第24話 勝てそうだったのに
文字数 1,731文字
対岸(左岸;西側)には、ドゥゼ師団(中央軍)の一部が残されていた。フランス、オーストリア両軍は、接戦を続けていた。対岸からは、戦いの様子がわからない。不安は募るばかりだった。ついに左岸に残っていた兵士達が、勝手に逃走を始めた。
翌21日、早朝。左翼第一砲兵部隊(ルクルブ麾下)が応援に駆け付け、逃亡兵を捕まえ、ドゥゼ師団に秩序を取り戻した。モローは、右岸に渡河した中央軍を扇形に展開させる。
同日、ライン・モーゼル軍
ライン河右岸(東側)
キンツィヒ川流域(恐らくストラスブール寄り)にいたヴァンダム師団がオッフェンブルク、ゲンゲンバッハの辺りまで進軍
ライン左岸(西側)
ルクルブ師団の前衛が、進軍
モロー司令官(ライン・モーゼル軍)は、左岸(西側)にいたサン=シル(左翼)に渡河を命じ、ライン河右岸(東側)に兵力を集中しようとした。しかし、左翼の渡河には時間がかかる。
【ここまでのオーストリア軍】
オーストリアの敗将ヴァーネックVerneckは、オッシュ率いるサンブル=エ=ムーズ軍にさんざんにやられていた。
オーストリアは、南のマンハイムに予備軍を持っており、これを、ラトゥール元帥が管理していた。苦境に陥ったヴァーネックは、予備軍の出動を何度も要求したが、ラトゥールは、予備軍を動かさなかった。
彼は、ライン・モーゼル軍を警戒していた。(ライン・モーゼル軍の出撃は、サンブル=エ=ムーズ軍の2日後)
いずれにしろモローは、サン=シル軍(左翼)が渡河し終わるまで動くつもりはありませんでした。
戦闘停止の指令が出された。
フランスとオーストリアの間に、和約の成立の知らせが届いたのだ。
1797年4月18日。
イタリアで勝利を収めたボナパルトが、オーストリアと結んだレオーベンの和約である。(半年後、カンポ・フォルミオ講和条約として、結実)
オッシュ(サンブル=エ=ムーズ軍)のノイヴィート渡河と同じ日、そして、ライン・モーゼル軍のディアースハイム出撃の2日前のことだった。
「君は、途中でワインの1本も飲んでくるべきだったのだ!」
*後のドイツ軍左翼司令官。ナポレオン時代の元帥
一方で、3000の捕虜を得、軍旗をいくつか奪取、また、20の大砲を奪った。
この時モローは、亡命貴族(エミグレ)のクリンゴン将軍の馬車を捕まえる……*
*l'adjudant général Leclerc
後にダヴーは、彼の姉妹を妻にする。