第71話 師匠の手抜きは甘くない

文字数 7,922文字

(魔術回路は血管のようなもの……か)
 半分だけしか治療されていないし、治療してすぐに本調子を出せるわけでもない。
 アローが使える魔力は、おそらく本来の三分の一程度。これをミステルの魔術とベルの杖で補う。
(魔法道具の残りは……紐だけだな)
 攻撃系はガンドライドの時点で使い切っている。もちろん家の中に戻って探せばあるだろうが、そんな暇をクロイツァが与えてくれるはずはない。
 たとえ与えてくれても、魔法道具の攻撃など簡単に避けられるだろう。
 クロイツァのいう『全力の手加減』がどの程度のものなのかはわからないが、殺すつもりくらいでかからないと即叩きのめされるのは目に見えている。
「そうだ、もっとよく考えろ。考えないと私はお前らなど一瞬で蹴ちらすぞ。あっはははははは!」
 爆笑しながら、クロイツァはパチンと指を鳴らす。それだけで、いくつもの火球が中空に現れる。闇深い森に、赤い火の輝きで木々の陰影が描き出された。
「任せる」
「はい、主様。……お相手がクロイツァ様でもためらったりなどしません」
 神をも射抜く宿り木の矢。その意味の名を持つ今のミステルの基本攻撃は、魔術の矢による同時遠隔攻撃。
 クロイツァの放った火球を、ミステルの魔術の矢が次々と撃ち落としていく。
 その隙に、アローは地を蹴った。
 杖を持って火の粉が散る中を、身を低くして駆ける。
「おお? 物理で打ってでるのか?」
「違う」
 魔術でも物理攻撃でも敵うわけがない。本当だったら出会った瞬間に逃げるのが正解だ。常闇竜の時とは違い、スヴァルトの力を借りるわけでもない。
(考えろ。何が正解なのか)
 圧倒的に実力差がある相手を前に、どれだけの力を出し切れるのか。それを試されているのだ。
(冥府の門は、いつもみたいに全開はできない)
 つまり死霊の大量召喚による力技は使えない。
「当然、簡単に近づけるなんてぇ、思ってはいないよなぁ、アロー?」
 クロイツァがにやりと笑う。
「もちろんだ」
 応えて、アローは残っていた紐を上方に投げた。枝に絡みついた精霊の縄が、その強靭な伸縮性でアローの腕ごと身体を引き上げる。
 跳ねあがったその瞬間、アローがいたはずのその場所で小さな爆発が起きる。当たっても死にはしないだろうが、確実に大怪我だ。
「なるほど、確かに全力の手抜きだ……」
 手抜きだからといって、叩きのめさないとは言っていない。殺さない程度にしておいてやる、という意味だ。死ななければどうせ治せるし、と言ったところなのだろう。えげつない。
 木の枝に掴まって半回転。枝に着地したものの、すでに火球が間近に迫っていた。
「させません!」
 すかさずミステルがそれを撃ち落とすが、クロイツァの追撃の方が早い。
 アロー斜向かいの木の枝に飛び移り、何とかやり過ごす。
「アロー、ちゃんと頭を使えよ? 今のお前の力じゃ数打ちゃ当たるとはいかないんだからなぁ?」
「わかってる!」
 もう一度火球が飛んでくる。乗っていた枝が根元から焼け落ち、アローは一旦地上へと降り立った。
 ミステルに迎撃してもらうのには限度がある。こちらの手が追いつかなくなえるギリギリで攻撃されている、手の込んだ『手抜き』だ。
《アロー、私は何ができる?》
 手にした杖から、ベルが囁きかける。
「そうだな。ベルの力を僕が引き出せれば話は早いんだが……」
 何せベルがどういう力を持ち得ているのか、全く試せないままに本番なのだ。逆に言えば、クロイツァはこの機会にそれを試せと言いたいのかもしれない。
 ベルの本質はドルイドの魔術。それがウィッカーマンの呪いで変質したものだ。
 ドルイド魔術は基本が大地と水の聖霊の力を借りるもの。しかし、ベルは燃やされ呪われたので、水ではなく火の属性を持つ。
《アロー、また来る》
「……っと、あまり考えごともしてられないな」
