第50話 満身創痍のドラゴンスレイヤー
文字数 7,228文字
身体に力が入らない。
それでもせめて見届けようと、アローはどうにか首を持ち上げた。
「私が竜に傷をつける」
「おう、その傷痕にぶちこめばいいんだなぁ?」
素早く小回りの利くヒルダが竜鋼の剣で攻撃をし、彼女よりは遅いが一撃の威力があるギルベルトが彼女のつけた傷をえぐる。地味だが、何の対策もなくぶっつけ本番で考えた方法としては一番手堅いだろう。
(でも、常闇竜を倒すには、それくらいじゃかすり傷にしかならない)
リントヴルムの幼竜とはわけが違う。本物の古代竜は人が剣を振るったくらいで簡単には傷つかない。
アローが最後の魔力を絞り出して召喚した死霊の群れを足止めにしているが、そう長持ちはしないだろう。竜の弱点は鱗のない目や口などの粘膜。ここからヒルダ達が頭部のある上階に向かうのは困難だ。
ヒルダたちが少しでも竜を弱らせ、その隙にスヴァルト達の封印が完成することを祈るのが、恐らく今できる最善だ。
「こいつ、鱗なしでもめちゃくちゃかてえな!」
「ごめん、私がもっと深く斬れたらいいんだけど」
ヒルダが比較的鱗の薄い腹や、動きを奪いやすい足の腱を攻撃しているが、竜鋼の剣をもってしても浅くしか傷を作れないようだ。
ギルベルトが即座に傷を深くえぐろうとしても、強靭な身体は魔法剣程度の刃物では大した攻撃力を期待できない。
「まぁ、斬れるだけマシって部類だから仕方ねえ」
(やっぱり、頼みの綱はスヴァルトか……)
リューゲとリリエは今も《詩》の詠唱を行っている。人の耳に届かないそれは、それでも確かに空気を震わせていた。
妖精族は肉体を失い、魂のみでも活動をすることができる。だが、彼らにとって肉体は人間のような生命維持の機能をもつものではなく、優れた魔力の制御機構であったとされている。
だから半妖精でも肉体を持っているリリエの方が、恐らく《詩》の制御能力が高い。彼女だけでは封印として機能しなくても、今は魔力の不足をステルベンが補っている。
少なくともスヴァルトの魂のみに頼っていた時よりは、効力があるはずだ。寝起きに暴れようとしていた竜が、ひとまず動きを止めただけでもまずまずだろう。
それも、アローが冥府の門を維持できなければ上手くはいかない。幸い、冥府の門を開着っぱなしにしていることだけなら、アローはさほど魔力を使わない。この身体自体がある意味冥府の門の一部と言っていいからだ。だからミステルすら維持できなくなった今でも、死霊は冥府からあふれ出ている。
「ギルさん、腱を切るの手伝って」
「おうよ!」
腹を切るのではらちがあかないと判断したのだろう。足の腱を切ることに的を絞ったらしい。足元に回り込むのは危険だが、足の腱を切れば少なくとも二本立ちしている今の体勢を崩すことができる。なかなか刃が通らなくても、回数を重ねれば傷はつく。
もちろん、竜も腹を攻撃され続けていることには気づいているだろう。長い尾の先で、地面に落ちてくる薙ぎ払おうとする。それをヒルダは跳躍して退け、ギルベルトは瓦礫を器用に避け、そして。
「はあっ!」
「オラァ!」
足の腱をめがけて、二人の連撃。
しかし、一回では深い傷はつかない。戻ってきた尾の先の攻撃を、二人は両側に飛びのいて退き、そしてヒルダがもう一撃を足の腱を狙って放つ。しかし。
「あぐっ!!」
「んおっ!?」
一度退避せずに、竜の足元に留まったのが失敗だった。位置関係から今度はよけきれず、彼女らの身体が巻き込まれる。
「ヒルダ! ギルベルト!」
アローは、思わず声を上げた。
ヒルダは竜の尾に叩き潰されることなく、竜の尾にしがみついて片手で果敢に剣を突き立てた。しかし、竜にふり払われて剣ごとふり払われる。
まるで人形を放り捨てるように、ヒルダの身体は高く吹き飛ばされた。アローの眼には、彼女の身体が宙を舞うのが、まるで時の流れがゆっくりと流れているかのように映って。
(……動け!)
