第16話 愛情にとけていくこと。
文字数 3,640文字
とりとめもなく思い出していたら、ずいぶん長い時間が経っているような気がする。
周囲を見渡しても、時計が見つからなくて、引越しの荷解きがまだ終わっていないことを思い出す。
(早めに片付けないとな。片付けて、そしたら、どうしよう……。俺は……)
その時、仕事用に渡されていた携帯電話が鳴った。はっとして、すぐに応答する。
部屋着だったが、出られない格好でもない。白夜は上から手早くコートを着てすっぽり隠し、そのまま部屋を飛び出た。
道に迷いはしなかった。
暗く簡素な使用人通路の階段を駆け上がる。
行き先である瑠璃仁の部屋は二階の角。
この階段は一階までしか繋がっていない為、表へ。
正面玄関の広い廊下の大階段を駆け上がり、すぐ左手。
間接照明を使って明るさを最小限に落とした夜の顔をした優雅な廊下は、闇と上品に調和しすぎて、どこか完成された世界のようだった。病棟よりはずっと明るいのに、それぞれがそれぞれを主張する混沌さがそこには無い。二度と帰ってはこられない別世界にこれから飛び込もうとしているような、そんな不安を白夜は覚えた。
夢か現か。ここは、自分が望み、自分で決めた、自分の頑張る場所だ。
強く目を閉じて、開いて、気合を入れ直す。
二人の患者。
一条伊桜、一条瑠璃仁。
彼らが、自分の受け持つ患者だ。
瑠璃仁の絶叫にも似た反応と、怯えたような視線がこちらに向けられた。
言いながら白夜は駆け寄り、注意深く瑠璃仁の様子を探る。上体を起こしたまま彼は胸に手を当てて、小さく息を整えながら
「そう……怖い夢を見るんだ。悪夢を……。寝入る頃に……嫌な、とても嫌な悪夢」
(境界失調症の症状? いや、入眠時幻覚といえば……)
「だだっぴろい空間。ただただ、無限に、無機質に広い空間に、僕は一人で立っていた。でもいつのまにか歪んで、顔が笑ってて、泣いてて、同時で、別人で、同じで、脇の下を通る夜の風、黒い葉が舞う嵐、どろどろと煮込まれていく……とにかく怖かった」
そして瑠璃仁は細く長くため息を吐いた。疲労の色が窺えた。相当精神的に参っているようだ。白夜は立ち上がり、瑠璃仁の薬を保管している戸棚の方へ歩く。カルテは医務室に保管していて、取りに行く余裕がなかった。瑠璃仁に処方された眠剤を直接確認する。一日分ずつケースに入っていて、その横に紙袋。患者名、薬品名を確認。ああ――スズソムラだ。やっぱりな。薬の選択に疑問を覚える。
(この処方は本人の希望なのか? 若槻先生は今の症状を正確に把握しているのだろうか)
「さっきは、帰ってこられて、よかった……。一度夢に捕われたら、もがいてももがいても、抜け出せないんだよ。息ができない」
「そう……だね。これを金縛りというのかな。ああ、いやだな。寝るのが怖い……闇にとけてしまう」
「瑠璃仁さん、それは夢なんですよ。怖がることは何もないですよ。大丈夫です」
瑠璃仁は撥ねつけるように春馬の手を振り払って、代わりにきつく自分の拳を握った。
「これはね、……こんな思いは、人生における悲しみや、恐怖の経験とは全くの異質なものだ。脳に直接、恐怖を流し込んでくるように」
「ですから、大丈夫ですよ、瑠璃仁さん」春馬はピンと来ないようだった。「なにも怖がることなんか、ここにはないんです」
「これは、経験したことの無い人には、わからないさ――」
途方に暮れる春馬。白夜は、春馬が自分を呼んだ理由がわかった。ここを理解するのは難しい。
「瑠璃仁様は今、とても恐怖の中にいます。それは、紛れもない事実なんです。現実に危険はなくとも、瑠璃仁様の体内では恐怖が起きています」
