虫すだく 3 (1)
文字数 735文字
「まるであれみたいね。なんだったかしら……ほら、細くて色も薄くて弱々しい羽の、あの虫——」
女は桂木家の一階にある和室に立ち尽くしたまま、真っ赤な唇を歪めながらそう言った。
ベージュのツーピースを着込み、黒いクラッチバッグを抱えた姿からは、香水の匂いが立つ。
「『かげろう』でございますか?」
「そうそう、それよ! かげろうみたいなんだわ」
のぞむは女ではなく『かげろう』と答えた家政婦の井上を睨んだ。雇われている家の女主人のことを『かげろう』だなんて、よくも口にすることができるものだ。
「だってその通りでしょ?」
井上はのぞむの怒気を心外だと言わんばかりにプイッとむくれ顔をした。
しかし、のぞむの鋭い目つきに気がつき、
「あら、お水がありませんね」
と、女主人の枕元に置いてあるピッチャーの水が残り少なくなっていることに気づき、それを手に取ってあわててその場を立ち去った。
怒らせると後が厄介だ。
逃げるのが勝ちであることを、のぞむが豹変した日から経験で悟った。
人の家に上がり込み、病気で臥せているこの家の女主人を見下す女と、制服を着たままののぞむだけが取り残される。
のぞむはその女に座ることを勧めはしなかった。今すぐにでも帰ってほしかった。
顔も見たくない相手、この女も我々の顔を見たくなかっただろうに、なぜやってきたのか。
のぞむの母親が危篤だと知らせを受けて、死にざまを見届けにきたのだろうか。それを許可した自分の父親の神経が知れない。
「まるでかげろうのようね」
その女は足元に臥せている女に向けて言い捨てた。言い捨てた相手はのぞむの母だが、女はのぞむに言い聞かせているのだ。
蜻蛉 は成虫になってから一日の命。
お前の母親はもうすぐ死ぬのだと。
「お帰りください」
女は桂木家の一階にある和室に立ち尽くしたまま、真っ赤な唇を歪めながらそう言った。
ベージュのツーピースを着込み、黒いクラッチバッグを抱えた姿からは、香水の匂いが立つ。
「『かげろう』でございますか?」
「そうそう、それよ! かげろうみたいなんだわ」
のぞむは女ではなく『かげろう』と答えた家政婦の井上を睨んだ。雇われている家の女主人のことを『かげろう』だなんて、よくも口にすることができるものだ。
「だってその通りでしょ?」
井上はのぞむの怒気を心外だと言わんばかりにプイッとむくれ顔をした。
しかし、のぞむの鋭い目つきに気がつき、
「あら、お水がありませんね」
と、女主人の枕元に置いてあるピッチャーの水が残り少なくなっていることに気づき、それを手に取ってあわててその場を立ち去った。
怒らせると後が厄介だ。
逃げるのが勝ちであることを、のぞむが豹変した日から経験で悟った。
人の家に上がり込み、病気で臥せているこの家の女主人を見下す女と、制服を着たままののぞむだけが取り残される。
のぞむはその女に座ることを勧めはしなかった。今すぐにでも帰ってほしかった。
顔も見たくない相手、この女も我々の顔を見たくなかっただろうに、なぜやってきたのか。
のぞむの母親が危篤だと知らせを受けて、死にざまを見届けにきたのだろうか。それを許可した自分の父親の神経が知れない。
「まるでかげろうのようね」
その女は足元に臥せている女に向けて言い捨てた。言い捨てた相手はのぞむの母だが、女はのぞむに言い聞かせているのだ。
お前の母親はもうすぐ死ぬのだと。
「お帰りください」