悲鳴を上げる身体を叱咤して、アローは袖の内側に縫い付けていたそれを、力を振り絞って投げつける。
『誓約、せよ……展開!』
アローが息も絶え絶えに放った言葉に従い、その魔法道具は展開する。
放射状に延びた『傘』が、洞窟の壁に打ち付けられる寸前でヒルダを受け止め、包み込んだ。
「きゃっ!?」
(間に合った……)
いつだったか、ステルベンに洞穴から落とされた時に使ったキノコの精の護符が、こんなところでまた役にたった。キノコの汎用性の高さに感謝するしかない。
とはいえ、これでアローは体力も限界だ。もう竜の方を向く元気もない。
「アロー、助けてくれてありがとう」
近づいてきた足音とその声で、ヒルダが無事であることを知る。
「…………ギル、ベルト、は?」
「わからない。でも死んでないと思うわ。あの人、絶対しぶといもの」
「そう…………だな」
「それともうひとつ、ありがとう。これで私、竜を倒せるかもしれない?」
「……え?」
ヒルダに助け起こされ、適当な岩肌に背を預けるように座らせられた。
彼女だって無事ではない。元々、アローが冥府から戻ってきた時点で傷だらけで、しかも竜と戦い、更に傷ついて。
それなのに彼女は笑っている。
「任せて、そこで見てて。アローのおかげでいい案が思いついたわ」
ぐっと親指をたてると、彼女は走り始めた。身体の半身にキノコの精の菌糸を纏わせたまま、迷うことなく竜鋼の剣を手に、駆けていく。
(どうして、ヒルダは…………)
ここまで命をかけて頑張って、最後までアローを信頼してくれるのだろうか。
そう思って、答えなんてわかりきっていることに気づいた。それは彼女が彼女だからだ。仲間と決めた人を信じ、自分が信じたことを全力で成す。だからこそ、彼女は女性ながらに剣を取り、ここまで上り詰めた。
ただ「友達を巻き込んで、守れなかった」という幼少期の悔しさが、彼女を迷わせない人間へと育てあげた。アローと出会わなければ、彼女はただ少しおてんばなだけの貴族の少女だった。アローが彼女をこういう生きかたにさせた。
それを、彼女は「お礼が言いたいくらいだ」という。何の迷いもなく、これが自分なのだと笑顔で言い切れる。それが彼女だ。
――それが、アローにとって生まれて初めての友人となった少女の姿だ。
■
「要するに、口や目ならもう少し攻撃が通るのよね!」
竜の咆哮。瓦礫が断続的に崩れ落ちる薄闇の洞窟で、戦女神はまだ勝利を諦めない。
再び竜の近くへと辿りついたヒルダは、腰と肩口に巻きつけていた菌糸の、肩に巻きつけていた先を竜の頭部に向かって投げつけた。菌糸は放射状に延びて、近くにあったもの――すなわち、竜の身体へととりつく。
伸縮性のある菌糸は、跳躍したヒルダの身体を一気に竜の頭部近くへと引き上げた。
「さぁ、私と一緒に踊りましょうか?」
竜の鼻先にある角につかまり、彼女は剣を構え直す。振り払うための尾はこの場所までは届かない。そして、スヴァルトの歌の効力もあってか、ヒルダを振り払う程首を振り動かすこともできないようだ。仮に落とされたとしても、菌糸があるので墜落死は免れる。
「ヒルダさん!?」
その声に気づいて、ヒルダは振り返った。上階の、崩れていない比較的安定した場所に陣取って、テオが弓を構えている。
よく見ると竜の目玉にはすでに何本もの矢がうがたれていて、半開きになった口からも、数本の矢羽がはみ出ている。
「逃げなかったの!?」
「ね、年収分の矢を撃てる機会なんてそうそうないので……!」
「何その理由!?」
自分も豪邸一軒分の剣を振るうことに腰が引けていた事実は棚上げして、ヒルダがツッコミを入れる。
戦女神と名高いとはいえ、ヒルダも騎士団内では若輩者だ。見習い騎士であるテオは言うまでもない。要するに少しばかり貧乏性が出るのも仕方ない程度の収入なのである。
ましてやこのゼーヴァルトは基本平和で、今回の古代竜封印などは例外中の例外。武勲を立てる機会は武芸大会くらいだ。
それはともかく。
「本当に弓矢の腕前だけはえっぐいわね」
「それだけが自慢なんで!」
「開き直らないで。私がもう片方の目を潰すから、残りの矢、全部ぶちこんで」
「わ、わっかりました!」
若干声がひっくり返っていたが、それでもテオは正確無比にドラゴンの眼に矢を突き立てる。決してすぐ近くにしがみついているヒルダに当てることはない。
