第62話 誰も知らない彼女の箱庭

文字数 6,899文字

 光もろくにささない森の中。
「ミステル……」
 アローは呆然と、ミステルが消えた地面に触れる。
 実際の森と同じように、湿った枯葉の感触と腐葉土の匂い。
《さぁ、どうする?》
「さぁ、どうするの?」
 クロイツァの声と、ガンドライドの声が重なる。
「趣味が悪すぎるな、師匠」
《そうでもないさ。お前が今まで目をそらしていただけだ。ミステルが望んだからだと言い訳をして、自分のためにミステルを救ったつもりでいただけだ。どちらが悪趣味なのだ?》
「…………それは」
 アローは、とっさに反論はすることができなかった
 ミステルを想うなら、彼女を眠らせておくべきだったと。そう考えたのは自分だ。間違っていると自らを断罪したのも。
 ――ミステルが、そう望んだから。
 そばにいたい、と言ってくれた彼女の気持ちを利用した。ただひとりの家族を失いたくなかった。
 ミステルはアローのために呪いに手を染めた。アローのために呪われて、アローにはそれを告げずに死に、死してもアローのためだけに存在しようとした。
 彼女をそこまで駆り立てたものを知らずに、彼女の想いに甘えてきた。
《お前の魔術回路が治ろうとそうでなかろうと、お前がそんなヌルい考えで生きている限り、何度だって間違うだろう》
「それは……認める。だからと言って、ミステルを巻き込むな」
《認めるなら現実を見ろ。ミステルは死んでいる。引き留めているのはお前だ。お前は自分の意思でミステルを使い魔にしたんじゃない。ミステルの甘さに付け入って甘えただけだ。私に言わせれば、お前らはどっちも砂糖で固めたみたいな甘えた同士だぞ。私が巻き込んだのではない。お前らが勝手に自滅したのだ》
「そうね、ズルいわ。もっと世界は理不尽にできているはずよ。自分たちだけは特別が許されるなんて甘えだわ」
 クロイツァの言葉に、ガンドライドが賛同する。ひとつの口から聞こえてくる二つの笑い声。
(ここはガンドライドの、内側……)
 恐らく、クロイツァがアローを『鍛え直す』ためにわざわざ用意した、黒き森の怨念の塊だ。
 やはり趣味が悪すぎるとは感じる。一方で、クロイツァの言が正しいことも、頭では理解していた。
 アローにはミステルしかいなかった。ミステルもアローしか選ばなかった。
 アローは選ばなければならないのだ。これからもずっと、ミステルと二人だけの閉じた世界にいるわけにはいかない。
 森から出たのは他の誰でもない、アローの意思だ。ミステルを理由にしてアローは森から出た。だから、二人だけの世界を壊さなくてはいけない。そうすることで、初めて外の世界と向き合える。
 ここは、大魔術師クロイツァがそのために用意した世界の狭間。
「……わかった。僕はミステルを救う。ミステルだけではなく、お前の中にある魂すべてを救おう」
《ほう、大きく出たな》
「それくらいやらないと、師匠が納得するとも思えないしな」
 無論、クロイツァの納得感のためだけにやるわけではない。
 死は誰にでも、平等に訪れる。平等であるが、誰にでも死に方を選べるわけではない。死という結果は平等でも、死に至る工程は平等ではない。
 だから恨む。怨む。ある者は人の世界をさまよい、ある者は怨嗟の声を上げて煉獄の扉を叩き続ける。幸せな死に方ができる方が、珍しいのかもしれない。
「僕が救う。ミステルも、理不尽に死んでいった魂も。何せ僕は『生ける死者の王』らしいからな」
《そうだな。お前は生きていながら死者を従える》
「僕がガンドライドを支配する王となろう。それでこの世界からも出られるはずだ」
 ガンドライドの少女はニタニタと笑う。
 その表情は、師匠クロイツァがよくするそれになっていた。
 大魔術師クロイツァは多くの魔術を収め、年齢や性別も超越えて、あらゆる事象を調べ尽くして『飽きて』いる。
 そんな大魔術師が見つけた趣味が、アローを『育てる』ことだ。つまり、アローが成長してくれなければ、クロイツァは退屈でたまらないのだ。
《さぁ、楽しませてくれ。そしてお前が森を出て何を得たのかを見せてくれ。その先にはきっと……お前の望むものがある》
 森の風景が歪む。懐かしい枯葉と腐葉土と木々の匂いが霞む。
《期待してるぞ、不肖の弟子よ》
 暗い、暗い闇の中でクロイツァの笑い声が響く。
「わかっている。間違いはきちんと、正すべきだってことくらい……」



 その頃――。
「こ、今度は蛇なの?」
 息絶えたかのように思えた首なしの狼の腹を破り、今度は大蛇が現れる。
「このっ!」
 ヒルダが身体を両断するが、上半分がそのまま塔を這い登り始めた。
「何でこんな見た目気持ち悪い感じのばっか出てくるんですか? 勘弁してくださいよ!」
