第10話 黒い獣の八割の一割

文字数 5,382文字

 女性陣の名残惜しそうな声をどうにかはねのけて、アローはハインツ、ギルベルトと共に用意された別室にやってきた。
 さきほどアローが通された部屋は、ベッドや鏡台などが置かれた宿屋とそう変わらない家具だった。しかし、ここはどちらかというと応接間のようだ。向かい合わせにビロードばりの長椅子と、猫足の丸いテーブルが置かれている。
 一人がけの椅子もあって、そこには仕立ての良いドレスをまとった中年の女性が座っていた。
 ノーラたちはだいたい二十歳前後の年頃だった。一人だけ歳の離れているこの女性は、この娼館の店主なのかもしれない。
 世間知らずなアローであるが、その辺の察しは不思議と働くのだった。ただし、未だに娼館が何たるかは理解していない。
 ので、潔く尋ねてみることにした。
「で、このショーカンは結局何をする場所なんだ?」
 率直に尋ねると、ハインツはわざとらしく肩をすくめる。ギルベルトは意味をわかりかねたらしく「はぁ?」と不審げな声をあげた。
「おや、お嬢さんたちに聞かなかったのかい? アロー君」
「聞いたがよくわからなかった。それに、僕が言いたいことはそういうことじゃない。君はただのナマグサ司祭じゃないし、ギルベルトはただの傭兵じゃないだろう」
「おや、ナマグサ司祭とは心外だな。君は案外口が悪い」
「君については、丁寧にへりくだった態度が有効な相手だとは思っていない。とりあえず、質問に答えてくれないか?」
「うーん。さすがに君がそこまで純朴な少年だというのは、私にとっても計算違いでね。ひとまず、偉大なるフライアは命を生み育むことを否定しない。私がここに出入りしている件については一定の理解をいただきたいものだ」
「……あ」
 そこで初めて、アローは娼館の意味を理解した。
 命を生み育むというのは、つまり男と女が子供を成すためのアレである。森の中で純粋培養されたアローも、よもや子供が畑で生まれたり、鳥がどこからともなく運んでくるわけではないことくらい知っている。
 今、アローの中でとうやく『男女の営み』と、『女の子と遊び歩く』と『娼館』がきちんと繋がったのだ。一番目と二番目、二番目と三番目の繋がりが理解できても、それが商売として成立するという発想がなかったのだ。
「……つまり娼館とは、男女の営みを売る店だったのか……?」
「ここに至るまで全く気付かなかったって、ある意味すげーな」
 ギルベルトは心底呆れていたが、アローは娼館の実態を知った衝撃の方が大きかった。商売でそれをやるということは、つまり子を産み家族をなすためなどであるはずもない。あの娘たちは全員、商売としてそれを提供している。ミステルが怒るのも当然である。
 何をしている店なのかわかってしまうと、先ほどまで話していた彼女らの『身請け』に憧れる恋愛話を、なぜもっと真剣に聞いてやらなかったのかとため息が出た。
 しかし、落ち込んでいる場合でもない。現時点で、アローが彼女らにしてやれることはない。そして優先しなければならないのは、今、自分がここに連れてこられた事情の方だ。
「娼館の存在に衝撃を受けるうぶな少年、というのもまた新鮮なものがあるね」
「面白がってんじゃねーぞ、さすがに哀れになってきたわ」
 笑いをかみ殺しているハインツを、ギルベルトがたしなめる。
 この二人、どう考えてもこの娼館の常連同志、という関係性には見えない。もっと旧知の仲であるように思える。そもそも、高位の司祭が一介の傭兵を相手にする方がおかしい。
「で、結局君たちはどういう関係だ。そして僕に何をさせようとしている」
「うん。アロー君はぼけっとしているけれど、そういうところには結構頭が回るようだね。感心感心」
「言っとくけど、俺はただの傭兵だぞ。ハインツのせいで何か面倒事にまきこまれるだけだ」
 ギルベルトがそう言い放って、長椅子に身を投げ出す。もちろん、こんなところに出入りしている時点でただの傭兵なわけがなかった。恐らく、傭兵と兼業で教会の仕事を請け負っているのだろう。
 ハインツはというと、ギルベルトの様子にやはり芝居がかった仕草で肩をすくめると、自分も長椅子に座った。空いた部分を指差す。アローにも座れと言いたいらしい。
「そう言わないでくれるかな、昔馴染みじゃないか。私と馴染みじゃなければ、ここは君のような『ただの傭兵』には一生ご縁のなかった店だよ? ねぇ、女将さん」