「たとえば陣痛でのた打ち回る妊婦に、それは健康な痛みだから安心してもいいんですよとか、痛がる必要はないんですよとか言ったところで意味はないですよね。それと同じで」
「怖がる必要なんてないことは――たとえるなら火事が起きているわけじゃないことや、ご自分の目の前に何らかの外敵がいるわけじゃないことは、瑠璃仁様はわかっていらっしゃいます。いや、ここがわからない患者だっているんですよ、たくさん。病勢や、形成してきた価値観も様々ですし。でも、瑠璃仁様は、自分の身に何が起きているかは、よく理解されています」
「ああ――そうだ。この恐怖が、僕の精神が異常なせい、なのは、僕自身わかっている」
「でもいかなる理由であろうと、現実に恐怖心が襲ってくるのだから、取り除かなければ、僕はここでまともに生きてなんていられない。僕は病気なんだからね」
そう言って、一呼吸。襲いくる闇を思い出し、その苦しみや悲しみにうなだれるように、再び布団の中に横たわる。
春馬は理解できているのか、いないのか、
それでも。
「少しだけ、わかったよ。馬鹿なこと言ってごめんね……本当に、ごめんなさい」
離した手を、――それでも、すぐ傍にあると自分でわかっている春馬の手を、瑠璃仁は暗闇の中で手繰り寄せ、繋ぎ直す。
春馬は瑠璃仁の白い手を、節張った大きな両手で包んだ。
「……ずっと、握ってて。僕が、安心して眠れるよう、祈りながら」
奇妙さへの戸惑いや、わからなさに困った様子は、そこにはもうなかった。
「風が止み、波が静まり、瑠璃仁さんの心に平穏な凪の時が訪れることを」
言葉はもう、いらなかった。
瑠璃仁は、そっと瞼を閉じた。それは愛情にとけていくように。
その姿に見惚れながら、白夜は音もなく退室した。立ち去っても、瑠璃仁の立てる小さな寝息が、感じとれるようだった。
来た道を戻る。暗闇に慣れた目には、廊下の仄明るい光が厭にまぶしく感じた。白夜はその光に合わせて無理やり気分を切り替えるように、早足で歩き去ろうとした。
子供の頃のことを思い出していた。
一人、長期入院している中で、風邪をひいたことがあった。熱が高く出て、頭がぼーっとして体は重くて、息苦しいし、時間がたっても時間がたってもしんどくて、なんだかよくわからないけど涙が出てきた。ただの風邪だと言われて自分でもわかっていたし、そこは紛れもない病院であり、医者も看護師も揃っている。何一つ心配するようなことはないはずだった。でも、その時自分は手を伸ばして、ナースコールのボタンを押した。押すのは初めてだった。すぐに女の看護師さんが飛んできた。「どうしたの? 何かあった?」と聞かれても、何も答えられない。「ごめんなさい」と一言謝った。ボタンなんか押して、怒られたらどうしようと思った。わざわざ迷惑になるようなことをして、自分は一体何をやっているのだろうと、また涙があふれた。でも彼女は、「大丈夫だよ」と言って、涙を拭いてくれた。そして、ずっと傍にいてくれた。
ふと、厨房から水の流れる音が聞こえた。白夜は小さい頃の回想から抜け出し、現実に意識を向ける。様子を窺うようにそっと覗くと、丁寧に片付けられた厨房で椋谷が一人、皿を洗っている。すべて洗ったはずなのに……?
と、テーブルの上に広げられた食材に気付いて足を止めた。果物の缶詰――缶切りで一刺しずつ開けていった刃跡、蓋は顔を上げるようにして反っていた。実をほじくり出したさい箸が差さったままだ。その横に「ゼライス」と書かれた箱が転がっている。ゼリーを作ったんだろう。伊桜様の。
手伝いに入ろうか悩んで、やめることにした。これは、椋谷さんの役割なんだ。僕にはできない、役割。だって、伊桜様は――椋谷さんの手を握っていたんだから。
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