こぼれ話(7):グッバイ、橇

文字数 2,506文字

 19-5は個人的にとても好きなシーンです。
 荷物が少なくなってきたので、バックパックにまとめて、(そり)を捨てるという。

 いま「橇を捨てる」って書いただけで、もう、じーんとしてしまう私です。笑

 だって、じーんとしませんか?
 いままでありがとう橇! 愛してるよ橇! と思いませんか。
 この文章をお読みくださっているかたのほとんどが、うなずいてくださると思うんですけど……

 じつは、この「サンキュー橇、グッバイ橇」という感慨、万国共通ではないかもしれないんです。
 今日はちょっとその話をしようと思います。

 私の朗読劇では、エストラヴェンがこう語ります。

*****
 もはや運ぶほどの食糧もない。荷物を二つにまとめて背負い、スキーをはき、そりを捨てた。
 私が最後にそりを撫で、「よくやってくれた」としみじみ言うと、ゲンリーは不思議そうな顔をしていた。物質文明の最先端から来たかれには、ものにいつくしみと感謝をささげるという感覚が、わからないらしい。
*****
https://novel.daysneo.com/works/episode/9a4009e5d0c43255344f1faaf53ff962.html

 でもね。
 原文の翻訳をお読みくださったかたはすでにお気づきだと思いますが、ここ、じつは原作ではゲンリーの回想です。

*****
 その二日目の日に、橇を捨てた。
 荷物をまとめて背負う。一人がおもにテント、もう一人がいろいろの袋。食糧は等分に分けた。そうしたら一人の荷物が二十五ポンド足らずしかなかった。僕が自分の分にチェイブ・ストーブを乗せても三十にならない。
 あの橇を引いて押して歩いて、てこの原理でうんうん動かしてというはてしない重労働から解放されたのはありがたかったから、歩きだしながら僕はエストラヴェンにそう言った。
 彼はふり返って橇を見た。氷と赤みがかった岩の広大なうねりの上に、橇はぽつんと棄てられている。
「よくやってくれた」と彼。
 彼の真心は物にもわけへだてなく向けられているのだった。がまん強くねばり強い、頼りがいのある物たち――僕らが使い、あるのが当たり前で、なくては生きていけない物たち。
 エストラヴェンは橇との別れを惜しんでいた。
*****
https://kakuyomu.jp/shared_drafts/4gciYSwiiecXH5ks6qViGlNI85Fu4A6J

 ここを読んだとき、私、二重に感動したんです。
 橇に対して「よくやってくれた」と、まるで人に対するように別れを惜しむエストラヴェンを、ゲンリーは、新鮮な驚きの目で見るんですね。
 え、何、べつに普通じゃない? ふつう感謝するよね? と思いませんか。
 それ、けっこう、日本的(またはアジア的?)な感覚かもしれないです。

 じつは私、こんな経験があります。
 以前、職場の同僚に、マイケルさんというアメリカの方がいました。
 日本に住んでもう数十年で、奥さまも日本人です。十九や二十歳の教え子さんたちを、「キミたちよりボクのほうが長く日本語しゃべってるよ」と言ってからかっておられました。たしかに! 笑
 カメラがお好きで、ご自分の五十歳の誕生日に小鳥の写真を見せてくれて、
「人生はゴジュウカラ」(五十雀)
なんて日本語でオヤジギャグを言っちゃう人でした。笑

 そのマイケルさんと、何年も前の春、職場の前庭に咲く桜を見ていたときのことです。
 前日までの冷たい雨風にもかかわらず、満開の桜はしっかりと枝に残って、雨上がりの空に咲き誇っていました。
 私は嬉しく思って、ごく自然に言ったんです。
「桜、よくがんばっているね」

 そしたらマイケルさん、笑いだしました。
「またそういうことを言う。きみたちは面白いね」

 ?

 そこから先は、押し問答というか、禅問答というか。
「だって桜、がんばってるよ?」と私。
「何言ってるの。桜は植物でしょ。『がんばる』なんておかしいよ」とマイケルさん。
「でも、植物だって、植物なりに――」
「わかったわかった。そういう擬人化は楽しいよね。だけど植物に心はないから」

 !

 日本人以上に日本人ぽいと思っていたマイケルさんなのだけど、この話題だけは、とうとう最後まで平行線でした。

 いまでも桜の季節になると、この会話とともに、彼の笑顔を思い出します。
 あんなにお元気だったのに、肺がんであっというまに天国へ旅立ってしまったマイケルさん。
 天国に、桜は咲いているのでしょうか。
 天国の桜も散るのでしょうか。

 お見舞いに、行きそびれました。
 まさか、二度と会えないなんて、思わなかったのです。

 『闇の左手』原作のエストラヴェンは、しばらく歩いてから橇をなごりおしそうにふり返りますが、私は、エストラヴェンに橇を撫でてもらいました。犬か馬との別れのように。
 ゲセン人ならそうすると思ったのです。
 原作者のル=グウィンさんも気に入ってくださったようでした。 

 ル=グウィンさんの凄さは、このゲセン的な(アジア的な)一瞬をとらえ、それを、非ゲセン人であるゲンリーの目をとおして語らせているところです。
 ご自分はアメリカの方なのに。
 マイケルさんだったら書けなかったシーンです。笑

 今回あらためて読み直して、しみじみ涙が出ました。
 ようするに、エストラヴェンが惜しんでいるのは、橇そのもの(だけ)じゃないんですね。
 その前のシーン。食事をしながら、不思議な静けさを保っているエストラヴェンの表情。そこから続けて読むとよくわかります。
 彼にはわかっているわけです。この旅がもうすぐ終わると。
 生きて帰れるにしろ、途中で倒れるにしろ、もうすぐ、ゲンリーとの別れが待っていると。

「よくやってくれた」
 ふり返って、一言そうつぶやくエストラヴェンの胸中こそ、万感の思いというものではないでしょうか。

 橇であれ、花であれ。
 魂を持たないはずのものたちを失うとき、私たちが哀しむのは。
 そのものたちと過ごした私たち自身の時間を、彼らが持っていってしまうから。
 ――ではないでしょうか。

 こういうきらめく瞬間に満ちたこの小説に、私は心からの崇敬を感じます。
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