 テオは半泣きになりながら、それでも矢を放って塔の屋上に迫った蛇の目を着実に射る。
「近接戦闘は勘弁してくださいね!」
 二本、三本と射て、蛇の半身は土けむりをあげながら地面に落ちた。
 その流れ落ちた血の中から、無数のうごめく赤い人の手が生えてくる。
「んぎゃぁぁぁぁ!」
「ヒルダ嬢、その悲鳴は年頃の娘としてどうかと思うのだが」
 蛇の下半分を聖霊魔法で灼きはらいつつ、ハインツは呆れた声をあげたが、ヒルダはそれどころではなかった。
 今まで出てきたのが魔獣の系統ばかりなのでまだ冷静に戦えたのだが、血みどろの手の群れは見た目で拒否反応が酷い。
 ヒルダは立ち尽くしたまま動けない。狼や蛇に比べればはるかに容易いはずなのに、剣が重石に変わってしまった。
「俺もこれは嫌です!」
 テオが血塗れの手をひとつひとつ矢で射ているが、数が多い。そして彼も別に怖いものが得意なわけではない。
「やれやれ、君たちは……」
 ハインツがため息を吐きながら聖霊符を出す。
「まとめて冥府送りにしよう。下がっていたまえ。……フライアの加護をここに!」
 ハインツの要請に従い、青白い光が円を描きながら地面を埋める手の群れを囲み、そして白い光の粒を撒き散らしながら一帯を浄化する。
 ごく初歩の浄化魔法だが、手のひとつひとつはテオの放った矢で消える程度のものだ。
 女神の加護で強さを増したハインツの聖霊魔法なら、一瞬で終わる。
「あ……おわっ…た?」
 地面にへたり込みながら、ヒルダはつぶやいた。そこに血だまりもなければ、赤く染まった手もない。それどころか狼や蛇の残骸すら残っていない。
「違うわ。どうやら親玉に回収されたみたいねぇ」
 その声に、ヒルダは顔を上げる。そこには浅黒い肌の美女が浮いていた。
「リューゲさん?」
「女神の匂いがプンプンする司祭がいるから、あまり出てきたくなかったのだけど」
 リューゲがちらりとハインツを見やる。
 ハインツはと言えば、伝説の存在であるスヴァルトの姿を見ても驚くでもなく、ただ困ったように肩をすくめた。
「こればかりは、私が加護を止めてくれというものでもないのでね」
「フライアと私たちはソリが合わないのよ」
 しかし、リューゲはそれでも姿を現した。ということは、何か理由があるはずだ。
「アローに何かあったんですか?」
 ヒルダは辺りを見回す。アローがどこにも見当たらない。狼の頭の残骸があったあたりで、別れたはずだったのに。
「連れて行かれたみたいね。私は身体と一緒に置いて行かれたわ」
「えっ、えっ?」
 困惑するヒルダをよそに、リューゲは腹立たしげに唇を噛む。
「……何なのかしら、あの魔術師。妖精族の私を弾き出すなんて」
 ヒルダは走り出した。先ほど彼が立っていたはずの場所に。
 そこには、まだちゃんとアローがいた。草むらの中で、銀髪の死霊術師は眠っている。揺すってみても、ピクリとも動かない。
「ねぇ、アロー、アロー!」
 その様子が、オステンワルドで倒れた時と重なって、ヒルダの背筋には嫌な汗が伝っていく。
「ミステル、ミステルは?」
 遺灰の詰まった瓶に話しかけても、やはり返事はない。
「無駄よ。私が弾かれたくらいだもの。外から起こそうとしたって、起きないわ」
 リューゲがヒルダの元に転移してきてそう告げる。半ば泣きそうになりながら、ヒルダは彼女を見た。
「でも、アローが……」
「冥府に連れて行かれたわけではないから、安心しなさい。少し眠っているだけ。あの魔術師、最初からこちらと分断させるつもりだったのねぇ」
 仲間を連れてきていいと、クロイツァはアローに告げた。ヒルダには手伝えることがあるかも、と。
 だが、共闘できるとは言っていない。そもそも今の死霊術を使えないアローは、仲間に頼らざるを得ない。
 そのやり方でクロイツァが納得するわけがなかったのだ。
「信じて待ちなさい。この坊やは、常闇竜を討つために黒妖精も動かした子よ。簡単に負けるものですか」
 リューゲが微笑む。
 ヒルダもまた、うなずいた。ミステルもいないということは、少なくとも彼女はアローのそばにいるのだ。
「私は、二人を信じる」



「大きなことを言ったはいいが、ここから先は行き当たりばったりだな」
 周りの様子はほとんどわからない。暗いばかりだ。肉体を伴わない空間の中なのだから、感触はある意味では単なる思い違いだ。
 それでも少しずつ地面を歩いているような感覚は、わかってきた。普通の土を固めたかのような田舎道。その感触を確かめるように歩いていると、辺りは寂れた村の様子へと変わっていった。
「ぐずぐずするな、お前は役立たずなんだから」
 吐き捨てるように言う男。
 まだ幼い少女は、小さな身体には重すぎる薪の束を抱えてよたよたと歩いていく。
 藍色の髪の、女の子。
(ミステル?)
