五、枯葉の匂いが雨の色を
文字数 1,882文字
モノカは、朝寝坊をした。休日の父親は、神事を執りおこなった後だった。軽い朝食を済ませて車を借りた。
モノカは、行き先を決めていた。吊り橋の向こうにある【楽園】を訪れるのを楽しみにしていた。一人のモノカは、少しばかり思い切りよく運転した。その日の気持ちに車は、素直に反応してついてきた。
昨日に訪れたカフェの前を通りかかると、バルコニーで寛ぐマスターの姿が目の端に入った。日向ぼっこしている後ろ姿に魅せられたからだろうか。モノカは、店に立ち寄った。
モノカが乗ってきた車を見てマスターは、確認するように尋ねた。
「もしかして、神社の娘さんですか。」
モノカは、その話し方に心が揺らいだ。
「良い車ですね。生産台数が少ない趣味の車だから、もう街中でも見かけない。」
初老のマスターは、車好きだった。父親が大事に使う古い車を羨望の眼差しで見る目が子供のように輝いていた。父親と同世代のマスターに好感を持った。モノカは、年上好みの性癖を自分でも厄介だと思いながら分かっているつもりだった。
「父も喜びます。」
モノカは、返礼して悪戯っ子のように付け足した。
「母との思い出が乗っているですよ。」
「あぁ、なるほど。……やはり、好い車ですね。」
マスターの対応が、モノカを幸せにした。
「珈琲を点てましょうか。好い豆が届いたばかりです。」
昨日は気付かなかったが、店内の片隅に掛けられた一枚の絵が目に留まった。モノカは、なぜなのか懐かしい思いに囚われた。写実よりもデザインに近い画風ながら、見る人の気持ちを虜にする力がその人物画にあった。
『……誰だろう。』
モノカは、その絵のモデルを邪推していた。記憶の淵を翳めるが、思い出せなかった。人物画の背景が近くの場所と似ているのに気付いた。そして、不意にモノカは思った。
『……わたしにも、似ているの。』
モノカの魅入られた様子が気にかかったのだろう。マスターが優しく打ち明けた。
「とても気に入っています。」
マスターが、七年前に芸術総合高校のバザーで買い求めた人物画であるのをモノカが知ったのは、季節をいくつか越えた後だった。
メニューに載せていなかったが、マスターは頼まれれば食事を作った。モノカの注文に卒なく用意した。
「凄い。上手なのですね。」
モノカは、器の盛り付けと味の良さに感心して素直な称賛を口にした。
「すみません。失礼な言い方でした。」
褒められたマスターが、嬉しそうに照れ笑って頷いた。モノカは、メニューに載せない気持ちを慮った。
モノカは、話題を変え尋ねた。
「ピアノを弾かれるのですか。」
バルコニーの片隅に設置されたアップライトのピアノの存在が多くを語ろうとしているようにも見えた。
「ストリートピアノをイメージして用意しているのですよ。」
そのマスターの考えにモノカは、思わず感嘆の声を上げた。
「素敵ですね。」
「弾きたい方に教えてあげて下さい。」
「います。一人、知り合いが。」
モノカは、キヨを思い浮かべていた。幼い頃からキヨが弾く姿に憧れた。優しく切なくさせる美しい音色にモノカは、何度も涙ぐんだ。
『……どうして、そんなに悲しいのよ。』
モノカは、幼心に思った。中学生になって多感な時期を迎えた頃、キヨの優しさの根底にある事実を知った。モノカは、それからキヨが弾く前で泣かなかったが、以前よりも深く感動した。
「……わたしに気付かせたのは、罪よ。」
モノカは、独り呟いた。
「そしてこれは、気付いたわたしの罰なの……。」
バルコニーで独り過ごす時間が穏やかだったからだろう。その日は吊り橋を渡らなかった。
帰り道にユウの家に寄ったが、その日も留守にしていた。郵便受けは開けられていなかった。ペンションに回ると、叔母とキヨが掃除をしていた。
「もうすぐ終わるから。お茶を入れてよ。」
「バイト姫は。」
「今日は、昼まで。」
喫茶店からのお土産のケーキをナオは喜んだ。モノカが車を運転しているのを感心しながらも揶揄った。
「谷に落ちたりしないでよ。末代までの噂になるから。」
「これでも、上手い自負があるの。」
「それなら、明日町まで乗せてよ。」
叔母のナオが、人の車に乗るのは珍しかった。一人の時は、バスを使っていた。
バスが一番安全と信じるナオの考えは、昔から同じだった。今になれば誰も話題にしない古い事故の噂をモノカは知っていた。
「わたしの強運を信じてくれますか。」
モノカは、自信の笑顔を向けた。
