第34話 次元を超えるとはこういうことです。

文字数 4,337文字

 白夜、針間、南、勝己は研究施設の中に入れてもらい、前にも案内された一室に来ていた。特殊な装置が置かれたその実験部屋は、奥の窓の下を覗き込めば、椋谷と暁と春馬がそれぞれ閉じこめられている白い正方形型の部屋を一望して観察できる。見下ろした針間は、その下の惨状に顔をしかめて言う。
「一条家坊ちゃんのおもちゃ箱ってところか」
 瑠璃仁は針間の挑発を無視してホワイトボードの脇に立つ。
「みなさん、席に座ってください」
 針間含め全員が適当な位置に着席。
「この絵を見てください」
 ホワイトボードには、三つの立方体が大きくいっぱいに描かれていた。端にドアも描かれてある。これは今、治験を受けている三人を表した模式図だろうか。
「三つの箱にそれぞれ閉じ込められています」
 丁寧にも、椋谷、暁、春馬それぞれを真似た、へたくそなぬいぐるみのマグネットが立方体の絵の中に置かれている。
「通常、彼らがこの立方体の中から出るためには、このドアの鍵を開けてもらわなければなりません。でもそれ以外に彼らが外に出る方法があります。それはなんでしょう? はい、そこの男の子」
「あうう、はいっ」
 唐突に瑠璃仁に指名されて南がたじろいだ。律儀にも起立する。
「う……。その箱の中から、出る方法……ですか? うーん……そうだなあ……」
 注目を浴びきょろきょろと辺りを見回しては助けを求めていたが、やがて意を決したように、しかし小さな声で答えた。
「壁をこわす……です」
 しーんと静まり返る。痛いような沈黙。
(いや……さすがに、その答えは、どうなんだ……?)
 ひねりがなさすぎて、白夜は的確なリアクションも思いつかない。しかし、
「ふむ。とてもいい発想ですね。着席してください」
 その空気を打ち壊し、にこっと瑠璃仁は微笑む。南はほっと胸をなでおろし、晴れやかな顔で着席した。
(あれ……そんなことで、いいのか……?)
「たしかに僕は壁を壊してはいけないとは言っていませんでしたからね。――それでは、壁を壊さずに外に出る方法はありませんか?」
 仕切り直す瑠璃仁に、ああ今のは子供を泣かさないための大人の対応だったのだろうか、と白夜が思ったときだった。
「あるわけねーだろ、バーカ。つーか、なにに付き合わせられんだ?」
 針間が頭の後ろで手を組み、背もたれにもたれて言う。
「僕の行っている実験の概要説明ですよ。さ、誰もいないようですので正解を発表します」
 瑠璃仁は椋谷のマグネットをぺらっとはがし、立方体の図の外にまたくっつける。
「はい、出ることができました」
 意外にも、正解は負けず劣らずつまらないものだった。
「えー、そんなのは反則じゃない?」
勝己が声を上げる。白夜も同感だった。これじゃ南よりもさらにひねりがない。
「僕は今、三次元に限るとは定めていませんでしたよ」
 瑠璃仁は予定調和の笑顔で説明を加える。次元――白夜はいつか庭で、数学書を片手に持った瑠璃仁に、次元にまつわる不思議な話をしてもらった日のことを思い出した。
「このマグネットはこの立方体の外に出ました。四次元方向から通り抜けて」
「まったく意味不明だな」
 針間が言う。白夜も理解できたわけではないが、だがおそらく何か意味があるのだろうと予感した。
「そうですか? では次の例ならどうでしょう」