竜の頭が自由に動き回れるほど、この上部の空間は広くなかった。だからテオの矢は片側の眼しか射ることができていない。だから、もう片側が無傷なのだ。
ヒルダは竜の頭に乗ったまま、無事なもう片方の目の位置を確認する。
「さぁ、こっちは弓矢よりもさらに痛いわよ、覚悟してよね!」
黒い刀身に銀の光を纏ったその剣を、ヒルダは渾身の力を込めて常闇竜の眼へと突き立てた。
――咆哮が洞窟内を揺らしたように思えた。
両目を潰された龍の雄叫びが、空気を振動させる。
「うえええええ」
半泣きになりながら、それでもテオは弓を引き絞り、大きな竜の瞳に竜鋼の矢を突き立てる。
「テオ、矢の残りは?」
竜の眼から剣を引き抜き、ヒルダは鼻先の角にしがみつきつつ叫んだ。
「あ、あと二本です」
さすがに両目はそれなりの痛手だったのか、常闇竜はヒルダを振り落とそうと頭を岩肌に叩きつけている。
「いい加減におとなしくなってよね!」
ヒルダは角に捕まったままでも届く範囲で刺せる場所を探し、見つけた。
「あんまり気が進まないけど許して!」
力の限りを尽くして、鼻の穴に剣をねじ込む。
咆哮、咆哮、咆哮。
血のよだれをまき散らしながら、竜はもがき、頭の上の異物であるヒルダを振るい落とそうとする。
ヒルダは菌糸の一部を鼻先の角に巻きつけながら、その揺れに耐えた。そして、テオに向かってもう一度叫ぶ。
「残りの矢、全部撃って」
「は、はいっ!?」
テオは弓を構える。しかし、竜が激しく頭を振っているので目に狙いが定まらない。撃てないことはないが、目に当たっても傷が浅くなる。それでは意味がない。
竜は苦しげに口を開け、咆哮を続ける。傷つき、喘ぎ、スヴァルトの歌に縛られて暴れることも叶わずに。
その竜が、突然ビクリと動きを止めた。
(い、今だ……)
テオは弓を手に走る。
当然のことだが、狩りは得物が動きを止めている時の方が狙いやすい。確実に仕留められる場所を狙えるからだ。目を潰しただけでは竜は死なない。それならば。
竜が吠える。
横からでは大した威力にがならないかもしれないが、正面からなら。口を開けている、今なら。
少年は走った。騎士としては、正直落ちこぼれだった彼が。家に居場所もなく騎士団に放り込まれ、唯一の自慢だった弓の腕前も馬鹿にされて、すっかりやる気もなくなっていたちっぽけな見習い騎士が、自分の意思で唯一の誇りを手に走った。
竜のいる間際は一歩間違えば転落死は免れない絶壁。そのギリギリの位置にたって竜を睨みつけた。
狙うのは喉の奥。二本の矢を同時に番え、少年は狙いを定める。
「いけぇっ!!」
黒の鋼のやじりが、銀の閃光を放って飛んだ。
口を開けた竜の喉に、至近距離からの竜鋼の矢が突き刺さる。
再び、洞窟全体が揺れるかのような振動。咆哮。振動。
「や、やった……うへぁぁあっ!?」
若干気の抜ける悲鳴を上げて、テオは足を踏み外す。何せ断崖の淵に立っていたのだ。その上竜の咆哮で洞窟全体が大きな揺れに見舞われている。
視界がひっくり返る。血を吐きながらのたうつ竜の顎が見えて、テオは自分が落ちたことを理解した。そしてこれから死ぬのだということを。
(役に……立てた、けど)
こんなところで終わってしまう。少年騎士はここに来てからのことを走馬灯のようにぐるぐると思いだしていた。ミステルにだって、やっと見直してもらえたのに。ヒルダにも、褒めてもらえて、やっと、やっと――。
「テオ! 弓を離さないでね!」
「ふぇっ!?」
がくん、という衝撃と共に、彼の落下は停止した。ヒルダが彼を助けるために飛び降りたからだ。まだ竜の身体に菌糸を繋いだままだったので、二人の墜落は免れた。
「本当にアローには感謝だわ。キノコ活躍しすぎ」
「き、キノコ!?」
「これ、キノコの菌糸だから」
「え、ええぇ?」
困惑するテオをよそに、ヒルダは器用に竜の身体と洞窟の壁とを蹴り飛ばして勢いを殺し、何とか地面に降り立った。
「お、お前ら無事だったんだな」
「ギルさん!」
ギルベルトの声にほっとして、ヒルダは振り向く。テオも同様に振り向いたのだが、二人はほぼ同時に顔を引きつらせた。
ギルベルトが頭からつま先まで竜の血を被って、赤黒くてらてらと光っている様相だったからだ。
「気持ち悪っ!」
「ギルベルトさん、何かアローさんの呼び出した死霊よりも禍々しい存在になってますけど大丈夫ですか!?」
「てめえらな…………」
