「一卵性双生児か……? さっきのはよくできたホログラムか……? それとも……俺が……」
「あーっ! 外に出られました! こっちから回り道すれば……そうかあ……っ。はあ。落ちるかと思いました……」
そう言って、暁はまた忽然と姿を消す。合成写真のように、何事もなかったように。
「そ……その目ではっきり見ましたよね……。瑠璃仁様のおっしゃっていたことは、間違っていなかった……」
眩暈を起こしたように、その場を立ち去る針間。玄関の方へ向かう針間を、白夜は追いかける。
すぐに追いついた。針間は足を止め――その場に立ち尽くす。しゃがみ込む。
「先生、どこに行こうというんです、こんなときに!」
「くそっ、俺の頭がおかしくなったみたいだ……。それともやっぱ騙されてんのか」
顔面蒼白になりながら頭を回す針間に、白夜は横から言った。
「いいえ、俺だって同じもの目撃してますって! 瑠璃仁様の言っていたことが、正しかったんですよ! 先生戻りましょう!」
「何言ってるんです? 瑠璃仁様が針間先生を探していますよ!」
「……っ。俺の診断が……間違っていた……なんて、そんなの信じられるか」
「間違っていたんです! だから早く、戻りましょう!」
こんなところでしゃがみ込んで、何をしているのだろう。白夜は針間を連れ戻すために慌てて言った。
「ほらいつもあなたが患者に言ってきたことでしょう、現実逃避するなって――ねえっ! どんなに酷い状態でも、目を逸らさず患者を治す、それがあなたの信念なのでしょう!?」
「ああ――わかってるよ! わかってる! そんなこと!」
針間の顔が間近に迫る。白夜は息をのんだ。針間に怒鳴られたことはあったし、他の人に怒鳴る姿も何度も見てきた。だが、
そうして、針間は力なく手を放した。すぐに解放された白夜はしかし服を整えるのも忘れてただその場に立ち尽くし、針間を見ていた。あんな顔で大声を上げる針間は一度も見たことがなかった。顔は赤く染まり、口から論理が出てこない――目をそらしてしまいたくなるほどに弱々しく、痛々しい、そんな姿など。
だが針間はもう、その視線を振り払うように白夜に言う。
「加藤、お前だって、ずっと瑠璃仁についていたんだろうが!」
「あいつの元に、じゃあおまえはどんな顔で戻るんだ? おまえはあいつに、何かできたのかよ!?」
その指摘に、グサッと、胸の奥底にナイフを突き立てられたような痛みが走る。しぼんでいく。心臓がどくどくと脈打つ。
瑠璃仁は幻覚、妄想に苦しみながら、それでも唯一残った、自分の正しい部分の証明を勝ち取るため、孤独になることを覚悟して、大切にしていた春馬に協力を求めた。瑠璃仁はずっと、孤独の中で闘い続けていた。
俺は――それなりにやれていた愛長医大病院を自ら退職して――一条家に雇ってもらって――専属看護師になって――それで――瑠璃仁様に、俺、何ができたんだっけ。春馬は、苦しむ瑠璃仁にその身を差し出した。椋谷も、伊桜のために治験を引き受けたと聞いた。
自分は担当看護師として、あの人の何を見てきたんだろう。専属看護師が聞いて呆れる。あの人の――瑠璃仁様の何を見てきたんだ。俺は。最初に気付いたんじゃなかったのか。患者は人間だ。患者だからと言って人間性が固定されるわけじゃない。いろんな人がいるのだということを。いろんな人間――? じゃあ瑠璃仁様は、どんな人間だったのだ――? 俺は、瑠璃仁様のどんな悲しみや孤独を癒したっていうんだ――?