 そう言って瑠璃仁はホワイトボードに描いていた立方体の図を消す。椋谷たちのマグネットもはがした。そして新たに貼り付けたのは、下敷きのように薄いカードタイプの四角形のマグネット一枚と、三角形の小さなマグネットだった。三角形の小さい方は、ぺたん、ぺたん、ぺたん、と三枚貼られた。
「この正方形は、縦と横の概念しかない二次元の住民ということにしましょう。我々が高さとか奥行きと呼んでいる方向を知らない二次元人です。この二次元人の気持ちになってみてください。つまりはこんな感じでしょうか」
 そう言って瑠璃仁は、ホワイトボードの両脇の留め具を外すと、くるりと裏返すようにして――半分で止める。直立していたボードが卓球台のように、水平に倒された。
「この子は、今は自由に動き回れます」
 瑠璃仁は正方形のマグネットを引っ張ってすいすいと動かす。
「しかし、僕がこうして線で囲ってしまったら――」
 そう言って、水性マジックのキャップを外すと、正方形の周囲をぐるっと一周、線を書き加えた。
「檻に閉じ込められて、出られなくなってしまう。ちなみに、こうなってしまうと他の二次元住民からは四角形の姿は見えませんよ。僕の書いてしまったこの黒いマジックペンの壁が見えるだけです」
 瑠璃仁は視線の高さを、水平のボードに合わせた。ちょうど、正方形の薄っぺらいマグネットを真横から見た状態だ。もし高さの概念がないなら、周囲を線で囲まれただけでも正方形の存在はその中に隠されてしまう。瑠璃仁はスポンジイレーサーで正方形を囲っていたマジック線を消した。横から見た正方形が出てくる。
「この二次元の世界では、密室と言えばこういう線の囲いのことを言いますし、貴重品などはこうして――」
 瑠璃仁は今度は小さな三角のマグネットをぐるっと線で囲う。
「――周囲に塀を作って鍵をかけて保管しているわけです。こうすれば、他人からは見られませんからね」
 そう言って瑠璃仁は視線の高さを戻す。
「ですが、これで安心しているのは二次元の住民だけです。三次元の僕たちからすれば、線で囲っただけのこの三角のお金なんて、丸見えですよね。何枚入っていますか? はい、白夜さん」
「えっ、あ――」
 突然指名され、白夜は反射的に答える。
「……と、三枚です」
「正解です。では前に出てきて、この壁――マジックの線に触らずに、壊さずに、三角マグネットを取り出してください」
「は、はい」
 なんだか学生時代に戻ったみたいだ。白夜は水平に倒されたホワイトボードの傍まで行って、三角形のマグネットを指先でつまんで、マジックで書いた線=壁に触れさせずに、外へ出してみせる。
「はい。よくできました。席に戻ってください」
 ホワイトボードの面を、床に対して垂直に戻しながら瑠璃仁は続ける。
「僕たちからすれば別に、線を取っ払う必要なんてありませんからね。当然のように“上”から、見えるんですから。でも、今の現象、二次元住民からしてみたらとても不思議だったことでしょう。出られるはずのない壁の中から外へ、通り抜けたように感じたはずです」
 白夜は二次元人の気持ちを想像してみた。たしかに、前後左右だけの世界で、上下の概念がない人にとってみたら、線という壁に囲まれることは、それを壊さないと出られないということなのだろう。にもかかわらず、線――壁を壊さずして中のものを外に出せたら、その現象を不思議に思うのかもしれない。
「そこで、最初の問題に戻るわけです。ほら、いいですか。立方体の中に、これは椋谷くんマグネットですね。入っています。これを、壁を壊さずに、外へ出すには?」