 ミステルの迎撃が間に合わなかった火球が、アローに向かって飛んでくる。避け続けてもキリがない。
 ――ならば。
『死を記憶せよ!』
 アローはベルの杖に魔力を込めて、渾身の力で火球を打ち返した。
 ベルは大地と火の属性。火球を弱めることはできないが、同じ属性の攻撃なら魔力の強さで負けて杖が折れることはない。
 力技だが、火球だけなら物理で撃ちかえせる。ただ、何度もできることではない。
「さっきからお前もミステルも、防戦一方だぞ? もっと攻めの姿勢を見せろ。攻められる暇ができればだけどな、ハハハハハ!」
 クロイツァの笑い声が闇深い森にこだまする。
「ミステル! 少しの間でいい! 僕の周りだけを守ってくれ!」
「かしこまりました、主様」
 ミステルはよどみなく答えた。
 彼女の魔術による援護射撃を、アローの周りにだけに集中させる。手数は減るので、クロイツァの攻撃もその分アローに集中してしまうが、その方がミステルもやりやすいはずだ。
 アローは精霊の紐を使って近場の枝が張り出した木の、一番太い枝に跳び移る。これならば、多少火球が当たっても一回では折れないだろう。
 もちろん、クロイツァが死なない程度の手加減をしてくれる前提ではあるが。
《どうするの?》
「僕が死霊術の力を使えるのはいつもの三分の一。だから、残りをベルに補ってもらう」
《ウィッカーマンの中ほどはうまくやれないと思う》
「だから木の上を選んだんだ。この枝は『代わり』にできそうか?」
《……やってみる》
「ああ、頼む」
 魔術においてもっとも重要なものは、悪霊や聖霊との相性だ。ハインツの場霊を飛び越えて女神フライアに直通しているし、アローの場合であれば冥府から呼び出す煉獄の炎や死霊に直結する。
 だが、二番目に重要なのは術式の構築だ。はっきり言えば、これに関してはミステルの方がよほど才能がある。だからこそ彼女は十五歳の若さで亡くなっていながら、高位の魔術師霊となることができた。
 なまじアローは感覚だけで死霊術を行使できてしまっていたので、魔力を効率的に使って最大限の威力に変える構築式をほとんど使ってこなかったのだ。
 初めから最大出力の術が使えていたわけだから、その必要すらなかった。
「ほう、アロー、何か考えているな」
「考えろと言ったのは師匠の方だ」
 ニヤニヤと笑いながら、クロイツァは暇を持て余したようにその場にあぐらをかいて座る。
 その間にも、アローへの魔術による攻撃が続いている。ミステルが必死に撃墜してくれているのでアローの元までは届いていないが、時間の問題だ。
(魔術回路に魔力を巡らせて、最大限に通ったところで大きな魔術を使う)
 それはアローが今まではやってこなかった、いわば基本中の基本だった。
 聖霊魔法の使い手が聖霊に助力を乞い、充分な加護を集めてから術を発動させるのと同じように、アローはベルの杖を通して木に魔力を少しずつ満たしていく。ベルの杖を通して木を魔術回路の代わりにするのだ。
 根が水を吸って枝葉を伸ばすように、血管が血を指先まで巡らせるように。
 目を閉じる。開ける。淡く紅く輝くアローの瞳が、見える世界を『切り替える』。
 ベルの杖が、自分が立っているその木が、血のような、炎のような紅に染まっていく。
 まるでこの木全体が、煉獄の炎に包まれて燃えるように。
「僕に続け、『ミストルティン』!」
「ええ、主様、仰せのままに!」
 ミステルがクロイツァの攻撃を迎えうつことをやめ、魔力の矢をひとまとめにする。
《アロー、この木は充分に巡らせた》
「わかった。ではいくぞ、師匠。『死を記憶せよ』!」
 枝葉の隅々に行き渡った煉獄の炎が、一斉に燃え上がり、炎の雨となってクロイツァに降り注ぐ。ミステルの放った魔術と合わさって、それは矢のごとく激しさを増す。
「おお、ようやく攻撃か!」
 クロイツァは嬉しそうにニヤついて、立ち上がる。降り注ぐ炎はクロイツァを傷つけない。すべて強すぎる魔術障壁にかき消される。しかし。