 やはり、この年配の女性は店主で間違いないようだ。今まで黙って成り行きを見守っていた彼女は、冷めた目でハインツを睨みつけた。
「ちゃんと金を払ってあたしの娘たちに無体を働かなければ、どんな男もこの店では同列。勘違いをしないことね。坊やは神職なのに羽目を外しすぎじゃないかい」
「おっと、これは耳に痛いね」
 飄々としていたハインツは一転、苦笑いになったが、すぐに気を取り直したようだった。
「もうお察しだとは思うけど、娼館の他にもうひとつの顔がある。主なところは、こういった密談の場所提供だね。女将さんは立会人として同席してるけど、いくら金を積まれたところで彼女はこの部屋での話を口外することはない。彼女の主以外には、ね。恐らく、王都の中ではここが一番信頼できるよ。貴族も使う場所だ」
 女将の主以外には――。
 要するに、女将の上にさらに支配人がいて、その支配人に関わる者だけが使える密約の場として機能しているということだ。貴族も使うというのなら、ここの実質上の支配人は、恐らく王族かそれに近い家柄の人間。
 きっと、他にも色々隠された役割があるのだろう。いくらフライアが男女の営みを否定しないといっても、さすがにこういう店と教会が密約場所の確保のためだけに繋がっているのは不自然だ。
 ハインツとギルベルトは、アローのことを世間知らずのヒキコモリだと思っているかもしれないが、こちらもただ引きこもっていたわけではない。貴族や王族の名前は一通り頭に入っているし、教会と貴族の力関係だって把握している。いつか何かの役にたつかもしれないから、と師匠に叩き込まれたからだ。実際、今まさに役に立っている。
 ひとまず、今重要なのは、何故ハインツがギルベルトを使ってまでアローをここに呼び寄せたのかだ。ただここに連れて来て話すだけなら、教会の宿泊所を出る前にアローを足止めしておけばよかったはずだ。ミステルやヒルダがいるとまずいことがあるのだろうか。
「……率直に聞こう。一体何の用事だ?」
「そんなに警戒しないでくれ。少々、確認事項があってね。……アロー君の魔術のお師匠様は、クロイツァと名乗られてはいなかったかな」
「よく調べたな」
 ――クロイツァ。アローに魔術と戦闘技術と各種知識諸々を叩きこみ、数年前に突然旅に出て、以降行方不明になっている師匠。アローにとっては育ての親でもある。
 森に引きこもっていたアローと一緒に暮らしていたわけであるから、当然クロイツァも引きこもっていたわけなのだが。
「調べた、というよりは知っていた、が正しいね。君のお師匠はその筋では有名人だ。魔術師がほとんどいないこの国に、突然現れた大魔術師クロイツァ様」
「…………大魔術師というほど、偉い人ではないと思う」
 少なくとも、アローの記憶の中にいるクロイツァは、大魔術師の称号を背負うにはあまりにも――あまりにも『アレ』であった。が、師匠が何やら大仰な呼ばれ方をしているのは知っていた。本人が自称、及びネタにしていたからだ。
「クロイツァ様は十数年前、突然男の子の弟子をとって黒き森に隠居した。君はその黒き森でずっと育って、魔術の師匠の元にいたという。となると、当然弟子とは君のことだろうと推測する」
「なるほど……他に該当する者はいないだろうな」
 地下牢に捕らわれていた時、ハインツはヒルダと共にアローの話す身の上話を聞いていた。そこから気づいたのだとすると、ハインツが教会の宿を用意してくれたのには、多少の下心があったのだろう。
 ギルベルトが酒場にいたのも、声をかける機会を見計らっていたから。思えば、傭兵であるトビアスがアローに魔法なしであっさり撃退されるのも(物理で目つぶしをされたのは予想外だったにしろ)妙だった。戦い方を知っている者なら、胸倉をつかむなどという隙の多い行動に出るのはまずいとわかるだろう。やけにあっさりやられたとは思っていたが、そういうことだったのか。
「……今、僕は自分の世間知らずぶりを痛感しているぞ」
「そうかい? で、君のお師匠はクロイツァ様で間違いないんだね?」
「不本意ながら」
 それは「ここで師匠の名を明かすこと」と「好きで弟子になったわけではない」という二重の意味であるが、果たしてハインツに伝わっただろうか。育て親兼任とはいえ、師匠クロイツァの教えは色々な意味で常軌を逸している。