それでも自分が酷い様相である自覚はあったようだ。彼は汚れが酷い上に欠けて壊れてしまった鎧と、血濡れの上着を脱いで放り捨てた。もう使いものにならないからだ。
「この竜の尻尾にふっとばされて転がった先が、丁度尻の辺りでよぉ」
彼の言動に、ヒルダはほのかにいやな予感を感じ取った。
「ま、まさか……」
「大発見だな。古代竜でも肛門は柔かったぞ?」
「汚い!」
「汚いです!」
声を合わせて思いっきり後ずさった戦女神と見習い騎士を前に、ギルベルトは不服そうな顔で地面にあぐらをかいて座った。
「ご挨拶だな、血しか浴びてねえよ! ウンコ浴びてたらさすがに俺もちょっとは心折れたぜ?」
「古代竜の排泄の心配なんてしないでよ!? ……まさか、一瞬竜の動きが止まったのって、ギルさんが肛門に剣を刺してたせい?」
「え……俺の起死回生の一撃って、ギルベルトさんの肛門攻撃に支えられてたんですか?」
全力の白い目を向ける騎士二人に、傭兵は動じることなく思案顔をする。
「いやでも、肛門があったってことはあいつらウンコするんだよな? すげえ発見じゃねえ?」
「あのー、ギルベルトさん、ウンコウンコいうのやめてください……俺、今までにないくらい命かけてたのに、ウンコの穴の話で色々吹き飛んだので」
テオが悟りを開ききった老神官のような顔になっている。
ヒルダは何だか気が抜けて、呆然と竜の身体を見上げた。竜は動かない。スヴァルトの封印がようやく完成したのか、息絶えたのかはわからないが。
「……終わったわよ。危ない所だったわね」
気づくとリューゲがヒルダの前に立っていた。リリエは消耗をしているのか、ステルベンに抱えられている。それでも命に別状はなさそうだ。
「封印できたんですか?」
「いいえ、死んだわ。貴方たち、古代竜相手にずいぶんとやりあったわねぇ」
リューゲは「ほら」と竜の足元を指差す。爪先から徐々に、黒い石へと変化が始まっていた。ほのかに銀の燐光を纏うその石は、竜鋼に他ならない。
「常闇竜は死ぬと竜鋼を残すの。これだけあれば、オステンワルドは当分、竜鋼の産地として安泰でしょうね」
「おー、肛門ぶっさされて石化とはなかなか壮絶な最後だなぁ」
「こ、肛門……?」
とどめをさしたのはテオとヒルダであるが、スヴァルトの盟友にして兵器である常闇竜を、肛門を刺して倒したというのはリューゲにとってもさすがに予想外だったようだ。一瞬ピリピリとする殺気が彼女の周りに漂ったが、しかし彼女はため息をついて首を振った。
「仲間たちも帰ったわ。貴方たちも帰りなさい。……このままじゃ、貴方のお友達の眼を今すぐ持っていくことになるわよ?」
「っ! そうだ、アロー!」
あれだけいた死霊の群れはもういない。スヴァルトの魂が帰還するとともに、全て引きずり戻されてしまったのだろう。
そして、冥府の門を維持できていないということは、アローがすでに力尽きているということでもあった。
「アロー、しっかりして!」
岩壁に背を預けたまま、アローはピクリとも動かずに眠っている。息はある。しかし、怪我のせいなのか、無理をして術を使い続けたせいなのか、信じられないほどに熱が高い。
「い、医者。お医者さん呼んできて!?」
「落ち着け、お嬢ちゃん。ここに医者呼ぶより医者のところ連れていく方が早い」
ヒルダとギルベルトが焦ったところで、リリエを抱えたまま、テルベンがやってくる。
「……黙ってそこにまとまれ。転移する」
彼は何事か古代語で唱え――そして、一行は気づくと彫刻城のエントランスに投げだされていた。
「リリエに手を貸したり、この子たちまで運んであげたり、随分丸くなったものね、ステルベン」
一歩遅れて姿を現したリューゲに、ステルベンはため息を突きながらリリエをそっと下におろす。
「礼を忘れるほど愚かではないさ。そこの死霊術師は早く神官の元にでも連れていけ。今ならまだ助かる」
「あ、はいっ」
ヒルダがアローを背負おうとしたところで、ギルベルトが横から抱え上げた。
「こういう力作業は俺がやんだよ」
「え、今のギルさんは衛生的にちょっと」
「そんなこと言ってる場合かよ」
「あっ、ちょっと待ってくださいよ、俺だってちょっとくらいは怪我したんですからね!?」
騒がしく言い合いながらも、三人の人間は慌ただしく彫刻城へと入っていく。辺境伯に口をきいてもらえば、治癒術の使える司祭もすぐに読んでもらえるだろう。悲鳴が聞こえたのは、血まみれのギルベルトが満身創痍の一団を引きつれてきたので、使用人が驚いたかもしてない。
