虫すだく 6 (1)

文字数 822文字

「奏凪さん、お嬢様がお風呂終わりましたから、さっさと入ってください。それから換気をしっかりしてください! 昨日みたいに湿気をこもらせたままにしとかないでくださいよ。カビたらどうするんですか? 奏凪さんにカビ取りさせますからね!」

 その日の夜、自室にこもっていた奏凪に、井上が部屋の外から声をかけた。
 まず、ドンドンとぶしつけにドアを叩く音が、次にいらだちを隠しもしない声が奏凪を急きたてる。

「ごめんなさい……」
 奏凪があやまると、
「はあ? 何を言ってるのか聞こえない! 言葉は人に聞こえるように話すもんですよ」
「……すいません……」
 怒鳴り声に萎縮し、さらに小さな声であやまったが、ドアの外にいる井上に聞こえたかどうか。

「私は今日はもう帰らせていただきます」
 一方的に言いたいことだけ言い放つと、部屋を離れていく足音が聞こえる。
 足音が遠ざかるだけで、そして井上が帰ると聞いて奏凪は安堵した。

 初めて会った日から井上という家政婦が怖かった。
 のぞむにもはっきりものを言うし、奏凪には容赦ない。
 井上はのぞむを『お嬢様』と呼ぶが、奏凪をそう呼ばない。
 それどころか、後妻の連れ子と見下し、何かにつけて小言でうるさく責めたてた。

 足音が完全に聞こえなくなってから、奏凪は下着とパジャマを抱えて、そっと部屋から出ていった。のぞむが入浴をすませた後ならば、奏凪が一日一回入ってもいいことになっている。

 のぞむは最初は犬に入浴は贅沢だと言ったが、汚いものが家の中に存在することが耐えられなかったのだろう、井上の説得に負けて奏凪の入浴を許可したのだ。

 のぞむの視界と耳に入らないよう足音を忍ばせて浴室に入り、体を洗い、浴槽につかる。
 桂木家の浴槽は、足をのばすことができた。祖母の家のユニットバスしか入ったことがない奏凪は、昔テレビで見た温泉旅館のようだとぼんやりと思った。
 温かいお湯につかっていると、こわばった体がほぐれていった。

 からりと、音がする。
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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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