第13話

文字数 901文字

イギリスで痛い思い出ある私だが英語の力も昔よりついたし、病状も落ち着いている時期だったので勇気を出して家族にサマージョブで賞味六カ月の就労するという留学がしたい、と正直に話した。両親は考えた末、まずは病状も安定しているし、主治医が薬を多めに出して母親が受け取って足りなくなる前に航空便で薬を送ることにするという策がとれることが分かり私のわがままを聞きいれてくれた。アメリカの同時多発テロが起こったあとのいちばん安いアメリカンエアラインに搭乗したことはよく覚えている。行きは海外旅行がてら母と次女の姉がアメリカまで一緒だった。初めの三泊くらいは一緒にサンフランシスコや見て回ったり、ヨセミテ国立公園までガイドと観光したりと良い思い出となった。カリフォルニアの北のほうで就業が決まっていた。母と姉とは途中で別れた。就業先はアメリカではっきり伝わる私の仕事内容としてはカーニバルのチケット販売と案内所係でよいと思う。カーニバルは屋外の広い公園の空きスペースに観覧車やメリーゴーランド、ティーカップ、ゴーカートなどの遊園地でのアトラクションを一日で組み立ててしまい、一週間はその土地に滞在して、そのあとまた別の公園に移る、というような移動型遊園地のことであった。カーニバルで働く人の身分は以上に低い。はっきりいって差別されている。支払われる賃金も低い。狭いトレーラーハウスに何人も泊っている。トレーラーハウスも何十台もあった。働いている人はインディアンであったり、黒人であったり、更生者であったり、移民と貧困国からの出稼ぎ留学生だ。このカーニバルでサマージョブの制度を利用して十人の日本人が就業していたが私が就業に着くトップバッターだった。

 初のアジア人の就業で皆驚いていた。しかも日本人ということで出稼ぎ留学生は本当に意外に思っていたらしい。出稼ぎ留学生の出身国はスロバキアがもっとも多く、ついでポーランド、ブルガリア、ベルギーだった。彼らの英語はとても上手だった。アメリカのいい加減な団体が仲介に入りさらに日本の代理店を通していたので私たち日本人が語学不足という基準でそのような仕事が斡旋されたようだった。
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