その様子に、リリエはクスリと微笑んだ。
ずっとこの城の地下に眠っていた負の遺産が、永遠に眠った。もう誰も死ななくてもいい。もう誰も魂を犠牲にすることはない。形式上とはいえ、封印になるために生きることを許されてきた彼女にとって、それは福音であった。
そんな彼女の方に、ステルベンがそっと手を置く。
「お前に話がある。…父として」
それでもせめて見届けようと、アローはどうにか首を持ち上げた。
「私が竜に傷をつける」
「おう、その傷痕にぶちこめばいいんだなぁ?」
素早く小回りの利くヒルダが竜鋼の剣で攻撃をし、彼女よりは遅いが一撃の威力があるギルベルトが彼女のつけた傷をえぐる。地味だが、何の対策もなくぶっつけ本番で考えた方法としては一番手堅いだろう。
(でも、常闇竜を倒すには、それくらいじゃかすり傷にしかならない)
リントヴルムの幼竜とはわけが違う。本物の古代竜は人が剣を振るったくらいで簡単には傷つかない。
アローが最後の魔力を絞り出して召喚した死霊の群れを足止めにしているが、そう長持ちはしないだろう。竜の弱点は鱗のない目や口などの粘膜。ここからヒルダ達が頭部のある上階に向かうのは困難だ。
ヒルダたちが少しでも竜を弱らせ、その隙にスヴァルト達の封印が完成することを祈るのが、恐らく今できる最善だ。
「こいつ、鱗なしでもめちゃくちゃかてえな!」
「ごめん、私がもっと深く斬れたらいいんだけど」
ヒルダが比較的鱗の薄い腹や、動きを奪いやすい足の腱を攻撃しているが、竜鋼の剣をもってしても浅くしか傷を作れないようだ。
ギルベルトが即座に傷を深くえぐろうとしても、強靭な身体は魔法剣程度の刃物では大した攻撃力を期待できない。
「まぁ、斬れるだけマシって部類だから仕方ねえ」
(やっぱり、頼みの綱はスヴァルトか……)
リューゲとリリエは今も《詩》の詠唱を行っている。人の耳に届かないそれは、それでも確かに空気を震わせていた。
妖精族は肉体を失い、魂のみでも活動をすることができる。だが、彼らにとって肉体は人間のような生命維持の機能をもつものではなく、優れた魔力の制御機構であったとされている。
だから半妖精でも肉体を持っているリリエの方が、恐らく《詩》の制御能力が高い。彼女だけでは封印として機能しなくても、今は魔力の不足をステルベンが補っている。
少なくともスヴァルトの魂のみに頼っていた時よりは、効力があるはずだ。寝起きに暴れようとしていた竜が、ひとまず動きを止めただけでもまずまずだろう。
それも、アローが冥府の門を維持できなければ上手くはいかない。幸い、冥府の門を開着っぱなしにしていることだけなら、アローはさほど魔力を使わない。この身体自体がある意味冥府の門の一部と言っていいからだ。だからミステルすら維持できなくなった今でも、死霊は冥府からあふれ出ている。
「ギルさん、腱を切るの手伝って」
「おうよ!」
腹を切るのではらちがあかないと判断したのだろう。足の腱を切ることに的を絞ったらしい。足元に回り込むのは危険だが、足の腱を切れば少なくとも二本立ちしている今の体勢を崩すことができる。なかなか刃が通らなくても、回数を重ねれば傷はつく。
もちろん、竜も腹を攻撃され続けていることには気づいているだろう。長い尾の先で、地面に落ちてくる薙ぎ払おうとする。それをヒルダは跳躍して退け、ギルベルトは瓦礫を器用に避け、そして。
「はあっ!」
「オラァ!」
足の腱をめがけて、二人の連撃。
しかし、一回では深い傷はつかない。戻ってきた尾の先の攻撃を、二人は両側に飛びのいて退き、そしてヒルダがもう一撃を足の腱を狙って放つ。しかし。
「あぐっ!!」
「んおっ!?」
一度退避せずに、竜の足元に留まったのが失敗だった。位置関係から今度はよけきれず、彼女らの身体が巻き込まれる。
「ヒルダ! ギルベルト!」
アローは、思わず声を上げた。
ヒルダは竜の尾に叩き潰されることなく、竜の尾にしがみついて片手で果敢に剣を突き立てた。しかし、竜にふり払われて剣ごとふり払われる。
まるで人形を放り捨てるように、ヒルダの身体は高く吹き飛ばされた。アローの眼には、彼女の身体が宙を舞うのが、まるで時の流れがゆっくりと流れているかのように映って。
(……動け!)
