【ゲンリーの手記】(抜粋2)(原作第十八章冒頭)

文字数 531文字

 いまでも僕は、錯覚におちいることがある。暗い静かな部屋のベッドで眠りにつこうとするとき、ふと、顔の上に斜めに張られたテントの布に、雪がさらさらと吹きつけるのが聞こえてくる。大切な、かけがえのない過去の幻だ。
 何も見えはしない。チェイブ・ストーブの光は切られて、いまはただ熱の球、温もりの芯となっている。寝袋の湿っぽく、まといつく感覚。雪の音。エストラヴェンのかすかな寝息。そして、闇。他には何もない。

 僕らは二人、中にいる。守られて、安らいで、すべての中心に。
 外には変わらず、大いなる闇と寒さと、死の孤独がある。

 そのなつかしい幻の中で僕ははっきりと知る、僕のこの人生の(かなめ)がまさにどこにあったかを。
 その時は過ぎ、失われ、なおもつねにここにある。
 永遠の瞬間。
 温もりの芯。

 真冬の大氷原で橇を引いたあの日々、幸せ(ハッピー)だったと言うつもりはない。僕は空腹と過労と、ときには不安にさいなまれ、それは日を追って酷くなった。幸せ(ハッピー)どころではなかった。
 幸福感(ハピネス)というものは理性とつながっていて、頭で納得してはじめて獲得できる。僕が経験したのはそんなものではなかった。獲得も保存もできない、それどころか、経験しているさなかにはそうと気づかないことさえあるもの――

 歓喜(ジョイ)だった。

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