十、枯葉の匂いが雨の色を

文字数 1,697文字

 「わたしは、嫌いだった。」
 モノカは、言葉にするつもりがなかった。静かに聞くだけのミコトを試してみたかったのだろうか。少しの意地悪を含ませて誘導しようとした。
 「息苦しくなるの。学生の頃は、よく分からなかったけど。感覚的なものだったのかな。」
 ミコトは、視線を逸らさず素直に聞き続けた。
 「田舎生活に憧れて来ているのなら、わたしが何を言いたいか察してほしいけど。」
 モノカは、話しながらふと気付いた。大人しく聞き続けるミコトに母親の姿を重ねていたのだ。
 『わたしって、なに考えているんだろう……。』
 溜息が零れそうになるのを隠した。小さく背伸びをして笑顔を向けた。
 「父はね。物分かりが良すぎるの。昔から、たぶんこれからも。」
 そこまで言ったモノカの視線が優しかったからだろうか。ミコトが、静かに頷いた。モノカは迷いながらも付け加えた。
 「母は、そんな父を残して行っちゃった。たぶん、バカね。」
 小柄なミコトが子供のように見えた。
 「さてと、帰りますか。」
 モノカは、話すことで気持ちが安定しているのに気付いた。
 「次は、ここを大事にできる覚悟を聞かせてもらうね。」

 車から降りると、ビアノの旋律が聞こえた。モノカでも憶えるぐらいにハノンの順番は分かった。従兄が最初から最後までハノンを通して練習する姿に呆れながらモノカは、思った。
 『いつも同じで飽きないのかな。わたしは、無理。』
 モノカは、辛抱強く待つ自分の気持ちを慰めていた。神社の境内の変わらない景色を眺めながら独り物思いに耽った。緩やかに流れる時間に納得した。モノカは、呟いた。
 「そうか……、この心地よさに戸惑ったんだ。」
 ハノンを終えると、従兄がソナタの練習を始めた。モノカの知る限りでは、その曲は珍しかった。
 練習が終わると、モノカは笑顔を覗かせた。
 「ただいま、無事帰還です。」
 「お帰り。」
 「ベートーベンかな。」
 キヨが、優しく笑った。
 「……ショパンでしたか。珍しいね。」
 そう言って、モノカは想い出した。昔に小耳にはさんだキヨの師匠がショパン好きだったのを。モノカは、心のなかで拘りを払拭するように話を変えた。
 「珈琲入れるから。」
 「直ぐ戻らないといけないんだ。」
 「話がしたかったな。」
 「次に、ゆっくり聞かせてよ。」
 「次があればね。」
 帰り際、単車に乗ったキヨに縫いぐるみを突き付けた。
 「はい。プレゼント。大事にしてよ。」
 「手作りか。モノカらしいセンスだね。」
 「どんなもんだい。」
 モノカは、笑った。
 「今でも、手芸しているの。」
 「勿論。」
 「そうなんだ。」
 少し迷いながらも思い切って尋ねた。
 「前から聴こうと思ったんだけど、どうして手芸を始めたの。」
 「好きだから。」
 「はぁ……、それだけ。」
 モノカは、もっと感動的な答えを期待していた。
 「わたしを泣かせるような話をしなさいよ。妖怪。」
 「泣き虫モノカのリクエストか。困るよ。」
 「困らせてやる。少しは、困りなさいよ。」
 「そうだな。考えておくよ。」
 モノカは、縫いぐるみをキヨの上着ポケットに押し込んだ。
 「落っことしたりしたら、呪ってやる。」
 キヨは、笑顔を残して走り去った。

 夕食の準備をしながらモノカは、余計なことまで考えてしまった。
 父親は、時間どおりに戻った。一人の時でも寄り道をせずに同じ時間に帰宅するのだろう。昔から変わらない日常生活を想像するとモノカは、複雑な思いになった。
 「退職したら、どうするの。」
 「神社の仕事があるからな。」
 「少し、ゆっくりしたら。」
 「そうだな。」
 父親が、少し間をおいて言葉を続けた。その寂しそうな様子にモノカの気持ちが揺らいだ。
 「……好きな人がいるなら、こっちを心配しなくていいからな。」
 「そうね……、考えておく。」
 モノカは、そう言ってから微かに迷った。脳裏をよぎる顔が疎ましかった。
 「でも、たぶん、まだ先ね。わたしって、男選び下手だから。それに、お母さんとの約束もあるし。」
 モノカは、自分の言葉に後悔した。蟠る気持ちを吹っ切るように笑顔を向けた。
 「少し飲もうよ。付き合って。」
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