第14話

文字数 2,921文字

 翌朝、なぜか、春喜が看護師に怒られていた。
「ちょっと、付き添いの方、駄目じゃないですか、ここでは飲食は禁止だって言ったでしょ。しかも、パンの袋を病人の上に放り出して」
 うたた寝していたところを起こされ、しかも、見覚えのない空き袋の放置を指摘され、春喜は寝ぼけ眼でオロオロしている。
 その声に起こされたアキラは、昨夜のことを思い出し、あれは幻覚でも夢でもなかったのかと思った。視線が届く範囲でオハギの姿を探したが、どこかに隠れているのか見つからない。春喜のポケットにも目を向けたが、何かが入っている様子もなかった。
 あれは、こいつが連れてきたんだろうか。いや、いくらなんでも、病院に動物なんて、さすがのこいつでもやらねえよなあ…
 言い訳もせず、ペコペコ頭を下げながらアキラの上に放置された焼きそばパンの袋を片付ける春喜と目が合った。
「ハル、オハギ」と言ってみた。
「え?」
 春喜とアキラは互いの目を合わせ、しばらく沈黙した。
 やっぱり、あのオハギは春喜が連れてきたのか…
 甥っ子の驚く顔を眺めながらアキラは思ったが、そうではなかった。
「伯父さん、すごい、ちゃんとしゃべれてるよ。ノブさんの言ったとおり、言語障害は一時的なものだったんだね」
 うれしそうにアキラの手を握る春喜を見ていると、とぼけてるのかとも聞けない。アキラもはははと、照れくさそうに笑った。
 あの日以降、あの不思議な生き物は現れなかった。やっぱり幻覚だったのかなあと思いつつも、あんなにリアルで、しかも焼きそばパンの食べかすまで残していたのだ。春喜が何か知っているかもしれないと、尋ねてみようと思うのだが、あまりにも馬鹿馬鹿しい話にも思えて、結局、確かめることができずに、転院の日を迎えた。
 リハビリ病院までは、ストレッチャーに固定されたまま運ばれた。自分がそこまで動けない状態なのだと思うと、アキラはまた暗澹とした気持ちになった。さらに輪をかけてへこんだのは、病院に着いてからである。
 病院自体は、ものすごく綺麗で、アキラの担当になる医師や看護師、リハビリの療法士たちが代わる代わる挨拶や問診に訪れ、みんな丁寧で、親切そうだったので何の問題もない。問題なのは、相部屋の相方だった。
 病室は二人部屋で、もう一人の入院患者は、九十五才のじいさんだった。すでに一ヶ月近く入院しているらしい。この老人が少々、ボケている。認知症の診断はされていないらしいので、もともと、とぼけたジジイなのかもしれない。嘘かホントかわからないが、太平洋戦争のとき、特攻隊員だったが、いよいよ出撃というときに終戦を迎えたと、若い看護師たちに自慢げに話していた。それくらいの話なら「へえ」とか「ほお」とか聞き流すこともできるのだが、問題は、夜だった。カーテンを隔てた向こう側から、ボソボソと話し声が聞こえる。独り言というより、誰かと会話しているようだが、相手の声は一切聞こえない。時折、笑い声まで聞こえてくるのがなんとも不気味だった。
 しかしながら、この病院に転院して、リハビリを始めて徐々に自力で出来ることが増えてきたのはアキラにとって喜ばしいことだった。
 リハビリには理学療法士と作業療法士、それぞれ別の役割を担った担当者がついてくれる。理学療法士は、運動機能を回復させるための基本動作の訓練を担う。立ったり座ったり、歩いたりなどである。一方、作業療法士は、日常生活に必要な動作、食事や風呂をはじめ、字を書く、床に落ちた物を拾うなど、細かな動きができるよう支援してくれる。
