第59話 大魔術師の不穏な茶会
文字数 6,651文字
森の中を転がるように走り抜け、そして今、アローは再び困難に直面していた。
足元には何もない。はるか下方に森。
頭上には崖の上から睨みつけてくる、魔獣の群れと身体が半分潰れたガンドライドの狼。
「いや、魔獣だけならともかく、こんな早くに復活するとは」
『それよりももっと一大事があるではありませんか!?』
「それもそうだな」
アローは今、崖の中程から生えていた木に、精霊の縄を引っ掛けてしがみついている。
つまり崖から落ちてたまたま木が張り出していたので、偶然にも助かったということだ。
上方の狼、下方の崖下。どっちに行ってもとりあえず死ぬ。
「ひとつ、リューゲにガンドライドをビビらせてもらって、自力で崖を登りきる。ふたつ、精霊の縄を限界まで伸ばしたら、どこまで伸びるか試してみる」
『お兄様、どちらにしろ落ちたら死にます』
「私をあてにしないで欲しいのだけど。貴方の師匠とかいうあのわけわからないのは、それで納得するの?」
「しないな。それと師匠がわけわからないのは認める」
ミステルとリューゲ、双方からツッコミが入る。使い魔も契約妖精も容赦がない。しかし、ずっと木に引っ掛かっているわけにもいくまい。
「魔法道具がもう縄しか残ってない」
『詰んでますね……』
「詰んでいるわ。それと、アロー」
「どうした、リューゲ」
「その木、ミシミシ言ってるわよ」
「そうか。…………え?」
アローが思わず聞き返したその時に、木の枝は人間の重みに耐えられずメリメリと折れ曲がり始める。それを止める術を、今のアローが持ち合わせているはずもない。
「詰んでるな!?」
『だから、そうだって言ってるじゃないですかぁ!』
ミステルの嘆きと共に、アローの身体は中空へと放り出された。
『まったく仕方のない奴だな』
呆れた声が頭の中で響く。
(こ、今度はどこだ!?)
聞き返す暇もなく、アローの身体は忽然と消え去る。
それを上から見ていたガンドライドは、狼の姿から少女の姿へと戻り、吐きすてた。
「クロイツァ……覚えてなさいよ」
■
その頃、グリューネの『魂の言伝屋』の前で、ヒルダは首をかしげていた。
今日は非番である。正確には、同僚と任務を交代してもらって休みをもらっている、
アローの師匠が出した条件とやらは、一週間後という言葉が本当なら今日からのはずだ。何か手伝えることがあればと思い、友人のために駆け付けたのだ。
が、どうやらアローは不在のようだ。
「もしかしてもう出ちゃったのかなぁ。もっと早く来れば良かった……」
小さな窓から中を覗き込んでも、人がいる気配はない。アローは店を開けていなくても、昼間は自室にこもらずに店の側にいるはずだ。
この時間にいないということは、本当にいないのだ。
「大丈夫かなぁ、無茶してないといいけど」
彼女がそう呟いていた頃、アローはまさに森の中で魔獣に追いかけ回されて、だいぶ無茶な状況を強いられていたのだが――ヒルダがそれを知る由もない。
「おお、バカ弟子のお友達様じゃないか?」
不意に声をかけられ、彼女は振り向く。
そこにいたのは、完璧な造形の美女。アローの育て親であり、魔術の師匠、クロイツァだった。
ヒルダは心なしか後ずさった。彼女の騎士としての経験が、危機を察知した。
とっさに逃走経路を確認する。さすがに剣に手をかけることはしなかったが。
「そう警戒するもんじゃないよ、戦女神様」
「なっ……なんで、そのあだ名を……!」
「私は大抵のことは見えるんだ。まぁ、中に入って少し話そうじゃないか。友人から見たアローは、どんな風なのかが気になってねぇ」
「……見えるんじゃなかったんですか?」
「人の心まで、全て見通したりはしないよ。ミステルなんかは、大抵アローのことしか考えていないから、話しがいがない」
「……それについては、同意します」
何せ口を開けば「お兄様」と言い、アローが自分のために魂を集めようとしていることを知りながら、頑なにアローを女性から遠ざけようとするのがミステルである。