 煉獄の炎はアローにとっても脅威ではない。降り注ぐ炎の中で、アローは精霊の縄をクロイツァのすぐそばにある木の枝へと伸ばしていた。
 その伸縮力を膂力に変えて、アローはクロイツァへと肉薄する。
 煉獄の炎を宿したベルの杖を手にとって――。
『死を記憶せよ!』
 紅の光を纏った杖を、クロイツァに向かって振り下ろす。
 激しく舞った火花が、闇夜の森を一瞬昼の色に染めた。
「……ふむ」
 クロイツァはそこで初めて真顔になった。先ほどまであれほど、ニヤついていたのにだ。
(届いてない)
 アローは持てる全力を、杖に集中させていたつもりだった。
 それなのにクロイツァはかすり傷ひとつ負ってはいない。髪ひとつも乱れてはいない。
(格が違いすぎると言えばそれまでだが、なかなか厳しいな)
 反撃を避けるために、すぐに精霊の縄を使って木の上へと退避する。
 しかし、予測に反してクロイツァは追撃をしてこなかった。今まであれだけ呼吸をするように放ってきた火の魔法も、すっかり収めてしまっている。
「ふふふ、はははははは!いいぞ、アロー!」
「……は?」
 突如笑い出したクロイツァに、アローは真顔できき返す。
 クロイツァが脈絡なくツボにはまって笑い出すのは、そう珍しいことではなかった。むしろ日常茶飯事と言っていい。しかし、褒め言葉が出るのは珍しいのだ。何せ相手は、大抵のことは指先ひとつで何とかできる大魔術師である。
 どう考えても今回の笑いのツボと、褒め言葉の意味がわからない。
 困惑するこちらをよそに、クロイツァはひとしきり笑った後、枝の上にいるアローを見上げる。
「お前にしてはよく考えた方だ。まさかここまで近づくことが出来るとは思わなかった!」
「……お、思っていたよりずっと期待されてなかった……」
 そんな低次元でツボに入っていたとは思わず、そこはかとなく傷つく。
(いや、待てよ。師匠は別に僕が善戦するかどうかは、どうでもよかったということか……)
 そもそもクロイツァは『手抜き』をしてこれなのだ。アローがたとえ万全の状態であったとしても、クロイツァは余裕で勝つことができる。
 この大魔術師は天才の天災だ。一矢報いることができると考える方が、どうかしている。
 アローは枝から跳び下りると、クロイツァの元に歩み寄った。もう迎撃もされないだろう。こちらも、もう攻撃する気はない。ここまできて更にやりあうのは、ただの徒労だ。
「言いたいことはまず口で言ってくれ」
「言ってわかるのか? うん? お前が無意識で冥府をほいほい開くクセを改めさせるのに何年かかったと思う?」
「……すみませんでした」
 アローは子供の頃、力を抑えるための封印の魔法道具をつけられていたが、それを全て外してもらえたのは九歳の頃だ。しかも、それから一年経つか経たないかといううちに、王都で例の死霊暴走騒ぎを起こして森に引きこもることになっている。
 つまりぐうの音も出ない。
「だから、お前がきちんとその足りないおつむで考えてやれるように手伝ってあげたんだろう。師匠の愛にむせび泣いてもいいぞ」
「自分で言わなければ、もう少し素直に愛を受け取れたと思うぞ……」
 とはいえ、クロイツァの言い分も身にしみている。師匠による無茶振り試練が始まってこの方、どれだけ自分が死霊術に頼り切っていたのか思い知らされた。
 カタリナの事件で魔力を使い尽くした時にも、ミステルに死霊術に頼り過ぎであることは指摘されていたのだ。
 アローはあまりにも当たり前に死霊術を使いすぎていたので、それを使えなくなった時のことを考えていなかった。その結果、戦闘において仲間の足を引っ張ってしまった。
 それは認めなければいけない事実だった。
「あの女神に愛されすぎたナマグサ司祭だって、お前のように野放図に術は使っていない。必ず聖霊符を用いて、大きな魔法は手順を踏んでいる。お前に足りないのは力加減というやつだ」
