診察椅子にちょこんと座った小学生の女の子は、目に涙を溜めて針間を見上げる。首にはコルセットがはまっている。針間はその後ろに立つ母親に向かって、
「それで……。その、本を読んでみたら、子供が成長すれば自然に治ることもあるって書いてあって……」
冷ややかな視線に黙り込む母親。すっかり委縮してしまっていた。
「……っ……ごめんなさい……ごめんね、美羽……」
彼女は、睡眠時遊行症――通称、夢遊病だ。眠っている状態で起き出し、眠ったままふらふらと行動してしまう。その時のことは、本人はまったく覚えていない。患者・山内美羽は、それで家を出て道を歩いていたところで事故に遭ってしまった。幸い、命に別状はなかったが――。
「でも、ちゃんと見てたんです私……。夜も、昼も……寝ずにちゃんと見ていたんです……」
「違う! あなたが現実逃避したからだ! まだわからないのかっ」
うっ、うっと、泣き出す母親。すると、子供が立ち上がり、言った。
「おまえがお母さんをいじめるから、こんなところ来たくないんだ!」
――相当な勇気を振り絞ったのだろう。
だが、針間は容赦なく続ける。
「じゃあ、子供は母をいじめる精神科医から母を守りました、母はそんな愛しい我が子を寝る間も惜しんで見張りました。ある夜、とうとう限界が来て母親がちょっと居眠りをした時に、ふらふらと眠ったまま家を出た子供は、車に轢かれて死んでしまいました。ああなんて美しい親子愛」
皮肉たっぷりの言葉だった。母親は目を真っ赤にして、子供の手を握って、何も言い返さず診察室を出ていく。針間は追撃するように、
「次回予約は二週間後にとっておく。別に来なくてもいいぞー。そのうち、こんな悲しい美談を、俺に聞かせに来るんだからな。どうせ!」
「針間先生、さすがに言いすぎじゃないですか!? 放り出しちゃまずいですよ、あの親子……」
「待ってください、ちょっと追いかけて見てきます――っ!」
ギロリ、と視線に射抜かれる。それを跳ね返せるほどの自信は、白夜にもない。
「……わかりました。では次を入れた後で、ちょっと、説明してきます」
南だ。話を聞いてくれているようだ。助かった。ここは……あいつに任せよう。
針間がトイレに席を立った隙に、白夜は急ぎ足で待合室に向かった。まだ、いるだろうか。睡眠時遊行症で、夜な夜なふらつき歩いて交通事故に遭ってしまったあの親子――。
落ち込むようにして、待合通路の壁際に立つ女性がいた。
母親はさっきのことを恥じる様に、弱々しく笑みをみせる。
あれ、娘さんはどこだろう?
白夜は思わず謝ったものの、診察時に針間の言っていたことは、紛れもない事実だった。誤診しているわけではない。誤診どころか、命を守る為の正しい導きだ。
「あの、針間先生は、ああみえて……あなた方の為を思って、言っています。娘さんのことを思うなら、今すぐ、診察室に戻るべきです。じゃないと、これ以上深刻な事になってしまいます。一番よくないのは、現実逃避することですよ」
「美羽さんは、本当にいつ轢かれてもおかしくないんです!」
それでも、心の扉をこじ開けなくてはいけない。自分の目の前には二度と来なくなったって。せめて、治療の危機感を持って帰ってほしい。どこかでまた、精神科を受診してほしい。
「わかってるわよ。あなたに言われなくたって……っ」
「それなら……! 針間先生が怖いなら、別に、針間先生じゃなくたって構いません!」
その勧めに気まずそうな迷いをみせる母親。人によって合う合わないは、現実的にあるだろう。
「針間先生はそういうの、気にしませんから、どうぞそうなさってくださいね。その方が治療を続けられるなら、そうしたほうがいい」
針間先生の他には優しい先生だっている。若槻先生とか。幸い針間先生は、誰の患者が誰の患者になったとか、そういうことにはこだわらない。愛長医大じゃなくたっていい。町医者だって。
聞き慣れた、透き通った声が外の待合室から聞こえてきた。白夜が目を向けると、南が、コルセットを首に巻いた少女の前にしゃがんで、にっこり微笑んで声を掛けていた。
針間先生に泣かされ、退室した親子にすぐに気付いてくれただけでなく、まだついていてくれたのか。白夜は二人の様子を見守ろうと、自分は口を閉じた。