彼女の日々の啓蒙活動のおかげで、アローは自分が黙っていればそこそこモテそうな綺麗な顔立ちをしていることを知らない。基本的に世間知らずで言動がズレているだけで、アローは悪人ではない。むしろお人好しな方と言っていい。
じっくりと話す機会があれば、アローは多分普通にモテることができる。ミステルに身体を作ってあげるために、少しずつ魂を集めるのももう少しはかどっていただろう。
それなのにいまだに一かけらも集まっていないのは、ミステルが全力で邪魔しているからだ。
「まぁ、そういうことだから茶にでもつきあえ」
にこにこと笑い、クロイツァは杖で店の扉を粉砕する。二回目。
「……粉砕する必要あるんですか?」
「普通に開けてもつまらん。安心しろ。バカ弟子がうるさいから修理してから帰ってやる」
「そ、そうですか」
わかってはいたが、だいぶおかしい。
ヒルダは今からでも脱兎のごとく逃げるべきか考えたが、驚くことにクロイツァからは一切の隙が見当たらない。
相手は魔術師、それもとても武器を振るえるようには思えない細腕の美女。それなのに、歴戦の戦士を前にしているのかと思う程、隙を見せない。
(アローが、見た目はコロコロかわるって言ってたもんね……)
この絶世の美女に見える『誰か』も、クロイツァ本来の姿ではないのだろう。アローは魔術だけではなく剣や弓なども師匠から習ったと言っていた。恐らく、魔術なしでもかなりの実力者だ。
それに、正直な気持ちを言えば、ヒルダも少しだけ興味があったのだ。必要があれば、アローは自分の過去や内心考えていることを、きちんと教えてくれる。ただ、それは必要があれば、だ。
伝えるべきではないと考えていることは、なかなか言ってくれない。魔術回路が回復しないと寿命が縮むかもしれないなんて、話の流れがそちらに向かなければ彼は言ってくれなかっただろう。
隠しているわけではない。ただ、心配させることなら極力言わない、という判断をして。
「おや、私と話してくれる気になったようだねぇ」
クロイツァは堂々と店に入り、適当な椅子に腰かけた。杖をカツカツと慣らすと、戸棚から茶器と茶葉を詰めた缶が飛び出してきて、勝手にお湯を注ぎ始める。
「まぁ、お茶でも飲みなさい」
「では……いただきます」
ヒルダは素直に受け取る。この店の中にあった、普段からアローがヒルダが遊びに来た時に振る舞ってくれるお茶だ。怪しいものではない。
「アローは、魔術回路修復の件で不在なんですか?」
「ああ、ちょっと黒き森に放り出してきた」
「えっ、黒き森って……」
黒き森は魔獣の住処だ。一応街道もあるにはあるが、屈強な護衛と魔獣除けの護符をいくつも使ってようやく通り抜けられる程。まともな人間はせいぜい入口近くで森の恩恵を少々いただいて、決して奥には入っていかない。
そこに、魔術の使えない状態のアローがいくというのは、かなりまずい状況なのではないだろうか。今すぐにでも助けに行きたいところだが、森までは馬車で何日もかかる。
「心配するな。黒き森はあいつの育った場所、庭みたいなものだ。死霊術が使えなかったからといって、簡単には魔獣の餌になることはない。なったらなったで、修行不足の弟子はいらん」
「そ、そんな……」
「あいつは死霊術に頼りすぎなのだ。この機会にもう一度自分の力の使い道について考えさせる」
「そう、ですか」
そういう理由なら、ヒルダとしても口出ししづらい。
(何か……最初に思っていたよりも、ちゃんとお師匠様してるのね)
何せ初対面では、ゲラゲラ笑いまくっていた印象しかなかったのだ。ヒルダがこう思うのも仕方がないことだろう。
「あいつは、死霊が常に身の回りにいて、生きる者と死んだ者の境目が曖昧だ。だから簡単に死霊術で何とかしようとする。死んだ妹も、手元に置いてしまう」
「それはミステルが、そう望んだからじゃないんですか」
「死というものをきちんと理解していたら、あいつは断ってミステルに安らかな眠りをくれてやっただろう。だからミステルを呼び戻したのは、あいつの間違いだ」