 立方体の箱の中から、壁を壊さずに外に出るには――。


 二次元の場合は、線の壁に囲まれた中から、線の壁を壊さずに外に出る方法があった。そう、三次元方向に取り出せばいいのだ。線なんて、高さはゼロだ。ひょいとつまんで持ち上げてやれば、なんてことなく外に出すことができた。


 それじゃあ、三次元の箱の中のものを、壁を壊さずに外に出すには――?


 上下左右、それから前にも後ろにもにもぶつからない、もっと別の、立体物の構成要素とは違う方向に、ひょいとすり抜けるように移動させればいい。つまり――

「四次元方向から、取り出せばいい」
 白夜の回答に、
「その通りです、白夜さん」
 瑠璃仁が拍手を送る。
「へええ……わ、わかるような、わからないような……」
「……」
独り言をこぼす南。針間は腕を組んで黙って聴いている。
「では、三次元に囚われているあなた方を四次元の方向に解放してあげましょう」
 そう言って瑠璃仁は今度は白紙を数枚取り出すと、鉛筆と共に回し配る。
「まずはこんなグラフを書いてください」
 瑠璃仁はホワイトボードに「*」というアスタリスクマークのように交差する三本の線を大きく書く。それぞれ上と右、そして奥向きの矢印にする。y、x、zという記号も添える。x軸とy軸だけなら、数学の授業でよく書いた。それにz軸が加えられている。縦と横と奥行きそれぞれの軸ということだ。
「書けたら、この軸に従って、立方体を描いてみてください」
 これに沿って空間を意識しながらサイコロの形を描けばいい。簡単だ。全員が鉛筆を置くと、瑠璃仁が笑顔で言った。
「みなさん正解です」
 なんてことない。グラフの上に立方体を描いただけだ。
「では、問2。x、y、z軸に直角に交わるt軸を加えてください」
「書けるかよンなもん」
 針間が即答して鉛筆を置く。白夜はまずはやってみようと頭をひねってみる。
「うーん……こうかなあ」
 しかしたしかに、四本目の軸というのは原点に対しどの角度から挿し込もうと、他の三本の軸と直角つまり九十度ではなくなってしまう。針間の言う通り、たしかに書けない。おそらく正解は、四次元方向からt軸を挿すということなのだろうが――三次元に生きている限り、図に書くことはできない、というのだろう。だが、脳内で理論上のt軸を書き加えるのだ。うまくイメージが追い付かないが……白夜が四苦八苦していると、
「別に書けとは言っていませんよ」
「あ?」
 あっけにとられた針間とともに、白夜も瑠璃仁に視線を向ける。
「僕はできました」

 瑠璃仁はそう言って紙に鉛筆を突き刺した。穴の開くときの、紙の破れる音が響く。

「はい。こうです」
 図を紙ごとまっすぐ貫いた鉛筆。それをひょいを振ってみせる。
「四本目の軸は、この鉛筆です」
 x、y、z軸に沿って描かれた立方体の図の書かれた紙をまっすぐ貫く鉛筆。
「次元を超えるというのはこういうことです」
 紙面に描かれた立方体の絵にばかり囚われていたが、言われてみれば確かにこれなら問題ない。貫き挿した鉛筆自体をt軸とするなら、紙に書かれたx軸y軸z軸の三本すべてに対して直角に交わる。
(なるほど……!)
「つーか、これとこの実験と、なんの関係があるんだ」
 吠える針間に、白夜も今の状況を思い出す。
「こんな感じにね。彼らの脳天に、軸を突き刺すってことですよ。認識、つまり精神そのものをありえない方向から変える――ま、少しは苦痛を伴うかもしれません。しかし、それにより得られるものには比べるべくもない」
「テメーでやってろ」
 そう言って紙をびりびりに破る針間。瑠璃仁はその行為を見つめた後、静かに言う。
「いいえ、僕自身では病気が邪魔で実験にならないでしょうから」
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登場人物紹介

かとう はくや

加藤白夜

一条家の専属看護師に転職。理想の看護師になるため、愛長医大を去った。

いちじょう るりひと

一条瑠璃仁

「境界失調症」患者。精神科医が邸に往診している。数学書を読んでいる時だけ幻聴がきこえない。

はりま りく

針間俐久

愛長医大に勤務する精神科医だが、情け容赦のない鬼として医療従事者や患者からは恐れられている。

いちじょう いお

一条伊桜

「不明熱」患者。小学校六年生。春には卒業を控えている。一条家末っ子令嬢。

みなみ そうた

南 颯太

愛長医科大学病院精神科外来唯一の「白衣の天使」。白夜の「強さ」に憧れている。

やとり あきら

矢取 暁

一条家に代々仕える矢取家の長男。勝己を慕っている。プライドが高い。

いちじょう りょうや

一条椋谷

一条家使用人で下働きをしている。勝己達に対し仕事中にもタメ口が黙認されている。

わたなべ はるま

渡辺春馬

一条家庭師。優しく穏やか。瑠璃仁の世話をよく担当している。

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