【民話】逆賊エストラヴェン(後半)(原作第九章)

文字数 1,288文字

 おさな子は育ち、眉目秀麗で壮健な若者となった。こころを内に秘め、寡黙であったが、人はみなこの若君に亡きアレクの君のおもかげを見た。
 かれが成年となったとき、ソーヴェの殿は老いの子煩悩にまかせて、この若君をエストレの世継ぎにさだめた。殿には外に生ませたお子が幾人もあり、みな血気の盛りにあって長らく領主の座を待ちのぞんでいたから、かれらの恨みはひととおりでない。

 イレムの月のある日、若君は、ひとりでペスリを狩りに出られたところをこの腹ちがいの殿ばらに囲まれた。されど若君には備えも心構えもあった。〈氷河の末〉の湖に立ちこめる雪どけの濃い霧をついて、若君は殿ばらの二人を射抜き、三人目とは短刀で斬りむすんで、みずからも胸と首に深手を負いつつもついに倒した。
 あたりは氷上の霧、兄君のむくろをまたいで立てば、夕闇が降りてくる。傷口から血が流れ、力が抜けて苦しい。助けをもとめてエボスの村に向かったが、深まる闇で道に迷い、湖の東岸に茂るソアの木の森に出た。空き小屋を見て入り、火を起こす力もなく、炉ばたの冷えた石の上に倒れて、傷の血は流れるにまかせた。

 おりしも闇からあらわれた人影ひとつ、戸口に立ち、炉ばたの血だまりに横たわる若君を見つめた。と見るや、いそぎ入り来て、古い棚から毛皮を出し床に敷き、火を起こし、セレムの君の傷をきよめて布を当てた。目が合うて申すには、「わたしはストクのセレム」
「わたしはエストレのセレム」

 しばしの沈黙があった。
 やがて若君がほほえんで申されるには、「ストクのかたよ、わたしの手当てをしてくださったのは、殺すため?」
「いえ」
「ストクのご領主が、この国境(くにざかい)の危ない土地におひとりで、なにゆえ?」
「ここにはよく来るのです」

 年かさの人は若者の脈をとり、熱をはかるため、かれの手のひらを若者の手のひらにふと当てた。ふたりの手は指のすみずみまで合い、あたかもひとりの両手のようであった。
(かたき)どうしですから」ストクの人は言った。
「敵どうし」エストレの若者は言った。「はじめてお逢いしますのに」
 ストクの人は顔をそむけた。「むかし、一度、お逢いしているのです。わたしたちの家さえ、あらそいをやめてくれたら」
「やめましょう」とエストラヴェンは言った。「わたしが誓います」

 こうして誓いがかわされ、それ以上はことばもなく、傷を負うた若者は眠った。

 夜が明けるとストクの人のすがたはなかったが、エボスの村人らが小屋に来て、若君エストラヴェンをエストレの館へお連れした。もはや大殿の御意にさからう者とてなかった。湖上の氷に残された三人の血のあとが、お世継ぎにふさわしいのはだれか語ってあまりあったから。
 大殿ソーヴェが世を去ると、セレムの君がエストレのご領主となった。
 一年とたたぬうちに若殿は積年のあらそいに終止符を打った。国境の地の半分をストクにゆずりわたされたのだ。このため、また血を分けたきょうだいを亡きものにしたために、かの君は〈逆賊の君エストラヴェン〉と呼ばれた。されど――

 されどなお、セレムという名は、いまもエストレの邦の子どもらにあたえ継がれている。

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