悲鳴を上げる身体を叱咤して、アローは袖の内側に縫い付けていたそれを、力を振り絞って投げつける。
『誓約、せよ……展開!』
アローが息も絶え絶えに放った言葉に従い、その魔法道具は展開する。
放射状に延びた『傘』が、洞窟の壁に打ち付けられる寸前でヒルダを受け止め、包み込んだ。
「きゃっ!?」
(間に合った……)
いつだったか、ステルベンに洞穴から落とされた時に使ったキノコの精の護符が、こんなところでまた役にたった。キノコの汎用性の高さに感謝するしかない。
とはいえ、これでアローは体力も限界だ。もう竜の方を向く元気もない。
「アロー、助けてくれてありがとう」
近づいてきた足音とその声で、ヒルダが無事であることを知る。
「…………ギル、ベルト、は?」
「わからない。でも死んでないと思うわ。あの人、絶対しぶといもの」
「そう…………だな」
「それともうひとつ、ありがとう。これで私、竜を倒せるかもしれない?」
「……え?」
ヒルダに助け起こされ、適当な岩肌に背を預けるように座らせられた。
彼女だって無事ではない。元々、アローが冥府から戻ってきた時点で傷だらけで、しかも竜と戦い、更に傷ついて。
それなのに彼女は笑っている。
「任せて、そこで見てて。アローのおかげでいい案が思いついたわ」
ぐっと親指をたてると、彼女は走り始めた。身体の半身にキノコの精の菌糸を纏わせたまま、迷うことなく竜鋼の剣を手に、駆けていく。
(どうして、ヒルダは…………)
ここまで命をかけて頑張って、最後までアローを信頼してくれるのだろうか。
そう思って、答えなんてわかりきっていることに気づいた。それは彼女が彼女だからだ。仲間と決めた人を信じ、自分が信じたことを全力で成す。だからこそ、彼女は女性ながらに剣を取り、ここまで上り詰めた。
ただ「友達を巻き込んで、守れなかった」という幼少期の悔しさが、彼女を迷わせない人間へと育てあげた。アローと出会わなければ、彼女はただ少しおてんばなだけの貴族の少女だった。アローが彼女をこういう生きかたにさせた。
それを、彼女は「お礼が言いたいくらいだ」という。何の迷いもなく、これが自分なのだと笑顔で言い切れる。それが彼女だ。
――それが、アローにとって生まれて初めての友人となった少女の姿だ。
■
「要するに、口や目ならもう少し攻撃が通るのよね!」
竜の咆哮。瓦礫が断続的に崩れ落ちる薄闇の洞窟で、戦女神はまだ勝利を諦めない。
再び竜の近くへと辿りついたヒルダは、腰と肩口に巻きつけていた菌糸の、肩に巻きつけていた先を竜の頭部に向かって投げつけた。菌糸は放射状に延びて、近くにあったもの――すなわち、竜の身体へととりつく。
伸縮性のある菌糸は、跳躍したヒルダの身体を一気に竜の頭部近くへと引き上げた。
「さぁ、私と一緒に踊りましょうか?」
竜の鼻先にある角につかまり、彼女は剣を構え直す。振り払うための尾はこの場所までは届かない。そして、スヴァルトの歌の効力もあってか、ヒルダを振り払う程首を振り動かすこともできないようだ。仮に落とされたとしても、菌糸があるので墜落死は免れる。
「ヒルダさん!?」
その声に気づいて、ヒルダは振り返った。上階の、崩れていない比較的安定した場所に陣取って、テオが弓を構えている。
よく見ると竜の目玉にはすでに何本もの矢がうがたれていて、半開きになった口からも、数本の矢羽がはみ出ている。
「逃げなかったの!?」
「ね、年収分の矢を撃てる機会なんてそうそうないので……!」
「何その理由!?」
自分も豪邸一軒分の剣を振るうことに腰が引けていた事実は棚上げして、ヒルダがツッコミを入れる。
戦女神と名高いとはいえ、ヒルダも騎士団内では若輩者だ。見習い騎士であるテオは言うまでもない。要するに少しばかり貧乏性が出るのも仕方ない程度の収入なのである。
ましてやこのゼーヴァルトは基本平和で、今回の古代竜封印などは例外中の例外。武勲を立てる機会は武芸大会くらいだ。
それはともかく。
「本当に弓矢の腕前だけはえっぐいわね」
「それだけが自慢なんで!」
「開き直らないで。私がもう片方の目を潰すから、残りの矢、全部ぶちこんで」
「わ、わっかりました!」
若干声がひっくり返っていたが、それでもテオは正確無比にドラゴンの眼に矢を突き立てる。決してすぐ近くにしがみついているヒルダに当てることはない。
