第5話 看護師くんはもともと医大病院の精神科勤務だったのです。
文字数 2,829文字
瑠璃仁は、春を前にしたやわらかな陽に照らされながら、鳥がいなくなっても青空を見ていた。
白夜はその傍らに膝をついて座り、静かに瑠璃仁を観察していた。彼は、穏やかな微笑を浮かべながら、何者かに相槌を打っている。
長年連れ添う妻のおしゃべりに、聞いているのかいないのか耳を傾ける老夫のごとく、
「いいなあ。僕も、君達のように四次元の見方をしてみたい」
瑠璃仁が一人でしゃべって一人で笑っているのだ。
幻聴が聞こえるという。そして言葉のサラダ。さっきは思わず面食らったが、冷静になればどちらも精神科ではごく見慣れた光景の一つだ。
言葉のサラダというのは、さっきのような意味不明な言葉の羅列のこと。一見すると奇妙だが、別に本当に無意味なことを言っているわけじゃない。ちょうど、本の背表紙が取れてページがばらばらになってしまったようなもので、その一つ一つをみれば普通だったりするし、もともと本人なりには繋がっていて、意味がある。連合弛緩、つまり接続がうまくいっていないだけだ。精神の病気の症状。ただし、思考も上手に接続されていないことになる。結構重症だ。カルテの書き方からはそこまで酷い印象を受けず、気付かなかった。
そして、いまは幻聴と話しているようだが――
(幻聴は、確かに声が聞こえるのだろうか。それとも聞こえる感じがするだけなのか……? どれくらい聞こえているのだろう……)
白夜は瑠璃仁を注察する。右に、左に、相槌を打ち、時折自分から話しかける。
(声は何人だろうか。耳元で実際に囁かれる様な感じなのか、テレパシーの様に頭の中に直接響いているのか……?)
白夜と会話している最中に、彼は幻声に返事をしてしまっていたから、普通の声として耳から聞こえてきていることになる。
(となると真性幻覚の方か。「境界失調症」の診断が下りているけど、継続性妄想性障害の可能性は? 薬は何を飲んでいるのだろう)
この投薬は、あまりみたことのない組み合わせだと思った。というより、増悪になるのではないか? 医大時代によくお世話になった針間ドクターなら絶対に選択しないような薬も入っていた。
覚えのある名前だった。若槻馨先生。いつも笑顔でとても丁寧で、患者の気持ちに寄り添うような優しい診察をする、良い先生だ。それにしてもこの治療はどういう意図があってやっているのか。白夜は静かに頭をくるくると回転させ――ふと止める。
(……ま、俺は医者じゃない。考える必要はないし、考えてもわからない。余計な口出しをするべきでもない)
基本的には医師を信じ、看護に徹するよう努めなくては、チーム医療の妨げとなる。自分は医者ではない。医者になりたいわけでもない。看護師としてできることをすべきだと思い直し、再び瑠璃仁を見つめる。
うららかな空中庭園で、姿なき声と対話する瑠璃仁。知己の亡き友と座っているような――どこか、切ない調子で。
「白夜さんと呼んでもいいですか? うちではだいたい名前で呼ぶんです」
瑠璃仁はそう言って、軽く微笑みかけてくれる。白夜は思わず微笑み返した。
日差しに彼の髪が透かされている。きれいな人だ。
仕事でこんなに初めから名前で呼ばれるのはやや慣れないが、加藤と言う苗字は白夜の出身地には多く、白夜という名前の珍しさや呼びやすさで、名前で呼ばれることは昔から多い。一般家庭――あ、ではないけど――で働くということは、そんな親さも必要なのかもしれない。受け入れられていく安堵感を覚える。
「人には本来見えないものが見えるとき、どんな風に見えると思います?」
「無いものが見えてしまうのではなく、そこに有るが見えないはずのもの――それが、見えてしまうとき」
おもむろに、瑠璃仁の顔が近づけられた。胸に抱いた神秘を追究する学者のような、視線のエネルギーに射抜かれる。頬に手を這わせられた。白夜は反射的に避けようとしたけれど、思い切って、瑠璃仁にされるがままになってみた。瑠璃仁は気にも留めずに、両手で白夜の頬を包む。どきどきした。
口を開けるよう促され、白夜は困惑しつつも、微かに開ける。
瑠璃仁は口内の赤さと自分の正答を噛み締めるようににっこり笑うと、白夜を解放した。
戸惑いつつも白夜はほっとし、身なりを整える。ネクタイが歪んだので触って直した。
「口の中が赤いことは、誰でも知っていますよね。でももし、そうだね……もっと、知らないはずの深い内側の、姿、形、いや捉えようのない感覚――もっといえば、まだ見ぬ臓器を僕が言い当てたら……」
(もっと深い内側? 捉えようのない感覚? まだ見ぬ臓器?)
「僕が言い当てても、僕が言えばそれは幻覚だと言われてしまう。そうだろうね」
「看護師さんにこんなこと、すみませんね。おかしなことをいう精神病患者だとお思いでしょう。まあ……その通りですから、どうぞお気になさらず」
触れられるのを恐れて、繊細な透明の膜を張るように、
「僕はそんなこと思いませんよ。何でもおっしゃってください」
風に勝手にページをめくられていた本を、ぱたりと畳む。風が止んだ。目が合った。眼鏡越しの理知的な瞳。カルテによると、年は十九で、現在大学を休学中だと――。変わらず穏やかなその表情に、微かに不穏を感じたような気がした。でも、気のせいだと自分に言い聞かせて、白夜は頷く。
「君達少し、静かにしてくれるかい。今、白夜さんとしゃべってるんだから。聞こえないよ」
彼は邪魔する子供をたしなめる様に、参ったね、と苦笑する。彼の耳には、幻声が聞こえているのだろう。つられて白夜も弱く追従笑いを浮かべるしかない。風がないのになんだか冷えた。春はまだ先のようだ。
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