「間違い……」
ヒルダは、アローと王都で再会したばかりの頃を思い出す。あの頃はアローのことを、幼少期に一緒に誘拐された少年だと気づいてすらいなかった。アローもヒルダのことには気づいていなかった。
だけどアローは、知り合ったばかりのヒルダに、かつてこう語った。
――僕はもう、間違っているんだ。
それは、アローが自分が妹であるミステルと離れがたかったために、死霊術で彼女を使い魔にしてしまったことに対するものだった。
死は誰にでも平等。だが、それを受け入れることは、難しい。
アローには死霊術という『手段』があったから、なおさらだ。
「そんな顔をするな。アローだって真性のバカじゃあない。ミステルの件については反省もしているだろう。とはいえ、ミステルがいなくなっただけで大泣きするようではやはり修行が足りんなぁ」
「ああ……」
どうやら彫刻城での顛末も、クロイツァは全て知っているようだ。
「それで、死霊の苦手な戦女神様は、その原因を作ったあいつに何か思う所はおありかな?」
「…………それも知ってるんですか?」
「知っているも何も、暴走したあのバカ弟子を止めてお前も助け出したのは、師匠であるこの私だからなぁ。見たところ、遺恨もなく仲良くしているようだが?」
「死霊は苦手ですけど……アローが苦手なわけじゃないです。アローは大切な……友達、だから」
友達、というところに変に口ごもったのは、別に彼への友情が揺らいでいるからじゃない。
ヒルダの中でも、アローの存在がただの友達とはいえなくなりつつあるからだ。親友、相棒、仲間。どれもしっくりとこない。でも、アローを見ていると、何だか危なっかしくて、世話を焼きたくなってしまう。
(うーん、何なの、これ……母性? 違うか……)
モヤモヤとしていると、クロイツァが急に大笑いしだした。
「ぎゃはははははははは!!」
「ふぇっ!?」
「いや、青春、結構なことだ。アローにも年頃の少年らしい生活ができていて安心したなぁ。何せアレは色々普通じゃない。これからもバカ弟子と仲良くしてやって、人並みの常識でも教えてやってくれ」
「は、はぁ……」
釈然としない気持ちで頷くと、クロイツァが「おや?」と声を上げた。
「何ですか?」
「バカ弟子がガケから落ちたな」
「大丈夫じゃないじゃないですかっ!?」
つらっと言ってのけた大魔術師の姿に、ヒルダの悲鳴が店内に響き渡った。
「まぁ、慌てるな。私はアローが人並みの青春を送っているとわかって大変気分がいい。今回は特別に助けてやったぞ。戦女神様が心配しているからなぁ!」
クロイツァは心底楽しそうに笑って、慌てるヒルダをなだめすかす。
弟子が崖から転落して笑える精神構造が、ヒルダにはよくわからない。とりあえずミステルが師匠の名を聞くなり、絶叫していた理由はわかった。
「あの、戦女神ではなく、ヒルダと呼んでください。私の名前はヒルデガルド・ティーへですので」
「ほう。そうだなぁ、お前の名前は覚えておこう。将来のためにも。……アローの嫁になるかもしれんしな?」
幸か不幸か、クロイツァのつぶやきの最後の方を、ヒルダは聞いていなかった。
助けた、と言ったので、もしかするとアローが店の近くに戻ってきてるのではと思って見回していたからだ。
「ところで、先ほど何か言いました?」
「言っておらん。バカ弟子はひとまず安全なところに放り込んだから、安心しろ」
若干、釈然としない気持ちに駆られながらも、ヒルダは追求しないことにした。クロイツァ相手にはつつけばつつくほど、酷い目にあう予感しかしない。
(本当に、この人の元でよくもあそこまでまともに育ったわね、アロー……)
もはや人類の神秘レベルだ。
「そうですか。でも、これで魔術回路の修復は……」
「しないぞ」
「しないの!?」
安全な場所に移動したというから試練も終わったのかと思えば、どうやらそうではないらしい。
「この程度の頑張りで、手軽に何かを得られると勘違いされては困る。これは序の口だ」
「序の口で崖から落ちますか!?」
