虫すだく 4 (5)

文字数 797文字

 
 時折、生温かい滴が両目からあふれ、目尻からこめかみへと伝っていく。その度に視界が歪んだ。

 視界が黒いものでおおわれる。煙も雨も、灰色の雲も、のぞむから隔絶された。
「顔色、悪いよ。中に入ったほうがいいんじゃないのか?」
 いつの間にか自分のかたわらに立ち、傘をさしかける矩に、視線をやる。
「風邪ひくよ」
「中に入ったら寝てしまうかも」
「寝ていいよ。終わる頃に起こしてやる」
 のぞむはクスリと笑った。
「なんか変だった?」
 矩はキョトンとする。
「前にも同じことがあったっけ。それを思い出したの」
「ああ、そうだね……」
 のぞむから視線をはずし、矩は曖昧にあいづちをうつ。

 矩が覚えていないのか、それとも別のことを考えているのか、のぞむはその時違和感を抱いた。
 井上に家を追い出された時のことを覚えていたとしても、矩は別のことを思い出している。
 二人の間には溝がある。父親に感じたような寂しさを、のぞむは矩にも感じた。

 雨脚が強くなる。
 雨粒に打たれながら、大人に連れられ、少年が一人通りすぎていった。
 傘もささず、レインコートもはおらず、壮年の男性も少年も、雨にぬれながら、黙々とぬかるみを踏みしめていく。

 のぞむは一瞬少女かと見まちがえた。体の線が細くて、肌や髪の色素が薄く、顔の作りが繊細だったから。
 横顔だからか、まつ毛がとても長く見えた。長いまつ毛に双眸は翳ることなく、真冬に凛とした月影のような光をたたえていた。
 雨雲が太陽の光を遮り、のぞむの世界を翳らせても、傘の縁からしたたる雨水に視界を邪魔されても、前を歩く男の存在がかき消されるほど、少年を取り巻く空気はほの明るく清浄だった。

 しかし、少年が着ている詰襟の学ランを見れば、彼が少年であることはまちがいない。襟元の校章は、のぞむと矩も通っていた地元の中学校のものだ。
 祭儀場には一組先客がいた。彼らはそちらの告別式の遺族か弔問客らしい。

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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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