竜の頭が自由に動き回れるほど、この上部の空間は広くなかった。だからテオの矢は片側の眼しか射ることができていない。だから、もう片側が無傷なのだ。
ヒルダは竜の頭に乗ったまま、無事なもう片方の目の位置を確認する。
「さぁ、こっちは弓矢よりもさらに痛いわよ、覚悟してよね!」
黒い刀身に銀の光を纏ったその剣を、ヒルダは渾身の力を込めて常闇竜の眼へと突き立てた。
――咆哮が洞窟内を揺らしたように思えた。
両目を潰された龍の雄叫びが、空気を振動させる。
「うえええええ」
半泣きになりながら、それでもテオは弓を引き絞り、大きな竜の瞳に竜鋼の矢を突き立てる。
「テオ、矢の残りは?」
竜の眼から剣を引き抜き、ヒルダは鼻先の角にしがみつきつつ叫んだ。
「あ、あと二本です」
さすがに両目はそれなりの痛手だったのか、常闇竜はヒルダを振り落とそうと頭を岩肌に叩きつけている。
「いい加減におとなしくなってよね!」
ヒルダは角に捕まったままでも届く範囲で刺せる場所を探し、見つけた。
「あんまり気が進まないけど許して!」
力の限りを尽くして、鼻の穴に剣をねじ込む。
咆哮、咆哮、咆哮。
血のよだれをまき散らしながら、竜はもがき、頭の上の異物であるヒルダを振るい落とそうとする。
ヒルダは菌糸の一部を鼻先の角に巻きつけながら、その揺れに耐えた。そして、テオに向かってもう一度叫ぶ。
「残りの矢、全部撃って」
「は、はいっ!?」
テオは弓を構える。しかし、竜が激しく頭を振っているので目に狙いが定まらない。撃てないことはないが、目に当たっても傷が浅くなる。それでは意味がない。
竜は苦しげに口を開け、咆哮を続ける。傷つき、喘ぎ、スヴァルトの歌に縛られて暴れることも叶わずに。
その竜が、突然ビクリと動きを止めた。
(い、今だ……)
テオは弓を手に走る。
当然のことだが、狩りは得物が動きを止めている時の方が狙いやすい。確実に仕留められる場所を狙えるからだ。目を潰しただけでは竜は死なない。それならば。
竜が吠える。
横からでは大した威力にがならないかもしれないが、正面からなら。口を開けている、今なら。
少年は走った。騎士としては、正直落ちこぼれだった彼が。家に居場所もなく騎士団に放り込まれ、唯一の自慢だった弓の腕前も馬鹿にされて、すっかりやる気もなくなっていたちっぽけな見習い騎士が、自分の意思で唯一の誇りを手に走った。
竜のいる間際は一歩間違えば転落死は免れない絶壁。そのギリギリの位置にたって竜を睨みつけた。
狙うのは喉の奥。二本の矢を同時に番え、少年は狙いを定める。
「いけぇっ!!」
黒の鋼のやじりが、銀の閃光を放って飛んだ。
口を開けた竜の喉に、至近距離からの竜鋼の矢が突き刺さる。
再び、洞窟全体が揺れるかのような振動。咆哮。振動。
「や、やった……うへぁぁあっ!?」
若干気の抜ける悲鳴を上げて、テオは足を踏み外す。何せ断崖の淵に立っていたのだ。その上竜の咆哮で洞窟全体が大きな揺れに見舞われている。
視界がひっくり返る。血を吐きながらのたうつ竜の顎が見えて、テオは自分が落ちたことを理解した。そしてこれから死ぬのだということを。
(役に……立てた、けど)
こんなところで終わってしまう。少年騎士はここに来てからのことを走馬灯のようにぐるぐると思いだしていた。ミステルにだって、やっと見直してもらえたのに。ヒルダにも、褒めてもらえて、やっと、やっと――。
「テオ! 弓を離さないでね!」
「ふぇっ!?」
がくん、という衝撃と共に、彼の落下は停止した。ヒルダが彼を助けるために飛び降りたからだ。まだ竜の身体に菌糸を繋いだままだったので、二人の墜落は免れた。
「本当にアローには感謝だわ。キノコ活躍しすぎ」
「き、キノコ!?」
「これ、キノコの菌糸だから」
「え、ええぇ?」
困惑するテオをよそに、ヒルダは器用に竜の身体と洞窟の壁とを蹴り飛ばして勢いを殺し、何とか地面に降り立った。
「お、お前ら無事だったんだな」
「ギルさん!」
ギルベルトの声にほっとして、ヒルダは振り向く。テオも同様に振り向いたのだが、二人はほぼ同時に顔を引きつらせた。
ギルベルトが頭からつま先まで竜の血を被って、赤黒くてらてらと光っている様相だったからだ。
「気持ち悪っ!」
「ギルベルトさん、何かアローさんの呼び出した死霊よりも禍々しい存在になってますけど大丈夫ですか!?」
「てめえらな…………」