「知っているかもしれないが、師匠は長く不在にしている。あいにく、僕も所在は知らない。行先も聞いていない。僕はずっとミステルと二人きりで暮らしてきた。だから紹介することはできそうにない」
「それは残念だ。クロイツァ様との面会はまたの機会として――ここからが本題だ」
 師匠のことは本題ではなかったようだ。ここまで引っ張っておいて、大魔術師はただのおまけとは。やはり、この司祭、食えない男である。
 彼はテーブルの上に地図を広げる。どうやら都の街路図らしい。
「例の呪殺事件のことだ。教会は今回の事件を重く見ている。何せ王都の、それもフライア大教会の膝元で呪殺が多発なんて、全く笑えないからね。ヒルダ嬢には申し訳ないが、騎士団だけで犯人を捜すのは難しいだろう。そして、教会も色々面倒な体面がある。ので、素性のしれない君に、面倒な捜査をお願いしたい」
「おい、本音をちょっとは隠せよ、ハインツ」
 ギルベルトは呆れた様子でため息をつく。
 しかし、この提案はアローにとっては渡りに船だ。ハインツの思惑がどうであれ、大教会と懇意にするのは利点も大きい。問題は、ハインツが裏で何を考えているか。それくらいだ。
「ただで、というわけにはいかない。僕にも僕の目的がある。君に色々と便宜を図ってもらうことになるかもしれないが、構わないか」
「それはもちろん、善処しよう。私としても、クロイツァの弟子と縁を持つのは悪い話ではない。だから君のお師匠の名前を確認したわけだからね。多少の無理はきくつもりだ。たとえば、君が『大事な妹のために手に入れたいと考えているもの』の用意を、手伝うことも視野に入れられる」
「……そこまで推察されているのなら、本当に話が早くて助かる」
 この男は、アローがミステルのために何を成そうとしているのかわかっている。それに必要なもの、魂や若い娘の遺体のことも。教会ならば、確かにやりようによっては手に入れられるものだ。カタリナに頼むよりも手堅いだろう。
 ハインツを信用するのは危険な気がする。だが、仮にも教会の人間である以上、彼は教会の思惑を無視できない。そして、アローがクロイツァの弟子であることに、彼はそれなりの価値を見出していることを明言している。おそらくその言葉に嘘はない。
 師匠クロイツァ本人の性質はおいておくとして、大魔術師であることは事実。教会がその影響を恐れる程度の、存在。
 アローはハインツの顔をじっ見つめる。深い碧の瞳は、アローのぶしつけな視線にも動じることなく真っ直ぐに見返してきた。
 この世の八割の人間は、心の中に黒い獣を飼っている。純粋な人間は二割いればいい方。そして黒い獣を飼っている八割のうち三割は、心の中に黒い獣しかいない。だから黒い獣の気配を感じる材料が増えていくだけ、その人間への信頼値を下げる。それが師匠クロイツァが語った、世渡りのコツとやらである。
 曖昧すぎて要点を得ないその教えには、続きがあった。
 黒い獣を持つ八割の内三割が完璧な悪人。では残りの八割の内の五割はどうなのか。四割は平凡な人間だという。割合は人それぞれでも、そこそこに良心の呵責があり、自分の中の獣を押さえようとする人々だ。
 では、残りの八割の一割はどうなのか。
 それは、黒い獣を完全に支配して飼いならしている人間だ。こういう人間は、敵に回ると恐ろしく、味方にすれば心強い。
「……僕の見立てがただしければ、君は八割の一割、かな」
「何の話かよくわからないけれど、それは私と手を組んでくれると言うことでよいのかな?」
「前向きに検討する」
「よろしい。では、まず君が用意して欲しいものを聞こうか?」
「呪殺で死亡したと思われる女性の墓のありかを」
「おや、妹さんのことは後回しかい?」
「ああ。まずは君に恩を売ろう」
「なるほど、君はお利口さんだな。いいだろう。それくらいお安い御用だ」
 ハインツは小ばかにするような調子で笑い、しかしその目は値踏みするようにアローを見ている。
(さて、この判断が良い方向に転べばいいが……)
 ひとまず、ハインツに墓の場所を確認させる手筈は整った。
 あとはミステルとヒルダが、カタリナから情報を得てくるのを待てばいい。
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