南は、黙り込む美羽という少女の頭を、ぽんぽんと撫ぜる。
「美羽ちゃんはお母さんのこと、守ってあげたんだね」
じっと、下を向いて黙っている美羽に、南は構わず微笑んで続ける。
「勇気があるな、って僕、思った。やさしいな、って思ったんだよ」
美羽はうつむき続けたせいか、けほ、とむせる。首のコルセットが、苦しそうだ。
「でも、お母さんはきっとね、美羽ちゃんがケガをしないでくれるのが、本当は一番嬉しいんだよ。お母さん、泣いてるけど本当は、すっごく強いんだ。だって、美羽ちゃんを事故から守るために、ね、頑張ってここまで連れてきてくれたんだから」
白夜の傍にいた母親は、その言葉に、首を横に振った。独り言のように、
弱々しい声だったが、南はそれを聞いて立ち上がると、美羽の小さな手を握って、白夜と母親の方へ歩き出す。
「私、怖かったの……本当は、怖かった! なにもかも――」
「あの人も怖いけど、それ以上に病気のことが――怖かった……し、それに、私、どこまで頑張れるのか、怖かった……いつか、美羽が、危ない目に遭うんじゃないかって……針間先生に言われて、ショックで、でもその通りだってこと、本当はわかってた……。だけど……ううん、だから、自分が安心するために都合のいいことばかり信じて、しまったの。私……本当に針間先生の言うとおり。母親失格なのよ……っ!」
南はそう言うと、美羽と繋いでいる反対の手で母親の手を取った。背伸びして、母親に顔を寄せる。
「ぼくも、さっき思いっきり叱られちゃったんです。ほら、その……目が腫れてませんか、ぼく……。てへへ」
母はその距離に戸惑いながら、潤んだ瞳でまじまじと見つめ返す。
「あの人に叱られないようにするなんて、誰にもできっこないんですよ! だから、お母さんも、涙を拭いて。自信持って」
そうして手を離すと、いつも持ち歩いている、ハンカチを差し出す。
受け取った母親は、涙をぬぐう。氷が融けていくようなその様子を、南は優しい日差しの微笑みで、じっと待っている。
「そう……です。そう……こんな自分、嫌なんです。美羽のことを守れる母でいたいんです」
「僕は、人を救える看護師になりたい。今の僕は、まだまだ……」
いつの間にか上を向かせて、陽に頬を乾かして。心地よい風に、一歩、足を前に運ばせて。
「あっ! ごめんなさい、それ、ハンカチ……湿ってませんでした? ああぁ不衛生だって針間先生に叱られるーっ……」
しょんぼりと泣きそうな南に、母はもう、微笑んでいた。
元気を取り戻していく母親の笑顔を前に、白夜は、声を発することができなかった。
凍りついた重い扉を、力づくで開けようとしていた自分。壊して、傷をつけてでも、その扉が開けばいいと思った。というか、「優しさ」といえば、自分にはそれしか思いつかなかった。
そんな風に、陽射しで融かして、春風にふわりと開けさせるなんて。
「どうしたら……どうしたら、いいのかしら、私……。でも、本に書いてあることも、本当だったのよ……」
「あ……本に書いてあることも、間違っていないと思いますよ」
乾いた声で、白夜はなんとかそう言う。
母親は、白夜の目を見てじっと耳を傾けている。今なら、受け入れてもらえるだろう。悔しさはぐっと呑み込んで無視した。仕方がない。今はそんなことを考えている場合ではない。俺にできることをしなければ。
「ただ、美羽さんの場合は、施錠したドアを開けて外に出るなど、かなり複雑な行動までできてしまっています。だから特別に治療が必要なんです。針間先生の言っていることは、そういうことです」
納得したような彼女の表情に、たしかに心に届いた感触があった。
南は親子と笑顔を交わし、思いを分かち合っている。これが心に寄り添うということだ、これが優しいということだ。まぶしかった。すごいと思った。尊敬した。
胸がズキンと痛んだ。悔しい。あの悪い状況から、彼女たちを救ったのは俺じゃない。南だ。俺はできなかった。できなかった自分が、とても悔しい。
そんなところに憧れているのは、俺の方なのだ。
――いつか、たどり着いてみせる。待ってろよ。