十分すぎるほどに命の危機に直面している。普通に考えたら死ぬ。
「魔術回路の治療しないと、アローが早死にするかもしれないって言ってるのに、そのための手段で死んだら意味がないじゃないですか」
「そもそも、魔術回路の件は抜きでも、普通にあいつはこのままなら長生きせんぞ。だからせいぜい生き延びてもらうためにも、自力で力をつけて貰わねばならん」
「えっ?」
聞き捨てならない言葉に、ヒルダの動きが止まる。今、この傲岸不遜の大魔術師は、まるで世間話でもするようなノリで、非常に重大なことを言わなかったか。
「あんなに冥府の近くにいて、普通は長生きはせんだろ。だから、そういう点も含めてあいつにはもう少し死霊術の使い方を考えさせる」
「……ええ?」
ヒルダは困惑の声を上げることしかできないでいる。
わかってはいたはずだった。アローは基本的に、他人に心配をかけるようなことは言わない。隠しはしないが、聞かれるか、自然な流れで話題にならない限り口に出さない。
魔術回路の修復についてもそうだ。オステンワルドの城で、ヒルダの目の前でミステルを呼び出せないことが発覚していなければ、魔術が使えなくなったことすらなかなか言ってくれなかったかもしれない。
クロイツァは、アローが『死と生の境目が薄い』と評したが、ヒルダから見ると『自分の命に重さを感じていない』という風に映っている。
生きとし生けるものは絶対に死ぬ。死は何者にも平等である。
それなのにミステルの死を受け入れなかったことが『間違い』だったと。アローは自分の死生観をそう述べていた。
厳密にはアローの死生観は平等ではない。アローは既に死んでいるミステルよりも、自分の命を軽く見ている。それはオステンワルドで、ミステルを助けるために何の迷いもなくリューゲに魂を差し出そうとしたことからも明らかだった。
それが『どうせ自分は長生きできないから、まともな死に方はできないから』というある種の諦念からきているのだとしたら、そんな哀しいことはない。
「まぁ、そんな悲壮な顔をするなよ、戦女神様。私だって可愛がって育てた弟子が、寿命などというつまらない理由で早死にされては困るのだ」
「あの……アローは私にとって、本当に大切な友達なんです。できれば力になりたいし、それにアローだって、前ほどは簡単に命を捨てたりはしないと思うから」
少しずつ、少しずつでも、アローがグリューネに来て、ヒルダやテオ、ギルベルト、ハインツなどと出会って変わり始めているなら、その先を望むようになっているなら。
クロイツァはどこか愛おしいものを見つめるようなまなざしになって――しかしそれは一瞬で、完全に不遜さを取り戻した。
「よし、では第二の試練と行こうではないか。今度は……そうだな。さすがに魔術なしでは厳しかろう。助っ人を許可しよう。戦女神様も手伝えるかもしれんな」
「本当ですか!? って、いい加減名前で呼んでいただきたいのですけど」
「細かいことは気にするな。まぁ、アローに会いに行ってみろ。あの……何だったか? やたら女に好かれてる司祭。あいつが今の実質上の後見人らしいからな。あいつのところにぶちこんどいたぞ」
女に好かれている、アローの後見人になれる立場の司祭というと、該当する人間はただ一人しかいない。ハインツが女を口説いている情景が脳裏をよぎり、ヒルダは心なしかげんなりとした。どうにもハインツは苦手なのだ。
「う……あの人ですか。わかりました。ありがとうございます」
それでも、アローの力になれるというのなら、ハインツに会うことなど些細な問題だ。
ヒルダはクロイツァに礼をすると、魂の言伝屋を飛び出した。まずは大教会へ。不在かもしれないが、彼の行く場所なんてたかがしれている。
そんな少女騎士の姿を見送りながら、クロイツァはくつくつと笑いをかみ殺していた。
「おっと……アローをガンドライドに狙わせていることは言い忘れたなぁ。ガンドライドは死霊の集合体……ふふふっ、戦女神にとってもこれは修行かもしれんぞ、くくく」
