その5の補足 「一人称は暑苦しい」? そんなことないと思う

文字数 1,239文字

一人称の地の文で、とてもクールなのを、例として挙げておきます。

まずは、一行だけ。
ある有名な海外小説の、最後の一行です。

しばらくして廊下に出ると、ぼくは病院を後にし、雨の中を歩いてホテルに戻った。

事実が書いてあるだけですね。
もう少し前から引用してみます。
ドアを閉めて、ライトを消しても、何の役にも立たなかった。彫像に向かって別れを告げるようなものだった。しばらくして廊下に出ると、ぼくは病院を後にし、雨の中を歩いてホテルに戻った。
これ、どうしようもなく哀しいラストシーンなのです。
もう少し前から引用してみます。
 出血が何度も繰り返されたらしい。医師たちにも止められなかったのだ。ぼくは部屋に入って、キャサリンが息を引きとるまでそばについていた。意識が最後までもどらないまま、しばらくして彼女は息を引きとった。

 外の廊下で、ぼくは医師に話しかけた。「今夜、何かできることがあるでしょうか?」
「いいえ、何もありません。ホテルまでお送りしましょうか?」
「いや、けっこうです。もう少しここにいますから」
「申しあげる言葉もありません。なんとも、その――」
「ええ」ぼくは言った。「何も言うことはありません」
「おやすみなさい」医師は言った。「ホテルまで、お送りさせていただけませんか?」
「いえ、けっこうです」
「ああするしかなかったのです」と、彼は言った。「手術の結果わかったのですが――」
「もうおっしゃらないでください」
「ホテルまで、お送りしたいのだが」
「いえ、けっこうですから」
 彼は廊下を遠ざかっていった。ぼくは病室の戸口にいった。
帝王切開の手術が失敗して、愛する女性と赤ちゃんが両方亡くなるのです。
激烈な感情が伝わってきます。
でも、人の言ったこと、したことだけしか書いてありません。

うしろめたさから、「ホテルまで送らせてほしい」と何度も申し出るお医者さんと、
そのたびに「けっこうです」と断る主人公。
同じやりとりのくりかえしが、効果的です。
 彼は廊下を遠ざかっていった。ぼくは病室の戸口にいった。
「いまはお入りにならないで」看護師の一人が言う。
「いや、入らせてもらうよ」
「まだ、いけません」
「あんたのほうこそ出ていってくれ」ぼくは言った。「もう一人も」
 しかし、彼女たちを追いだし、ドアを閉めて、ライトを消しても、何の役にも立たなかった。彫像に向かって別れを告げるようなものだった。しばらくして廊下に出ると、ぼくは病院を後にし、雨の中を歩いてホテルにもどった。
これで終わりです。
長い長い小説の、ラストシーンです。
語り手が「ぼく」だからと言って、
悲しいとか苦しいとか、いっさい書かなくていいんですね。

地の文が、泣く必要はないんです。
泣くのは私たち読者なので。
でもこれ、語り手が「彼」ではなくて、
「ぼく」だからこそ、

押さえに押さえた、
涙も出ないほどの苦痛と孤独が、
伝わってくるんじゃないでしょうか。
引用:
アーネスト・ヘミングウェイ『武器よさらば』
高見浩 訳(新潮文庫、2006年)
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登場人物紹介

ミミュラ


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紅茶もコーヒーも、ココアも好き。(下戸)

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