「もし旅行なら、付き合いますよ。」
数日先まで宿泊の予約が入っていなかった。
モノカは、行き先を決めていた。吊り橋の向こうにある【楽園】を訪れるのを楽しみにしていた。一人のモノカは、少しばかり思い切りよく運転した。その日の気持ちに車は、素直に反応してついてきた。
昨日に訪れたカフェの前を通りかかると、バルコニーで寛ぐマスターの姿が目の端に入った。日向ぼっこしている後ろ姿に魅せられたからだろうか。モノカは、店に立ち寄った。
モノカが乗ってきた車を見てマスターは、確認するように尋ねた。
「もしかして、神社の娘さんですか。」
モノカは、その話し方に心が揺らいだ。
「良い車ですね。生産台数が少ない趣味の車だから、もう街中でも見かけない。」
初老のマスターは、車好きだった。父親が大事に使う古い車を羨望の眼差しで見る目が子供のように輝いていた。父親と同世代のマスターに好感を持った。モノカは、年上好みの性癖を自分でも厄介だと思いながら分かっているつもりだった。
「父も喜びます。」
モノカは、返礼して悪戯っ子のように付け足した。
「母との思い出が乗っているですよ。」
「あぁ、なるほど。……やはり、好い車ですね。」
マスターの対応が、モノカを幸せにした。
「珈琲を点てましょうか。好い豆が届いたばかりです。」
昨日は気付かなかったが、店内の片隅に掛けられた一枚の絵が目に留まった。モノカは、なぜなのか懐かしい思いに囚われた。写実よりもデザインに近い画風ながら、見る人の気持ちを虜にする力がその人物画にあった。
『……誰だろう。』
モノカは、その絵のモデルを邪推していた。記憶の淵を翳めるが、思い出せなかった。人物画の背景が近くの場所と似ているのに気付いた。そして、不意にモノカは思った。
『……わたしにも、似ているの。』
モノカの魅入られた様子が気にかかったのだろう。マスターが優しく打ち明けた。
「とても気に入っています。」
マスターが、七年前に芸術総合高校のバザーで買い求めた人物画であるのをモノカが知ったのは、季節をいくつか越えた後だった。
メニューに載せていなかったが、マスターは頼まれれば食事を作った。モノカの注文に卒なく用意した。
「凄い。上手なのですね。」
モノカは、器の盛り付けと味の良さに感心して素直な称賛を口にした。
「すみません。失礼な言い方でした。」
褒められたマスターが、嬉しそうに照れ笑って頷いた。モノカは、メニューに載せない気持ちを慮った。
モノカは、話題を変え尋ねた。
「ピアノを弾かれるのですか。」
バルコニーの片隅に設置されたアップライトのピアノの存在が多くを語ろうとしているようにも見えた。
「ストリートピアノをイメージして用意しているのですよ。」
そのマスターの考えにモノカは、思わず感嘆の声を上げた。
「素敵ですね。」
「弾きたい方に教えてあげて下さい。」
「います。一人、知り合いが。」
モノカは、キヨを思い浮かべていた。幼い頃からキヨが弾く姿に憧れた。優しく切なくさせる美しい音色にモノカは、何度も涙ぐんだ。
『……どうして、そんなに悲しいのよ。』
モノカは、幼心に思った。中学生になって多感な時期を迎えた頃、キヨの優しさの根底にある事実を知った。モノカは、それからキヨが弾く前で泣かなかったが、以前よりも深く感動した。
「……わたしに気付かせたのは、罪よ。」
モノカは、独り呟いた。
「そしてこれは、気付いたわたしの罰なの……。」
バルコニーで独り過ごす時間が穏やかだったからだろう。その日は吊り橋を渡らなかった。
帰り道にユウの家に寄ったが、その日も留守にしていた。郵便受けは開けられていなかった。ペンションに回ると、叔母とキヨが掃除をしていた。
「もうすぐ終わるから。お茶を入れてよ。」
「バイト姫は。」
「今日は、昼まで。」
喫茶店からのお土産のケーキをナオは喜んだ。モノカが車を運転しているのを感心しながらも揶揄った。
「谷に落ちたりしないでよ。末代までの噂になるから。」
「これでも、上手い自負があるの。」
「それなら、明日町まで乗せてよ。」
叔母のナオが、人の車に乗るのは珍しかった。一人の時は、バスを使っていた。
バスが一番安全と信じるナオの考えは、昔から同じだった。今になれば誰も話題にしない古い事故の噂をモノカは知っていた。
「わたしの強運を信じてくれますか。」
モノカは、自信の笑顔を向けた。
「もし旅行なら、付き合いますよ。」
数日先まで宿泊の予約が入っていなかった。