第38話 そして人生の夢になったのです。
文字数 2,793文字
瑠璃仁は、真っ直ぐ射抜くように両の瞳を白夜に向ける。
白夜は、あまり人には言わないようにしていたことを打ち明けてみた。瑠璃仁はきょとんとして、「わお」と声を上げる。
納得するような、ますます不思議に思うような瑠璃仁に、白夜は付け加える。
「はい。……って言っても、親父はほんと、ロクな医者でもなかったんですけどね……あははは……」
「ええ、もう。自分は父子家庭で育ったんですけど、父親は未婚で……物心ついて、同級生と自分の家庭を比べて、どうして自分には母親がいないのかって質問すると、俺が産んだーなんて、そんな理由で通されたり……なんて」
おかげで医者の息子にもかかわらず間違った生物学的知識のままずいぶん長くいた。
「それに、今はどこで何しているのかも知らないし……あの人に育てられたとは、自分では思っていませんから」
「はい、それは、ええと、あんまり人には言わないようにしているんですが……」
苦い記憶だ。
医者としても、父としても、人としても、――本当に最低な人だった。
仕事が多忙なのはわかる。未婚なのも、何か事情があったのかもしれない。でも――
✿
壁は手作りの折り紙とちぎり絵で彩られ、季節ごとに新しく替えられていた。
毎日のように、おもちゃの車のクラクションと、戦隊ヒーローの電子絵本からの効果音、それから赤ちゃんの泣き声が鳴り響いていた。
そこはにぎやかな小児病棟の八人部屋だ。
「なかない! なかない! いたいのいたいの、とんでけー!」
「えーいいじゃんケチ! どうせヒマなんだからあーねえ買ってよー」
幼い患者も、若い親も、看護師も、みんながエネルギーに満ちていた。ある者は、やがて過ぎ行く非日常を楽しみながら、ある者は必死に生きようとし、ある者はそんな姿を応援した。
窓際の一角を除いて。
「朝ごはんも食べてなかったわねー。どうしてかなー?」
「そんなんじゃ、栄養失調に、なっちゃうわよ~~?」
(本当に病気で入院している子や、一生懸命看病に当たっている看護師さんに対して申し訳なく思う必要もなく、父さんに捨てられたなんて思わなくてもいい!)
「ねえ、どうやったら病気になれる? 治し方知ってるなら、病気のなり方も知ってるんでしょ。教えてよ、看護師さん」
ぼくは、本当は病気じゃない。
ぼくは健康だ。
健康なのに、どうしてぼくはここにいるの?
どうして誰も、迎えに来てくれないの?
そんなの答えなんてわからない。――知りたくもない。
だったら、病気になりたい。
ここにいる、理由をください。
「あらあら。病気になりたいなんて思う子はねえ~……」
それを聞いた看護師は、ツカツカツカと、靴音を鳴らしてにじり寄る。
悪いこと、言い過ぎたかな。
悪いのは、病気でもないのにここにいる、ぼくなのに。
お腹が痛くなってきた……。……あ、やった、病気かな?
「ホントにあるのよ? ミュンヒハウゼン症候群っていうんだから」
「でも、ここにいる子は、健康を目指さなくちゃいけないの」
それは、看護師のお手伝いだった。
小さい子も多くて、俺は時間の許す限り看護師の真似事をした。
今思えば、子供のお手伝いみたいに、看護師の手間ばかり増やしただけかもしれないけど、俺はそこで自分を受け入れられて、自分も役に立てていると思えて、心からここにいてもいいんだと思うことができて、やっと安定したんだ。
それは、ひきはじめていた心の病気を治すための、本当のリハビリだったのだと思う。
自分の病みかけた心を救ってくれたのは、優しい看護師さんだったから。太陽のように眩しくて、ぽかぽかと暖かくて、その輝きに憧れて、自分もそんな看護師になることが、人生の夢になったのだ。
✿
そこまで話して、白夜は一時中断した。針間が入室した。
儚く微笑む瑠璃仁の下、針間は落ちている瑠璃仁の白衣を拾い上げる。
なんだろう。ここでは言えないようなことなのか。診察の後、白夜は瑠璃仁に断って針間の後に続いて外へ出る。
「まだ俺が研修医のころの話だ。外科で研修医やったときに、いた」
そうか、同じ医者として――そういうこともあるだろう。
「家庭との両立だとかの話になったときに……言っていた。息子は母親の元に、預けている、と」
「自分の都合で、母を名乗らせてやれなかったことへの、せめてもの償いだと」
白夜には、母親に育てられた記憶なんてなかった。病院に入れられて、学校は院内学級で、母親は、看護師に求めたんだ。
本当の風邪を引いた時、ほとんどつきっきりで看ていてくれた人がいた。長い眠りから覚めてもまだ、手を握ってくれていた人が。白夜はそのとき、ああ、俺もこんな看護師になろう、って決めたのだ――。
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