 それは、出会った当初よりも少し幼いミステルの姿に思えた。
「もう少し育ったら、お前なんて都に売り払ってやる。女なんて仕事の役に立ちゃしねえんだ」
 少女が小石につまずいて転ぶ。抱えていた薪がばらばらと道に散らばる。しかし男は一度振り向いただけで、彼女を助けようとはしなかった。
「のろま。きちんと全部ひろえよ」
 少女は無言で薪を拾う。表情もなく、淡々と。
(これは、僕に会う前のミステルの記憶か?)
 幼いミステルには、アローの姿が見えていないようだった。薪を拾い集めて、再びよたよたと歩いていく。
 アローが知っているミステルは、自分にべったりと懐いてアローのためにだったらなんだって厭わない献身的な少女だ。
 初めて会った時からそうだった。アローのためだけに全てを差し出すことを、ただのひとかけらも厭わなかった。
 家の前にたどり着いた少女が再び薪を落とした。今度はつまずいたからではない。
 家から出てきた少年たちが、少女を突き飛ばしたからだ。
「さっさと拾えよ、役立たずのゴクツブシ」
 ゲラゲラと笑う少年たちに目もくれず、少女は黙々と薪を拾う。
「跡が残るようなことはすんなよ。そいつは、見た目はいいんだ。傷がついたら売り物にならなくなる」
 男の声が家の中から聞こえてくる。少年たちは興ざめしたのか、口々に文句をつけながら家に戻っていった。
 少女は黙々と、ただ黙々と薪を拾う。
「ミステル……」
 届かないと知りながらも、手を伸ばす。
 しかし、一瞬にして景色は燃え上がる。
 森の中、悲鳴が響く。
 盗賊に荷物を奪われて、森をさまよった末に狼に噛みちぎられた商人の末期の声。
 奥に入りすぎて帰り道を見失い、息絶えた狩人の屍肉を貪る猛禽。
 口べらしに森に捨てられた子供の肉を貪る魔獣。
 また一人、足を悪くした祖母を森に捨てて泣きながら走り去っていく男の姿。
 すすり泣く声、救いを求める声、怒り狂う声、神に祈る声。
 それらをすべて噛み砕いて飲み込む、ケダモノたちの咀嚼の音。
「理不尽でしょう」
 ガンドライドはうっすらと微笑んだ。
 いつからそこにいたのか。もしかすると最初からずっとアローのすぐ隣にいたのかもしれない。
「誰もそう。死にたくなんてなかった。絶望して森に入った人ですらそう。死にたくなんてなかった。死にたくなんてなかったのよ」
「……だろうな」
「貴方が気安く召喚して使役してきた死霊たちは、皆こうして死んでいった。理不尽でしょう」
「死は理不尽で、平等だ」
「貴方がそれを言うの?」
 笑い声。嗤い声。嘲い声。
 それが森全体を揺らすように、こだまする。
 足元にはいくつもの手が転がっている。傷だらけの手が、皺だらけの手が、指のなくなった手が、爪の剥がれた手が、骨のむき出しになった手が……。
「貴方が何気なく使役してきた魂が、どんな死に方をしたか考えたことがあって?」
「いや、ないな。死は終わりだ。その一つ一つの『生前』は、その死を受け止めた者の中にのみ存在する」
「哲学ね。そう。貴方の世界には師匠と義妹しかいなかった。だから義妹だけが貴方の中に存在していた。だから間違えのよね。間違えたのだわ」
 ガンドライドの弾むような声に合わせて、幾重にも重なった笑い声が響く。
 折り重なった手首がザワザワとうごめく。
「そうだな。認めよう。僕は間違った。ミステルを駆り立てたのも、死においやったのも、安寧を与えなかったのも僕だ」
 屍の手をひとつ掴む。それを、中空へとほうりなげる。
『死を記憶せよ』
 屍肉でできた手が紅く美しく燃え上がり、それは真紅の羽根を持つ鳥となって森の中へと消えていく。
「綺麗な送り方をするのね」
「皮肉か」
「本心よ」
 ガンドライドの少女はふわりと飛び上がって、木の上に乗った。枝に腰掛けてゆらゆらと足を揺らす。
