虫すだく 3 (7)
文字数 939文字
その人は桂木家のはす向かいの住人だった。
「のぞむちゃんって、あなたの爪を切ってあげるんだって? えらいわねー」
「……は……はあ……?」
この人がなんでそんなことを知っているのかと、井上は唖然として、近所の主婦の口元を眺めた。
「のぞむちゃんがあなたの爪切りに失敗しても、泣いてあやまったらすぐに許してあげて、怒らなかったんだって? のぞむちゃんに聞いたわよ! のぞむちゃん、うちの家政婦さんはとても優しくていい人だって言ってたわよぉ!」
井上が絶句する番だった。
のぞむは用意周到だった。
たぶん、近隣の家々はもう知っているだろう。
罠だったのだ。
爪を切ると言い出した時に気づくべきだった。
のぞむはわざと失敗したのだ。
「のぞむちゃんは本当にいい子ね。礼儀正しいし、可愛いし、勉強も運動もできるんだって? その上、家政婦の爪まで切ってあげるなんて。ホント感心する。うちの子なんて、親の肩たたきすらしないわよ!」
「……そ……そうですか……」
なんて答えていいのかわからなくて、井上はあいまいに相槌を打った。内心冷や汗をかいた。
とまどうばかりの井上の態度に、その人はあからさまに白けた表情を見せる。
「なんか呼びとめてごめんなさい。迷惑だった?」
「そんなことは……」
「あらもうこんな時間」
取ってつけたように切り出すと、
「じゃ、ごめんください」
含み笑いを浮かべ、近所の主婦は行ってしまった。
残された井上は、立ち尽くす。
ようやく一つの結論に辿り着く。
虐げられて人が恐れ戦 き膝を折るのは、相手が己より上の者、力、そして権力を有する者、支配する側のみ。
支配される側が暴虐のかぎりを尽くし、屈服させ、立場を逆転させようとしても、支配する側からすればそれは悪あがきとしか捉えない。
力を持って支配しようとすれば、それ以上の力でねじ伏せようとする、それが主僕の理 なのである。
雇う側の考え方と雇われる側の考え方に齟齬 が生じていることを、井上がようやく悟った時には、のぞむはすでに手のつけられないところまで変化 してしまっていた。
陳列ケースの冷気に長らくさらされ、体の芯まですっかり冷えきってしまった。ひどい倦怠感に襲われた。
重い足をひきずり、買い物もそこそこに帰途に着いた。
「のぞむちゃんって、あなたの爪を切ってあげるんだって? えらいわねー」
「……は……はあ……?」
この人がなんでそんなことを知っているのかと、井上は唖然として、近所の主婦の口元を眺めた。
「のぞむちゃんがあなたの爪切りに失敗しても、泣いてあやまったらすぐに許してあげて、怒らなかったんだって? のぞむちゃんに聞いたわよ! のぞむちゃん、うちの家政婦さんはとても優しくていい人だって言ってたわよぉ!」
井上が絶句する番だった。
のぞむは用意周到だった。
たぶん、近隣の家々はもう知っているだろう。
罠だったのだ。
爪を切ると言い出した時に気づくべきだった。
のぞむはわざと失敗したのだ。
「のぞむちゃんは本当にいい子ね。礼儀正しいし、可愛いし、勉強も運動もできるんだって? その上、家政婦の爪まで切ってあげるなんて。ホント感心する。うちの子なんて、親の肩たたきすらしないわよ!」
「……そ……そうですか……」
なんて答えていいのかわからなくて、井上はあいまいに相槌を打った。内心冷や汗をかいた。
とまどうばかりの井上の態度に、その人はあからさまに白けた表情を見せる。
「なんか呼びとめてごめんなさい。迷惑だった?」
「そんなことは……」
「あらもうこんな時間」
取ってつけたように切り出すと、
「じゃ、ごめんください」
含み笑いを浮かべ、近所の主婦は行ってしまった。
残された井上は、立ち尽くす。
ようやく一つの結論に辿り着く。
虐げられて人が恐れ
支配される側が暴虐のかぎりを尽くし、屈服させ、立場を逆転させようとしても、支配する側からすればそれは悪あがきとしか捉えない。
力を持って支配しようとすれば、それ以上の力でねじ伏せようとする、それが主僕の
雇う側の考え方と雇われる側の考え方に
陳列ケースの冷気に長らくさらされ、体の芯まですっかり冷えきってしまった。ひどい倦怠感に襲われた。
重い足をひきずり、買い物もそこそこに帰途に着いた。