第17話 日常にはなじみつつありますが。

文字数 2,445文字

 ひと月が過ぎた。ここでの生活もだいぶ慣れてきた。朝は鳥よりも早く起きて、厨房へ。椋谷と共に朝食の準備に加わる。日が昇ってきた頃には白夜はそこを抜けて、伊桜と瑠璃仁の血圧測定、検温。
「伊桜様、朝ですよー」
 厚手のカーテンをシャッと開ける。白い光が伊桜の顔にかかる。
「んにゃ……」
 光を避けようともぞもぞする伊桜を許さず追撃をかますように、カーテンを脇へ束ねていき、縛る。そして伊桜があくびしたのを見逃さず、すかさず体温計を舌下に差し込む。
「離さずくわえていてくださいね。また五分後に来ますから」
「ん……。スー……」
 伊桜はなかなか起きてくれない。それでも日々の生活リズムを保つよう担当医にも言われているので、白夜は頑張って起こし続けるのだが、長くなってくるとぐずるというか怒り出す。そこで白夜の編み出した方法の一つが、この口腔式体温計を使うことだ。一度起こして、口にくわえさせたらすぐ退室する。で、また起こしにくる。もともと、口腔式の方が正確に測れるので、体温計を他の患者と使いまわす必要がないならこっちで統一した方がいい。主訴が不明熱の彼女の場合はなおさらだ。しかもお利口なことに、伊桜は意外とちゃんとくわえていてくれる。その頑張る意識のおかげか、少しだけ寝起きも良くなった。
 その間に瑠璃仁を起こしにいく。伊桜は明らかに寝起きが悪いが、かといって瑠璃仁はいいというわけでもない。彼の場合は、何事もなく目を覚ましてくれたと思ったら「ああ、おはようございます。今朝は寒いですね」などと会話までしておいて、白夜が退室するや否や静かに二度寝しているといった調子だ。最初のうちは白夜もよく騙されて、あとで暁に「瑠璃仁様がまだお眠りでした。ちゃんと起こしてください」と叱られた。瑠璃仁は煙に巻くのがうまいのだ、と白夜が気づくのに時間がかかった。見事なものだ。
 伊桜に体温計をくわえさせたら瑠璃仁を起こしに行き、瑠璃仁が(欺くためにでも)とりあえずは起きたら、また伊桜を起こしに行って血圧を測定し、伊桜がだんだん不機嫌になってきたら素直に引き下がって、再び寝ている瑠璃仁の元へ行って検温、血圧測定をして起こし(彼の検温は普通に腋下検温だ)、その次にまた三度寝に入ろうとする伊桜を起こすといった流れにするとうまくいくことがわかった。
(まあ……住み込み看護ならではの、スキルだよな……)

 四六時中傍につくってこういうことかと、なんだか呆れもする。でも、四六時中患者のことを考えている自分は嫌いではなかった。伊桜の点滴剤の管理はもちろん、食事の管理と解熱剤投与の監督、瑠璃仁が出かけるとなればその準備を春馬と手伝ったり。瑠璃仁は昼の間は幻覚に悩まされながらも会社経営の仕事をこなそうとするのだ。二週に一度は担当医の往診があって、白夜は若槻ドクターから、本人のやりたがることは仕事でも学業でも止めないでほしいと言われていた。ただし、目の行き届く一条研究所以外の場所まで外出する際は必ず付き添うように言われている。


 看護師としての手が空いたときは邸の簡単な手伝いに回ることもあった。だが伊桜や瑠璃仁に何かあって自分を呼べば、手伝いが途中でも放り投げて最優先で二人の元にすぐに駆けつけるよう暁から伝えられている。二人専属看護の特権であり、義務だそうだ。


 常駐している矢取家の「おかえりなさいませ」という声が聞こえてきて、一条の誰かが帰宅したことがわかった。白夜もシーツ交換を中断し、玄関まで出迎えにいく。コの字型の中に作られた中庭を横切るとき、赤い夕焼け空が遠くまで見えた。

(もう夕方か)
 広大な庭に続く中庭の夕暮れ時は、なんだか山の中で火を焚いてキャンプでもしているような気分になる。日差しの入る昼は緑の真ん中でピクニックをするように、雨の青い朝は海の底の水族館のように。どの時間、どの空気も、外の世界をそれぞれ美しく豊かに感じられるように邸が設計されている。もちろん、ガラスがいつも曇りなく透明に手入れされているのは前提条件だ。
「春馬は?」
「焼却炉におります。呼びましょうか?」
「ううん! 行ってくる!」
 矢取のお手伝いさんを振り切って、瑠璃仁は嬉しそうに庭の方へと走っていく。元気そうな瑠璃仁に安心し、白夜は持ち場へと戻った。


 ✿


 夕刻の燃えるような空の下、春馬は一条家の専用焼却炉で落ち葉を燃やしていた。高く突き出た煙突からの煙は、赤い空に似合っていて、長いこと眺めていても飽きなかった。

「あ……」
 足元に長く伸びてきた影に、春馬が気付いて顔を向けると、
「おかえりなさい。瑠璃仁さん」
 景色が消えた。
「春馬! 春馬、聞いて!」
 おや……いつにない、心晴れやかな顔だ。小走りにこちらへ向かってくる。春馬は持っていた熊手をその場に置いて、歩み寄る。
「どうしたんです?」
「気付いたんだよ!!」
 胸に飛びこまんばかりの喜びに、こちらまで嬉しくなる。
「どんなことに気付いたんですか」
「すごいよ! 人類史における大発見だ!」
 こんな風に無邪気に笑う瑠璃仁は久しぶりだった。

 春馬は急いで瑠璃仁の部屋に戻り、暖房を入れてから、厨房へ。常に沸かしている湯で、お茶を淹れて持っていく。瑠璃仁がこうして喜んでいるのは嬉しかった。本当に嬉しかった。いったい、何があったのだろう? どんなことが、こんなにもこの方を喜ばせてくれたんだろう。春馬は思った。どんなことでも構いません。ありがとうございます。心から、感謝します。


 春馬のご主人様は、苦しんでいることの方が圧倒的に多い。病気だから? 嫌なことがあったから? 原因が何であれそんなとき、自分まで苦しくなる。なんとかして元気づけてあげたくても、一使用人でしかない無力な自分にはどうにもできないことの方が多い。もがくようにして、瑠璃仁の傍に行って、一緒に泣くことしかできない。助けてあげられたらいいのに、その力が自分にはない。


 だから、瑠璃仁が笑っているとき、春馬は幸せだった。

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登場人物紹介

かとう はくや

加藤白夜

一条家の専属看護師に転職。理想の看護師になるため、愛長医大を去った。

いちじょう るりひと

一条瑠璃仁

「境界失調症」患者。精神科医が邸に往診している。数学書を読んでいる時だけ幻聴がきこえない。

はりま りく

針間俐久

愛長医大に勤務する精神科医だが、情け容赦のない鬼として医療従事者や患者からは恐れられている。

いちじょう いお

一条伊桜

「不明熱」患者。小学校六年生。春には卒業を控えている。一条家末っ子令嬢。

みなみ そうた

南 颯太

愛長医科大学病院精神科外来唯一の「白衣の天使」。白夜の「強さ」に憧れている。

やとり あきら

矢取 暁

一条家に代々仕える矢取家の長男。勝己を慕っている。プライドが高い。

いちじょう りょうや

一条椋谷

一条家使用人で下働きをしている。勝己達に対し仕事中にもタメ口が黙認されている。

わたなべ はるま

渡辺春馬

一条家庭師。優しく穏やか。瑠璃仁の世話をよく担当している。

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