第14話 精神科医の針間先生は鬼畜で冷徹なことで有名でした。
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針間医師は時間に厳しい。というか、時間に対してケチだ。それは看護師に対してだけではない。たとえば診察時、
「家を出た後、ちゃんと玄関の鍵を閉めたか、何度も確認しに帰ってしまうんです。出勤することさえままならなくて――」
などと患者が必死に病状を説明しようとしても、
「ええっ、そんな簡単に……。これ、精神薬ですよね。えっ、量もこんなに多いの……?」
「で、でも、これ飲むと、性格とか変わっちゃうんでしょうか……? 大ざっぱになるとか? ほら、僕の性格上の問題かもしれないし……。僕が僕じゃなくなっちゃうのかなあ……。僕の努力不足なのかもしれないし……」
「は、はあ……そんなもんですかね」
有無を言わせぬ針間。
「わかりました……」
患者は腑に落ちないような表情で帰っていく。いつもこうだ。
続いては、三十半ばの黒縁眼鏡が重たいサラリーマン。
針間の診断にすかさず、
「いえ先生、その薬は違います」
と口を挟んでくる。
「でも、調べると違うって出てくるんです」
針間の訂正に、彼は自分の努力が報われたような笑顔と、ほんの少しの、医者を見下したような視線を向ける。だが針間は、それを見越したように、
「えっ」
「……なぜですか?」
「ええまあ、はい」
「は、は……!?」
針間は机上に散乱させていた医学書を数冊ひっつかんで積み上げていく。
「ちょっと、こんなには……読めませんよ。僕は医者じゃないですし……」
「……。で、では! わかりやすく説明して下さると……」
「なっ……! なんだと」
そのサラリーマンはあまりのことにぶるぶる震えると、くるっと向きを変えて、行ってしまった。
白夜はあわてて追いかける。
「まったく、なんて医者なんだ! あんなやつ信用できん」
顔を真っ赤にしてぶつぶつと文句を独りごちている。
「ふん! そんなのいらんよ!」
ピシャリと言われてしまった。ご立腹だ。こうなってしまっては、なすすべなどない。白夜は仕方なく、そのまま診察室へと戻る。
今度は女性が、ハンカチで目元をぬぐいながら涙の訴えをしていた。
「――結婚を約束していたのに、私、突然の別れで、もう、どうしていいかわからなくて……。ご飯も喉を通らないし、一か月で五キロも痩せたんです。彼のことを殺してやりたいくらい憎く思うことだってあります。最近、自殺だって考えるほどで、まずい、どうしようって思って、私――」
針間は表情一つ変えずに言い放つ。
「っ!! でもっ、き、聞いてくれたっていいじゃないの……っ。ここ、精神科なんでしょ!?」
「なっ」
針間のあまりの言い様に、彼女は声を失い涙までぴたっと止まった。針間はもちろんそんなことお構いなしに、カルテ入力画面をさっさと閉じる。
「ふ、ふんっ。こんなとこ、もう二度と来ないわよ!! 気分悪いわっ」
女性は憤慨し、どしどしと足音を立てて帰っていく。実際、もう二度と来ないだろう。よっぽど手ひどく振られたのだろうに、助けを求める場所を間違えて、さらに追い打ちをかけられて……
白夜が苦々しく思っていると、
白夜は急に振られてあわてて、予約患者リストを参照する。診察が一人終わるたびに名前を線で消しているリストだ。
針間は腕時計を見ながら、満足げにふんふんと頷いてどっかりと背もたれにもたれる。
耳を澄ましてみる。中待合、誰もいないよな……? 患者に聞こえていないだろうか。
隣の診察室との仕切りも薄い。あーもう、若槻先生に聞こえてないか……? 隣室の若槻ドクターは針間先生と年も同じくらいで、犬猿の仲だ。
ようやく診療時間のピークを乗り切り、夕暮れ時。
予約時間の遅い患者を待つ間、医師は病棟に戻り、白夜は休憩室で遅い昼食をとっているときだった。
「やだなあ。明日針間先生の担当だアタシ……」
シフト表を眺めながら、憂鬱そうに先輩看護師が呟いていた。針間医師は女、子供も関係なく容赦しない。白夜は彼女に近づいて提案してみた。
「ええっ?! いいの?」
白夜は、今までも何度も替わってあげていた。
「ありがとう~~っ。今度、なんかおごってあげるからねっ」
涙ながらに感謝されるが、別に恩を売るためではない。
そこまで考えてから、思考を停止した。背伸びして歩こうとするような違和感があった。
おそらく、どこか付き合いやすさを感じているからだろう。白夜は冷静に理解していた。針間医師は仕事の方針がわかりやすいのだ。正確に、効率的に。言葉は心触れあうコミュニケーションツールではなく、ただただ情報を伝達するのための手段に過ぎない。感情論は外。正論が全て。バッタバッタとなぎ倒すような捌き様。看護師はとにかく、役に立っていればそれで文句は言われない。先生様お医者様とおだてる必要はなく、正しい指摘は遠慮なく言うことを歓迎される。効率優先――そういうところは白夜にとって、時に気楽な相手だった。
先輩が出ていったのと入れ違いに、南が入ってくる。手には鉛筆が握られていて、昼食を取りに来たわけではなさそうだ。
っと。こっちにも、自分がついていなくちゃいけないんだったか。まあ仕方がない。
泣き腫らした瞼に苦笑しつつも、めげないところには素直に感心する。昼食は中断し、予診室に移動してパソコンを起動。要点整理なんかは白夜の得意分野なので、すぐ終わるだろう。起動を待っている間、朝、針間にガツンとやられたことを思い出したのか、南は途中で泣き出してしまい、
ハンカチをポケットから出して涙をぬぐっている。
え~~んと大声で泣き出してしまったので、白夜は頭を撫ぜてやる。
長くかかりそうだ。弁当、休憩室から持ってこればよかったなあ。
たわいもないことを話していたら、南も持ち直してくれた。話している間に、手元で書いていた要点整理のためのポイントメモを手渡す。
またもや、しぼみ始める南に白夜はあわてて言う。
大量の予約患者をなんとか捌いたと思ったのに、おまけつき。白夜の呼び出しに駆け付けた針間は、診察と応急処置自体はなんとか無事に終わり、白夜の方も入院手続きも一段落。今はひたすら針間の文句や愚痴を聞かされていた。
針間は子供みたいに椅子をぐるぐる回している。
押し黙る針間。
動脈血採血は通常の採血とは違い、静脈に比べて深いところを流れている動脈から血を採るので、血管を見つけにくくまた神経を損傷するリスクも高く難しい。止血まで医師がやることもよくある。
動脈採血を看護師にやらせるのは限りなく黒に近いグレーゾーン。緊急時は仕方がないが……さっきのはどうみても単なる丸投げだと思う。
一転して涼しげな声で肯定する針間を訝しく思うと目が合った。そこには、にいっと加虐的な笑み……嫌な予感がした。
そんなことになったら最悪すぎる。
だって――あれ普通の採血よりずっと痛いんだぞ!?
業務上の必要性を盾に憂さ晴らしされたらたまったもんじゃない。
第三診察室を出ると、南とばったり出くわした。
息を潜めて、カーテンの隙間からじっと見つめていたらしい。
尖らせた口から羨ましげな声が上がる。