「森の中で狼や魔獣に噛み砕かれて死んだ私たちを、全て救うなんて無理でしょう。全てをひとつひとつ、ああやって送ってあげるつもりなの?」
「全員にあれをやったら、僕の魂はすり減ってなくなるな」
「緩慢な自殺ね。それではクロイツァは満足しないのではなくて?」
「全てを救うとは言ったが、全部を丁寧に救ってやるとは言っていない。浄化はしてやるが」
「聖霊魔法は使えない、スヴァルトの助力を得られない、今の貴方が? 無謀だわ」
「ああ、そういえばリューゲがいないな」
 おおかた、クロイツァが選り分けたのだろう。黒妖精ほどの力がある魂に入り込まれたら、ガンドライドなど内部崩壊待った無しだ。
 リューゲ本人はさぞ不本意だろう。人間の魔術師に弾かれるなど、黒妖精の誇りがだいぶ傷ついたに違いない。
「いや、待てよ。そもそも師匠は人間なのだろうか。君はどう思う?」
「ガンドライドにそんなことを聞いてくる愚か者は初めてだわ、クロイツァの弟子。私の知ることじゃないわ。殺すわよ」
「君は見た目の割に物騒だ」
「私を丸太で潰した上に、魔法道具でひき肉にしてくれたのはどこの誰だったかしらね?」
「何だそれは、エグいな」
「貴方がやったことでしょう」
 ガンドライドが心底引いた顔をしたが、そんなことを言われてもあれ以外に方法がなかったのだから仕方がない。
「僕一人でどうにかできないなら、仲間を集めるしかない。そして、この世界で仲間になれる可能性があるのはミステルだ。だからミステルを真っ先に救う」
「貴方には学習能力がないのかしら?」
「僕が真っ先に向き合うべきなのが誰なのか、火を見るよりも明らかだという話だ」
 あの森で出会う前に、ミステルに何があったのかをアローは知らない。
 ミステルは決して話すことはなかった。今にして思えば、不自然なほどに。純粋に話したくなかったのだろう。あれがミステルの家族なのだとしたら、愛情を受けて育ったとはとても言えない。
 だけどアローは気付かなかった。アロー自身が両親や、家族といったものを知らず、いささか常識から外れた方法で育てられたからだ。物心つく前までは死霊によって、師匠に拾われてからは言わずもがなだった。
 クロイツァは決して甘くはなかったが、アローにずいぶん良くしてくれたとは思う。ただ、それが世間の家族の姿とはかけ離れていたことだけは疑いようもない。
「知らないことは知ればいい」
「相手が知られたくないことだとしても?」
「それは時も場合によるが、実際、僕は何も知らずに失敗した」
 何も知らずに彼女の手を取った。何も知らずに彼女の手を引いた。いつの間にか彼女は一人で手を離して、一人で孤独に死を選んだ。
 ただ自分の手を取ってくれたアローに報いるために、ミステルという少女は死んだ。死んでなお、その魂を捧げた。
「僕は何も知らずにミステルの献身を利用していた。だからミステルが僕にしてくれたように、僕も魂をかけてミステルに報いてみせよう」
「ふぅん……」
 ガンドライドは興味なさそうに鼻を鳴らすと、辺りを埋め尽くしていた死体の残骸が、まるで波が引くように去っていった。
「自分の一番知られたくないことを、自分が一番知られたくない人に知られることで、彼女は救われるも思う?」
「わからない。それでも僕は、今度は絶対に手を離さない。誰も呪わせない。必ず連れて帰る」
 そう告げた瞬間、森の中に魔獣の咆哮が響き渡る。
 ガンドライドは笑っていない。
 馬のいななく声、馬車が横転して砕ける音。さけび声。泣き声。
「さぁ、救えるものなら救ってみなさい、クロイツァの弟子。人間は生死の間際が、一番綺麗で醜くて滑稽なのよ」
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