 アキラが大工で、また仕事に復帰したいというと、そのために必要な訓練メニューを理学、作業、両方の面から考えてくれたので、俄然、やる気が出た。やる気が出れば結果も出るわけで、結果がでると希望に繋がる。
「伯父さん、合うたびに足とか腕の筋肉が戻ってきてるじゃないか、もう、車椅子なしで歩けるんだって、すげえな」
 春喜は、信夫の軽トラに乗せてもらい、頻繁にアキラの見舞いに訪れる。
「おう、リハビリの先生たちがよくしてくれてな、しかも俺はカンがいいらしくて、上達が早いってさ」
 得意げに話すアキラを見ながら、春喜は「先生たちはおだてるのもリハビリのうちなんだろうな」と思ったが、もちろん、口には出さない。その代わり、おもしろい話をした。
「伯父さんの脳ミソは、詰まっちまって、今まで使ってたとこはおシャカになったけど、まだ、まっさらな脳ミソがたっぷりあるんだぜ。それに、駄目になったのは脳ミソで、手足の機能は壊れてないんだ。だからさあ、その使ってない脳ミソに運動機能を使うための伝達方法をもう一度学習させることで、また、手足が動くようになるんだ。つまり、手足を無理矢理でも動かすうちに、脳ミソが、ああ、こうやって動かすのかとデータを更新するんだよ。脳ミソには、まだまだ無限の可能性が秘められてるんだ。すげえだろ」
 アキラは目をぱちくりさせ、めずらしく雄弁な春喜を眺めている。
「どうした、ハル、なんか急に、脳外科医みたいなこと言い出して」
 誇らしげに胸を張る春喜の横から信夫が茶々を入れた。
「昨日、一緒に『脳の神秘』ってテレビ、観てたんだよ」
「バラすなよ」
 春喜は、気恥ずかしそうに顔を赤らめ、恨めしげな目を信夫に向けた。アキラはガハハと声をたてて笑った。
「よっしゃ、俺の脳ミソのすごさ、見せつけてやるぜ。すぐに現場復帰してやるから、待ってろよ」
 順調に回復の兆しが見えてきたアキラだったが、それから数日後、突然、発熱を起こした。
 まさか脳梗塞の再発ではと、家族は青ざめたが、免疫の低下によるもので、医師の適切な措置と数日の安静で、症状はすぐに改善した。しかし、その、安静期間中、リハビリを中断せざるおえなかったため、熱が下がって再開したときには、歩いてもふらついてしまうほど、運動機能が衰えてしまった。
 そこでアキラは萎えた。
「結局、リハビリなんて、その程度じゃねえか。ちょっと休んだだけで元の木阿弥だ。馬鹿らしくてやってらんねえよ」
「アキちゃん、そんなこと言わないで、またがんばればよくなるよ」
「気休めはやめてくれ」
 ふてくされて布団に潜り込むアキラを眺めていた千夏は、見舞いに来た春喜と信夫を振り返り、悲しい笑顔を向けた。
「ごめんね、ハルちゃん、ノブさん。せっかくお見舞いに来てくれたのに、ずっとこんな調子で」
 春喜は布団にすっぽりくるまったアキラの背中をポンポンと叩いた。
「伯父さん、しっかりしろよ。またがんばればいいじゃないか」
 春喜の言葉に、アキラはまったく答えない。
「おい、伯父さん、聞いてんのかよ、おい」
 ウンともスンとも言わないアキラをポカポカ叩く春喜の手を信夫が引き戻した。
「ハルちゃん、今日は帰ろう。こうなっちまったら、こいつは意地でも動かねえ」
 信夫に諭され、春喜は後ろ髪を引かれる思いで引き上げていった。
「千夏、お前も帰れ」
 布団の中から聞こえるアキラのくぐもった声が涙ぐんでいることを察した千夏は、「わかった、じゃあ、お洗濯だけして帰るね」と、できるだけ明るい声で返した。
 隣のベッドからチチチとか細い鳴き声が聞こえた。
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