もちろん、アローに会うために通りを駆けている最中のヒルダが、それを知るよしもない。
足元には何もない。はるか下方に森。
頭上には崖の上から睨みつけてくる、魔獣の群れと身体が半分潰れたガンドライドの狼。
「いや、魔獣だけならともかく、こんな早くに復活するとは」
『それよりももっと一大事があるではありませんか!?』
「それもそうだな」
アローは今、崖の中程から生えていた木に、精霊の縄を引っ掛けてしがみついている。
つまり崖から落ちてたまたま木が張り出していたので、偶然にも助かったということだ。
上方の狼、下方の崖下。どっちに行ってもとりあえず死ぬ。
「ひとつ、リューゲにガンドライドをビビらせてもらって、自力で崖を登りきる。ふたつ、精霊の縄を限界まで伸ばしたら、どこまで伸びるか試してみる」
『お兄様、どちらにしろ落ちたら死にます』
「私をあてにしないで欲しいのだけど。貴方の師匠とかいうあのわけわからないのは、それで納得するの?」
「しないな。それと師匠がわけわからないのは認める」
ミステルとリューゲ、双方からツッコミが入る。使い魔も契約妖精も容赦がない。しかし、ずっと木に引っ掛かっているわけにもいくまい。
「魔法道具がもう縄しか残ってない」
『詰んでますね……』
「詰んでいるわ。それと、アロー」
「どうした、リューゲ」
「その木、ミシミシ言ってるわよ」
「そうか。…………え?」
アローが思わず聞き返したその時に、木の枝は人間の重みに耐えられずメリメリと折れ曲がり始める。それを止める術を、今のアローが持ち合わせているはずもない。
「詰んでるな!?」
『だから、そうだって言ってるじゃないですかぁ!』
ミステルの嘆きと共に、アローの身体は中空へと放り出された。
『まったく仕方のない奴だな』
呆れた声が頭の中で響く。
(こ、今度はどこだ!?)
聞き返す暇もなく、アローの身体は忽然と消え去る。
それを上から見ていたガンドライドは、狼の姿から少女の姿へと戻り、吐きすてた。
「クロイツァ……覚えてなさいよ」
■
その頃、グリューネの『魂の言伝屋』の前で、ヒルダは首をかしげていた。
今日は非番である。正確には、同僚と任務を交代してもらって休みをもらっている、
アローの師匠が出した条件とやらは、一週間後という言葉が本当なら今日からのはずだ。何か手伝えることがあればと思い、友人のために駆け付けたのだ。
が、どうやらアローは不在のようだ。
「もしかしてもう出ちゃったのかなぁ。もっと早く来れば良かった……」
小さな窓から中を覗き込んでも、人がいる気配はない。アローは店を開けていなくても、昼間は自室にこもらずに店の側にいるはずだ。
この時間にいないということは、本当にいないのだ。
「大丈夫かなぁ、無茶してないといいけど」
彼女がそう呟いていた頃、アローはまさに森の中で魔獣に追いかけ回されて、だいぶ無茶な状況を強いられていたのだが――ヒルダがそれを知る由もない。
「おお、バカ弟子のお友達様じゃないか?」
不意に声をかけられ、彼女は振り向く。
そこにいたのは、完璧な造形の美女。アローの育て親であり、魔術の師匠、クロイツァだった。
ヒルダは心なしか後ずさった。彼女の騎士としての経験が、危機を察知した。
とっさに逃走経路を確認する。さすがに剣に手をかけることはしなかったが。
「そう警戒するもんじゃないよ、戦女神様」
「なっ……なんで、そのあだ名を……!」
「私は大抵のことは見えるんだ。まぁ、中に入って少し話そうじゃないか。友人から見たアローは、どんな風なのかが気になってねぇ」
「……見えるんじゃなかったんですか?」
「人の心まで、全て見通したりはしないよ。ミステルなんかは、大抵アローのことしか考えていないから、話しがいがない」
「……それについては、同意します」
何せ口を開けば「お兄様」と言い、アローが自分のために魂を集めようとしていることを知りながら、頑なにアローを女性から遠ざけようとするのがミステルである。