そんな瑠璃仁を、最後まで見つめ続けたのだろうか。そして、深いところまで降り立って、同じ景色を見て、共感して、そうして心に響く言葉を見つけ、傍にい続け救ったのだろうか。
白夜は初めは、今ここに座り込む針間は、自分の治療が間違っていたこと、瑠璃仁との勝負に負けたことが悔しいのだと思っていた。
そこに、悼むような顔をした南の姿が視界に入って、それでようやく白夜は気が付いた。針間が、あの泣く子も黙る鬼の針間先生が、弱々しく打ちひしがれ、怯えているのだということに。意外すぎて信じられなかった。
(そうか、先生、あなたでも怖くなることが――あるんですね)
南はさすがだ。そんなことには、もうとっくに気が付いている。だから今、この状況だって、相手があの針間先生であったって、きっと、心を救うような温かい言葉をかけるんだ。俺が、自分もいつか南みたいに――だなんてそんなこと、もう二度と、期待を抱けなくなるくらい完膚無き“優しい言葉”を――。白夜は呆然とその言葉を待った。
(……環境を、変えても――俺自身が、なんにも変わっていないんじゃ、意味がないよな)
(俺、全然だめだった。俺じゃ無理なんだ。はっきりわかったよ南。俺は、おまえには、なれない)
白夜ははっとして南の方を向く。南は震える足で進み出て、針間に対峙する。
自分の口から出た自分の言葉にさえ傷ついたような顔で――それでも南は繰り返して、念を押して言う。
針間は、感情を殺すように、抑揚のない声で、しかし肯く。南は続ける。
「僕は、看護師です。あなたを信じ、あなたに従います。先生、一条瑠璃仁さんが待ってます。今までの診断の間違いは何ですか? どうしたら取り返せます? 次は何をします? 僕にできることは?」
「じゃあ針間先生には、自信を無くすことなど、許されていません。だって感情を持つのは、人間だということじゃないですか!」
言葉がなんとか、針間の口から返される。白夜から見ても、憔悴しきった針間に、容赦しない南。
独りごとのように、自分自身に言い聞かせるように、南は呪文のように何か言葉を繰り返していることに白夜は気が付いた。
南だって今なお、何かと、闘っているのだ――と、白夜にも感じられた。
南は小さな手を、針間に差し出す。
「結果的に針間先生の診断は間違っていました。ありえないようなことでも、現に起きています。でもそれだけのことです。さあ、先生、立って」
その事実を、自分の憧れたあなたは、自分の招いたその結果、現実の痛みに、恐れをなして逃げ出すような、そんな弱い人間ではないはずだ。あなたが由とする、あなた自身は。
動けない針間の腕を勝手に取って担ぎあげる南の精悍なその表情に、あどけなさはもう感じられなかった。
そのとき足音がしたと思ったら、瑠璃仁が追いかけてきた。
「先生、まだ信じられないのですか? 理論は説明しましたよね。針間先生ならすぐにおわかりになるかと思いましたが」
針間はもう一人で立ち上がると、静かに瑠璃仁の様子を見つめる。
「ああ……これは、僕のよくある症状です……。幻聴が、多すぎて……。僕が、病気でなければ、これで終わりでいいんですけどね……残念ながら、僕は僕で、医者がいてくれなくちゃ困るんですよ」
自分だけ、見られない、綺麗な夕日。影のような声たちに脅かされながら、惑わされながら、“確かなもの”だけを頼りに、歩いてきた。
瑠璃仁は再び眼鏡をかけ直すと、追い縋る様に、針間を離さない。
「そういえば、そんなことも言ったな。……なんだ、言え。煮るなり、焼くなり、好きにしろ……」
針間の顔に、緊張が走る。瑠璃仁は、にっこりと微笑んだ。
(――人間に戻ることはもう、あなたには許されていないんですよ……)
混沌の闇の中、針間の前に助けを求める患者がいる。それだけは、疑いようのない事実だった。針間はぐっと堪えるように、小さく息をして、そして深呼吸。もう一度見開いた目には、再び冷徹な光が灯る。瑠璃仁はその目に一つ頷くと
と言い残して背を向け、一人、部屋に戻っていく。その背を見つめる針間俐久の横に南が並ぶ。痛かろうが辛かろうが、あるべき場所へと針間の背中を押すためでは、もうない。針間はもう、そこに立っている。降りるつもりなど更々ないと、自分は医師という鬼畜生になるのだと、言い聞かせて奮い立たせて独りずっと歩んできた、修羅の道の上に。
「…………おまえが泣くな、いちいち。泣いて何か変わるわけじゃねえだろうが」
「やっ、やです! 持ちますっ! 持たせてほしいですっ! わかりました、じゃあ泣くのやめますからっ!」
努めて強く――そして勝手に、優しい。泣きながらでも、それでも歩き続ける。そんな後輩の成長している姿に、白夜はぎゅっと拳を握る。
(無理、じゃ……ない! きっと無理じゃない、俺だって――っ)
俺だって、瑠璃仁様の眠れないとき、枕元に駆けつけた。本当は、俺が手を握ってあげたかった。できなかったけど、でも。瑠璃仁様が立ち直って、朝、元気に出かけていくのを見るとき、ああやっぱり、いいもんだな、って思ったから。俺だって、俺だって――っ。
「先生は、精神科の診療を手術に喩えましたけど、でも、じゃあ俺一つだけ納得できないことが、あるんです」
「外科手術の時は、麻酔をするじゃないですか。もし麻酔もなしに、手術しようとしたら誰だって逃げたくなりますよ。よっぽどの意志の強い人じゃない限り、死にたくなります。どうですか?」
針間は少し納得したように、ふうんと視線を逸らした。そして言った。