虫すだく 5 (4)

文字数 753文字

「あの子は?」
「……うん……」
 矩の返事は答えになっていなかった。何かをこらえているようだった。
「逃げちゃったの?」
 矩は首を横にふる。
「じゃあ……」
 それ以上は言えなかった。矩があまりにも落ち込んでいるように見えて。

 のぞむは特に犬が好きというわけではなかったが、小さい頃から自分に懐いていた犬が死んでしまったことは悲しい。飼い主である矩はどれほどか悲しいことだろう。

 矩は大きく息を吐く。
「さっさとかたづけろってね、昨日いなくなったばかりなのに」
 地面に這うさびた鎖を、矩は拾い、ゴミ袋に突っ込んだ。
「おじいさんが?」
 矩の厳格な祖父らしい。そう、のぞむは思ったのだが。
 矩は首をふる。
「母親だよ。いつまでもからの犬小屋があるのが、みっともないんだってさ」
 のぞむは少なからず驚いた。
 矩の母親は優しくて穏やかな人だから、一人息子の気持ちを汲んでくれているものと思い込んでいた。

「捨てちゃうの?」
「……うん……」
 うつむいているものの、その表情が苦々しく歪んでいるのがわかる。
「じゃあ私にちょうだい」
「えっ?」
 突拍子もない申し出に、矩は顔を上げた。それから立ち上がる。
 小学生の時はのぞむと背丈が同じだったのに、今は立ち上がると、顔はのぞむのずっと上にあった。

 矩は幼なじみをじっと見つめる。
 大輪の花が開いたようなきれいな顔は、冗談を言っているようには見えなかった。

「食器がほしい」
「なんで? 犬飼うの?」
「うん。だからちょうだい」
 何かひっかかるものを感じながら、矩は一度ゴミ袋に入れた犬の食器を取り出した。
 金属製のそれは、持ち主に散々もてあそばれ、ところどころへこんでいる。傷だらけで表面も曇り、洗っていないので泥臭く、生臭かった。
 矩から食器を受け取ると、のぞむは満足そうな笑みを浮かべる。
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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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