彼女の日々の啓蒙活動のおかげで、アローは自分が黙っていればそこそこモテそうな綺麗な顔立ちをしていることを知らない。基本的に世間知らずで言動がズレているだけで、アローは悪人ではない。むしろお人好しな方と言っていい。
じっくりと話す機会があれば、アローは多分普通にモテることができる。ミステルに身体を作ってあげるために、少しずつ魂を集めるのももう少しはかどっていただろう。
それなのにいまだに一かけらも集まっていないのは、ミステルが全力で邪魔しているからだ。
「まぁ、そういうことだから茶にでもつきあえ」
にこにこと笑い、クロイツァは杖で店の扉を粉砕する。二回目。
「……粉砕する必要あるんですか?」
「普通に開けてもつまらん。安心しろ。バカ弟子がうるさいから修理してから帰ってやる」
「そ、そうですか」
わかってはいたが、だいぶおかしい。
ヒルダは今からでも脱兎のごとく逃げるべきか考えたが、驚くことにクロイツァからは一切の隙が見当たらない。
相手は魔術師、それもとても武器を振るえるようには思えない細腕の美女。それなのに、歴戦の戦士を前にしているのかと思う程、隙を見せない。
(アローが、見た目はコロコロかわるって言ってたもんね……)
この絶世の美女に見える『誰か』も、クロイツァ本来の姿ではないのだろう。アローは魔術だけではなく剣や弓なども師匠から習ったと言っていた。恐らく、魔術なしでもかなりの実力者だ。
それに、正直な気持ちを言えば、ヒルダも少しだけ興味があったのだ。必要があれば、アローは自分の過去や内心考えていることを、きちんと教えてくれる。ただ、それは必要があれば、だ。
伝えるべきではないと考えていることは、なかなか言ってくれない。魔術回路が回復しないと寿命が縮むかもしれないなんて、話の流れがそちらに向かなければ彼は言ってくれなかっただろう。
隠しているわけではない。ただ、心配させることなら極力言わない、という判断をして。
「おや、私と話してくれる気になったようだねぇ」
クロイツァは堂々と店に入り、適当な椅子に腰かけた。杖をカツカツと慣らすと、戸棚から茶器と茶葉を詰めた缶が飛び出してきて、勝手にお湯を注ぎ始める。
「まぁ、お茶でも飲みなさい」
「では……いただきます」
ヒルダは素直に受け取る。この店の中にあった、普段からアローがヒルダが遊びに来た時に振る舞ってくれるお茶だ。怪しいものではない。
「アローは、魔術回路修復の件で不在なんですか?」
「ああ、ちょっと黒き森に放り出してきた」
「えっ、黒き森って……」
黒き森は魔獣の住処だ。一応街道もあるにはあるが、屈強な護衛と魔獣除けの護符をいくつも使ってようやく通り抜けられる程。まともな人間はせいぜい入口近くで森の恩恵を少々いただいて、決して奥には入っていかない。
そこに、魔術の使えない状態のアローがいくというのは、かなりまずい状況なのではないだろうか。今すぐにでも助けに行きたいところだが、森までは馬車で何日もかかる。
「心配するな。黒き森はあいつの育った場所、庭みたいなものだ。死霊術が使えなかったからといって、簡単には魔獣の餌になることはない。なったらなったで、修行不足の弟子はいらん」
「そ、そんな……」
「あいつは死霊術に頼りすぎなのだ。この機会にもう一度自分の力の使い道について考えさせる」
「そう、ですか」
そういう理由なら、ヒルダとしても口出ししづらい。
(何か……最初に思っていたよりも、ちゃんとお師匠様してるのね)
何せ初対面では、ゲラゲラ笑いまくっていた印象しかなかったのだ。ヒルダがこう思うのも仕方がないことだろう。
「あいつは、死霊が常に身の回りにいて、生きる者と死んだ者の境目が曖昧だ。だから簡単に死霊術で何とかしようとする。死んだ妹も、手元に置いてしまう」
「それはミステルが、そう望んだからじゃないんですか」
「死というものをきちんと理解していたら、あいつは断ってミステルに安らかな眠りをくれてやっただろう。だからミステルを呼び戻したのは、あいつの間違いだ」
「間違い……」
