜け出せない疑問を投げかけた。少しばかり間を置いたマリサは、困惑していた。
「……すみません。」
「ごめん。困らせる質問をしたね。」
ミチカの労わる言葉にマリサは、一瞬だけ視線を向けた。
「口説いたつもりじゃないから。」
「……はぃ、分かります。」
マリサの柔らかな仕草が、ミチカの心を騒がせた。時間がゆっくりと流れる感覚が嬉しかった。ミチカは、話題を探した。
「映画は好き?」
「……映画館が苦手です。」
サナが、シアタールームを設けている説明にミチカは、心底から感動した。
「凄いな。サナさんの拘り?」
「……サナは、素敵な人なのです。」
マリサは、自分が褒められたかのように恥じらった。
「今、気になっていることを聞いていいかな。」
ミチカに尋ねられたマリサが、暫く考え込んだ。目を伏せて困惑する仕草の愛らしさにミチカは、気持ちの昂りを抑えた。
「……明日、訪れる一日でしょうか。」
マリサの真面目に考えた答えが嬉しかった。ミチカは、その言葉が持つ意味の重さに気付けなかったのだ。
「昨日想ってい今日は、マリサさんにとってどうなの。」
「……どうなのでしょう。」
マリサは、少し哀し気に呟いた。
足元に忍び寄る波音が、悠久の時を誘うように魅惑的だった。
いつの間にか、サナが近くに来ていた。
「マリサを、家までお願いしていいかしら。」
サナの頼みにミチカよりもマリサの方が先に逡巡を見せた。
「先に戻っていてね。戸締り、ヨロシク。」
サナの一方的な指示にマリサは、感情を抑え張り詰めていた。胸を締め付けるような声で返事をした。
「……はい。」
初老の紳士が操船する機船が岬の入江に着くまでマリサは、小島から目を離さなかった。別荘近くの砂浜に船首を乗り上げて二人を下した。
月明かりが零れ落ちる海は、鉛白銀に煌めいていた。静かな潮騒が、ミチカとマリサの間で揺らいだ。岬に向かって入江の波打ち際を歩いた。
「……ここを、初めて訪れたのは、七年前です。」
マリサが自分から話したのは、それが最初で最後だった。
「……小学六年生の、七月でした。」
話は、それだけだった。その言葉にミチカは、思い出した。海岸通りを走る路面バスからの光景を。天蓋のない車のサイドシートに座る少女の姿が蘇った。
小学生だったミチカは、あの景色をどのように感じ取ったのだろうか。心の片隅に埋没していた色褪せた迷いが疎ましかった。ミチカは、考えを押し留めるように問いかけた。
「この浜辺は、君にとって、どんな印象だったの?」
マリサからの返事は、彼女の深い思案に埋もれて帰ってこなかった。岬の別荘までの距離が短く感じた。
マリサは、玄関の扉を閉めようとして一瞬だけ躊躇った。マリサの眼差しに微かな変化が見えた。ミチカは、彼女の感情の移ろいに気付いたが、声を掛けられなかった。
「……。」
伏し目がちに視線を落としマリサは、何か呟き扉を閉じた。ミチカは、暫く扉の前から動けなかった。行動に移せなかった勇気が、若い後悔を齎していた。
ミチカは、暗い気持ちを抱えて不甲斐ない姿を否定した。
独り歩く月明りの帰路が、長く果てしなく思えた。
重い足取りで家に辿り着き、湯船に浸かっても気持ちは沈んでいた。鬱々とした思案のままに、撮り溜めていた映画をぼんやり眺めた。