「本当に返す言葉もない……」
 アローの死霊術による攻撃は、対価の支払いを気にせず呪術や黒魔術を使っていることに等しい。一歩間違えれば、聖霊魔法の使い手であるハインツよりもはるかに危険だ。頭で理解はできていても、アローは今までそれを問題としてこなかった。
「私がお前に死霊術以外のことを、それこそ森で生きていくには大して必要ないものまで叩き込んだ理由がわかったか?」
「……わかった」
「よろしい。お前はちょっと加減を覚えろ。何も考えずに死霊術を濫用してたら、お前、あっち側に呑まれるぞ?」
「それは……」
 自分には、今までこれしかないと思っていた。いくら他の技術を叩き込まれても、結局アローにとって死霊術よりも有効な手段はない。
 だからずっと、死霊術を使い続けてきた。
 だけど、それをクロイツァに言うことはできない。今まさに、その考えこそが浅はかだと、師匠は暗に示しているのだから。
「お兄様!」
 クロイツァが完全に攻撃を止めたことが、確認できたからだろう。ミステルが飛んできた。
「大丈夫ですか? クロイツァ様にいじめられていませんか?」
「別にいじめられてはいないから安心しろ。師匠が無茶振りなのは、今更だろう」
 本気で心配そうな顔をしているミステルを、苦笑しながらなだめる。
「でも、明らかに落ち込んでますし」
「落ち込んでるのは、まぁ、その、現実を見つめて勝手にヘコんだだけだからそっとしておいてくれ」
「大師匠様に勝てないことに関しては、仕方ないのでは……」
「ああ、そうだな」
 ミステルの勘違いは正さずに、アローはそっと頷いた。
 対するクロイツァはというと、ミステルの言いがかりは華麗に無視をして、アローの手から勝手に精霊の縄をむしり取ってしげしげと観察している。
「死霊術なしのお前の戦闘についてはダメすぎてどこから突っ込んでいいかわからんかったが、この縄だけは面白かったぞ。ガンドライドの時も使っていたな。材料はなんだ?」
「キノコ精霊だ。あの、洞窟とかで光らせるやつ」
「ぎゃはははは! アレか! アレで縄を作ったのか! その発想はなかった! 褒めてやる、こいつはだいぶ面白い!」
 いつも何かにつけて虚無の大笑いしているクロイツァだが、この精霊の縄は本当に気に入ったようだ。ビヨンビヨンと引っ張って伸ばしてみている。自分の発明が師匠に認められたのは、純粋に喜ぶべきところかもしれない。
「ところでアロー」
「何だ。脈絡のある会話をしてくれ」
「王都は楽しいか?」
 言ったそばから、脈絡がない。だが、ツッコミを入れることはできなかった。
 光霊が舞って、薄ぼんやりと夜の森を映し出す。クロイツァが旅に出てからは、ミステルと二人で暮らしていた小さな家。いつの間にか思い出すことがあまりなくなった、我が家。
「……楽しい」
 小さく答えたアローの頭を、クロイツァがくしゃくしゃと撫でる。
「なら、頑張って生き伸びろ。お前はまだあちら側に行くには早い」
 くしゃくしゃと。
 子供の頃、まだミステルもいなかった頃に、よくこんな風に雑に頭を撫でられた。
 ただぼんやりと、本の中の世界でしかなかった森の外のことを思って過ごしていたアローに、師匠クロイツァは気まぐれに優しかった。
「いつか言ったな。お前は必ず孤独になると。だけどな、お前に限らず人間は、生きとし生けるものは全て孤独だ。誰にも他人の全ては理解できないし、己の全てを理解されることはない。そして死が孤独を永遠にする」
 生きているものは全て死ぬ。それは免れることはない。いつから生きているのか、いつまで生きるのかもわからない大魔術師は笑う。
「死なないやつは、私みたいな異端になる。種族としては生産性が薄れてやがて滅びる。結局孤独からは逃れられない。なぁ、黒妖精様よ」
 クロイツァが見上げた先には、まだ木の上からこちらを観察していたリューゲの姿があった。彼女は何も言わず、ただ顔をそらして姿を消す。