ヒルダは、アローと王都で再会したばかりの頃を思い出す。あの頃はアローのことを、幼少期に一緒に誘拐された少年だと気づいてすらいなかった。アローもヒルダのことには気づいていなかった。
だけどアローは、知り合ったばかりのヒルダに、かつてこう語った。
――僕はもう、間違っているんだ。
それは、アローが自分が妹であるミステルと離れがたかったために、死霊術で彼女を使い魔にしてしまったことに対するものだった。
死は誰にでも平等。だが、それを受け入れることは、難しい。
アローには死霊術という『手段』があったから、なおさらだ。
「そんな顔をするな。アローだって真性のバカじゃあない。ミステルの件については反省もしているだろう。とはいえ、ミステルがいなくなっただけで大泣きするようではやはり修行が足りんなぁ」
「ああ……」
どうやら彫刻城での顛末も、クロイツァは全て知っているようだ。
「それで、死霊の苦手な戦女神様は、その原因を作ったあいつに何か思う所はおありかな?」
「…………それも知ってるんですか?」
「知っているも何も、暴走したあのバカ弟子を止めてお前も助け出したのは、師匠であるこの私だからなぁ。見たところ、遺恨もなく仲良くしているようだが?」
「死霊は苦手ですけど……アローが苦手なわけじゃないです。アローは大切な……友達、だから」
友達、というところに変に口ごもったのは、別に彼への友情が揺らいでいるからじゃない。
ヒルダの中でも、アローの存在がただの友達とはいえなくなりつつあるからだ。親友、相棒、仲間。どれもしっくりとこない。でも、アローを見ていると、何だか危なっかしくて、世話を焼きたくなってしまう。
(うーん、何なの、これ……母性? 違うか……)
モヤモヤとしていると、クロイツァが急に大笑いしだした。
「ぎゃはははははははは!!」
「ふぇっ!?」
「いや、青春、結構なことだ。アローにも年頃の少年らしい生活ができていて安心したなぁ。何せアレは色々普通じゃない。これからもバカ弟子と仲良くしてやって、人並みの常識でも教えてやってくれ」
「は、はぁ……」
釈然としない気持ちで頷くと、クロイツァが「おや?」と声を上げた。
「何ですか?」
「バカ弟子がガケから落ちたな」
「大丈夫じゃないじゃないですかっ!?」
つらっと言ってのけた大魔術師の姿に、ヒルダの悲鳴が店内に響き渡った。
「まぁ、慌てるな。私はアローが人並みの青春を送っているとわかって大変気分がいい。今回は特別に助けてやったぞ。戦女神様が心配しているからなぁ!」
クロイツァは心底楽しそうに笑って、慌てるヒルダをなだめすかす。
弟子が崖から転落して笑える精神構造が、ヒルダにはよくわからない。とりあえずミステルが師匠の名を聞くなり、絶叫していた理由はわかった。
「あの、戦女神ではなく、ヒルダと呼んでください。私の名前はヒルデガルド・ティーへですので」
「ほう。そうだなぁ、お前の名前は覚えておこう。将来のためにも。……アローの嫁になるかもしれんしな?」
幸か不幸か、クロイツァのつぶやきの最後の方を、ヒルダは聞いていなかった。
助けた、と言ったので、もしかするとアローが店の近くに戻ってきてるのではと思って見回していたからだ。
「ところで、先ほど何か言いました?」
「言っておらん。バカ弟子はひとまず安全なところに放り込んだから、安心しろ」
若干、釈然としない気持ちに駆られながらも、ヒルダは追求しないことにした。クロイツァ相手にはつつけばつつくほど、酷い目にあう予感しかしない。
(本当に、この人の元でよくもあそこまでまともに育ったわね、アロー……)
もはや人類の神秘レベルだ。
「そうですか。でも、これで魔術回路の修復は……」
「しないぞ」
「しないの!?」
安全な場所に移動したというから試練も終わったのかと思えば、どうやらそうではないらしい。
「この程度の頑張りで、手軽に何かを得られると勘違いされては困る。これは序の口だ」
「序の口で崖から落ちますか!?」
十分すぎるほどに命の危機に直面している。普通に考えたら死ぬ。
「魔術回路の治療しないと、アローが早死にするかもしれないって言ってるのに、そのための手段で死んだら意味がないじゃないですか」
「そもそも、魔術回路の件は抜きでも、普通にあいつはこのままなら長生きせんぞ。だからせいぜい生き延びてもらうためにも、自力で力をつけて貰わねばならん」
「えっ?」
聞き捨てならない言葉に、ヒルダの動きが止まる。今、この傲岸不遜の大魔術師は、まるで世間話でもするようなノリで、非常に重大なことを言わなかったか。
「あんなに冥府の近くにいて、普通は長生きはせんだろ。だから、そういう点も含めてあいつにはもう少し死霊術の使い方を考えさせる」
「……ええ?」
ヒルダは困惑の声を上げることしかできないでいる。
わかってはいたはずだった。アローは基本的に、他人に心配をかけるようなことは言わない。隠しはしないが、聞かれるか、自然な流れで話題にならない限り口に出さない。
魔術回路の修復についてもそうだ。オステンワルドの城で、ヒルダの目の前でミステルを呼び出せないことが発覚していなければ、魔術が使えなくなったことすらなかなか言ってくれなかったかもしれない。
クロイツァは、アローが『死と生の境目が薄い』と評したが、ヒルダから見ると『自分の命に重さを感じていない』という風に映っている。
生きとし生けるものは絶対に死ぬ。死は何者にも平等である。
それなのにミステルの死を受け入れなかったことが『間違い』だったと。アローは自分の死生観をそう述べていた。
厳密にはアローの死生観は平等ではない。アローは既に死んでいるミステルよりも、自分の命を軽く見ている。それはオステンワルドで、ミステルを助けるために何の迷いもなくリューゲに魂を差し出そうとしたことからも明らかだった。
それが『どうせ自分は長生きできないから、まともな死に方はできないから』というある種の諦念からきているのだとしたら、そんな哀しいことはない。
「まぁ、そんな悲壮な顔をするなよ、戦女神様。私だって可愛がって育てた弟子が、寿命などというつまらない理由で早死にされては困るのだ」
「あの……アローは私にとって、本当に大切な友達なんです。できれば力になりたいし、それにアローだって、前ほどは簡単に命を捨てたりはしないと思うから」
少しずつ、少しずつでも、アローがグリューネに来て、ヒルダやテオ、ギルベルト、ハインツなどと出会って変わり始めているなら、その先を望むようになっているなら。
クロイツァはどこか愛おしいものを見つめるようなまなざしになって――しかしそれは一瞬で、完全に不遜さを取り戻した。
「よし、では第二の試練と行こうではないか。今度は……そうだな。さすがに魔術なしでは厳しかろう。助っ人を許可しよう。戦女神様も手伝えるかもしれんな」
「本当ですか!? って、いい加減名前で呼んでいただきたいのですけど」
「細かいことは気にするな。まぁ、アローに会いに行ってみろ。あの……何だったか? やたら女に好かれてる司祭。あいつが今の実質上の後見人らしいからな。あいつのところにぶちこんどいたぞ」
女に好かれている、アローの後見人になれる立場の司祭というと、該当する人間はただ一人しかいない。ハインツが女を口説いている情景が脳裏をよぎり、ヒルダは心なしかげんなりとした。どうにもハインツは苦手なのだ。
「う……あの人ですか。わかりました。ありがとうございます」
それでも、アローの力になれるというのなら、ハインツに会うことなど些細な問題だ。
ヒルダはクロイツァに礼をすると、魂の言伝屋を飛び出した。まずは大教会へ。不在かもしれないが、彼の行く場所なんてたかがしれている。
そんな少女騎士の姿を見送りながら、クロイツァはくつくつと笑いをかみ殺していた。
「おっと……アローをガンドライドに狙わせていることは言い忘れたなぁ。ガンドライドは死霊の集合体……ふふふっ、戦女神にとってもこれは修行かもしれんぞ、くくく」
もちろん、アローに会うために通りを駆けている最中のヒルダが、それを知るよしもない。