 スヴァルトも、アールヴも、もうほとんどいない。アールヴに至っては、ゼーヴァルト王家がその血筋であると言われているだけで、姿は確認されていない。
 死が、滅びが、孤独を呼ぶ。
「だから、アロー。お前が『ただの人間』でありたいなら、冥府の付き合い方をもう少しだけ覚えろ。それと、私の方にも来るな。お前の向かう先は、もうお前が選んだんだ。孤独からは逃げられないが、孤独な奴らなりに寄り集まっていればさほど気にもならないものさ」
「師匠……」
 今のアローの周囲には友人がいて、利害関係もあって、時には敵対する人間もいて。だけど幼い頃に夢想したように、全てを理解しあえる人間なんてどこにもない。死霊だって力で従えているだけで、アローを理解しているわけじゃない。
 あれだけお互いしかいなかったのに、ミステルのことだって彼女が死んでから知ったことがいくつもある。
 いくつもの孤独が寄り集まって、やっと人は孤独であることを忘れられる。
「というわけで、師匠のありがたい説教は終了だ。バカ弟子!」
「あいだだだだだだっ!?
 すっかり油断しきっていたところで、再びあの激痛が襲ってきて、アローほなすすべなくその場に崩れ落ちた。
「はははは! 約束は守ってもう半分も治してやったぞ!」
「……せめて覚悟を決める暇くらい与えるべき場面では?」
 沈没しているアローにかわってミステルが抗議を加えたが、クロイツァは耳を塞いで目をそらした。絶妙に腹立たしい態度である。
 しかしそれに乗せられて手を出せば、痛い目にあうのはわかっていたので、ミステルはぐっと衝動を抑える。
「こらこら、ミステル。お前は美人なんだから、そんな路地裏で犬のうんこ踏んだ時みたいな顔をするな」
「どういう例えですか。そして誰のせいだと思ってますか?」
「責任転嫁は良くないなぁ、ミステル。私は約束通りアローを治してやっただけだぞぉ? お、鳥に糞をかけられたみたいな顔になってきたぞ、いかんな、可愛い顔が台無しだ」
「獣の排泄物で例えるのはやめてくださいます!?
 ミステルが煽りに負けかけたあたりで、ようやくアローはのろのろと起き上がる。
「脳みそを引っ掻き回された気分だ」
「まぁ、脳内の魔術回路をぶっ叩いて詰まりを無理やり取ったみたいなもんだから、あながち間違ってないぞ」
「エグい……」
 もう二度と魔術回路を壊したりしない。いろんな意味でアローは心に誓った。
「さて、じゃあ、用事も済んだし。片付けて帰るぞ」
 クロイツァは涼しい顔で、精霊の縄をアローに投げてよこす。それを受け取りながら、首を傾げた。
「片付け?」
「もう要らんだろう」
 クロイツァの手の一振りで、森の山小屋は鮮やかな炎を上げて燃え上がる。
「い、家が!」
「帰らん家を残してても仕方ないだろう。ああ、荷物については安心しろ。適当にお前の店に放り込んでやったぞ」
「それはありがたい、が……そんなふわっとした理由で、僕は育ちの家を一瞬で燃やされてるのか……」
 感慨も何もあったものではない。
 だけど――。
(多分、これでよかったんだろうな)
 いつか、この家に戻ってくるつもりでいた。ミステルを取り戻したら、二人で静かに死ぬまでこの家で暮らそうと思っていた。
 だけどアローはもう、知ってしまった。森の外の世界を、その先に生きている人々を。
 手を取って笑ってくれた人のことを。
 もう森には戻らない。
 そう決めたのはアロー自身だ。クロイツァにそう指示されたわけでもないし、ミステルに流されたわけでもない。人の中で生きていく。これからも、ずっと。
 家を焼く魔術の炎は、他の森の木々を焼くことはなく、明々と照らし出す。

 ――ここはもう、師匠と、自分と、ミステルだけがいた世界ではないのだ。
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