それでも自分が酷い様相である自覚はあったようだ。彼は汚れが酷い上に欠けて壊れてしまった鎧と、血濡れの上着を脱いで放り捨てた。もう使いものにならないからだ。
「この竜の尻尾にふっとばされて転がった先が、丁度尻の辺りでよぉ」
彼の言動に、ヒルダはほのかにいやな予感を感じ取った。
「ま、まさか……」
「大発見だな。古代竜でも肛門は柔かったぞ?」
「汚い!」
「汚いです!」
声を合わせて思いっきり後ずさった戦女神と見習い騎士を前に、ギルベルトは不服そうな顔で地面にあぐらをかいて座った。
「ご挨拶だな、血しか浴びてねえよ! ウンコ浴びてたらさすがに俺もちょっとは心折れたぜ?」
「古代竜の排泄の心配なんてしないでよ!? ……まさか、一瞬竜の動きが止まったのって、ギルさんが肛門に剣を刺してたせい?」
「え……俺の起死回生の一撃って、ギルベルトさんの肛門攻撃に支えられてたんですか?」
全力の白い目を向ける騎士二人に、傭兵は動じることなく思案顔をする。
「いやでも、肛門があったってことはあいつらウンコするんだよな? すげえ発見じゃねえ?」
「あのー、ギルベルトさん、ウンコウンコいうのやめてください……俺、今までにないくらい命かけてたのに、ウンコの穴の話で色々吹き飛んだので」
テオが悟りを開ききった老神官のような顔になっている。
ヒルダは何だか気が抜けて、呆然と竜の身体を見上げた。竜は動かない。スヴァルトの封印がようやく完成したのか、息絶えたのかはわからないが。
「……終わったわよ。危ない所だったわね」
気づくとリューゲがヒルダの前に立っていた。リリエは消耗をしているのか、ステルベンに抱えられている。それでも命に別状はなさそうだ。
「封印できたんですか?」
「いいえ、死んだわ。貴方たち、古代竜相手にずいぶんとやりあったわねぇ」
リューゲは「ほら」と竜の足元を指差す。爪先から徐々に、黒い石へと変化が始まっていた。ほのかに銀の燐光を纏うその石は、竜鋼に他ならない。
「常闇竜は死ぬと竜鋼を残すの。これだけあれば、オステンワルドは当分、竜鋼の産地として安泰でしょうね」
「おー、肛門ぶっさされて石化とはなかなか壮絶な最後だなぁ」
「こ、肛門……?」
とどめをさしたのはテオとヒルダであるが、スヴァルトの盟友にして兵器である常闇竜を、肛門を刺して倒したというのはリューゲにとってもさすがに予想外だったようだ。一瞬ピリピリとする殺気が彼女の周りに漂ったが、しかし彼女はため息をついて首を振った。
「仲間たちも帰ったわ。貴方たちも帰りなさい。……このままじゃ、貴方のお友達の眼を今すぐ持っていくことになるわよ?」
「っ! そうだ、アロー!」
あれだけいた死霊の群れはもういない。スヴァルトの魂が帰還するとともに、全て引きずり戻されてしまったのだろう。
そして、冥府の門を維持できていないということは、アローがすでに力尽きているということでもあった。
「アロー、しっかりして!」
岩壁に背を預けたまま、アローはピクリとも動かずに眠っている。息はある。しかし、怪我のせいなのか、無理をして術を使い続けたせいなのか、信じられないほどに熱が高い。
「い、医者。お医者さん呼んできて!?」
「落ち着け、お嬢ちゃん。ここに医者呼ぶより医者のところ連れていく方が早い」
ヒルダとギルベルトが焦ったところで、リリエを抱えたまま、テルベンがやってくる。
「……黙ってそこにまとまれ。転移する」
彼は何事か古代語で唱え――そして、一行は気づくと彫刻城のエントランスに投げだされていた。
「リリエに手を貸したり、この子たちまで運んであげたり、随分丸くなったものね、ステルベン」
一歩遅れて姿を現したリューゲに、ステルベンはため息を突きながらリリエをそっと下におろす。
「礼を忘れるほど愚かではないさ。そこの死霊術師は早く神官の元にでも連れていけ。今ならまだ助かる」
「あ、はいっ」
ヒルダがアローを背負おうとしたところで、ギルベルトが横から抱え上げた。
「こういう力作業は俺がやんだよ」
「え、今のギルさんは衛生的にちょっと」
「そんなこと言ってる場合かよ」
「あっ、ちょっと待ってくださいよ、俺だってちょっとくらいは怪我したんですからね!?」
騒がしく言い合いながらも、三人の人間は慌ただしく彫刻城へと入っていく。辺境伯に口をきいてもらえば、治癒術の使える司祭もすぐに読んでもらえるだろう。悲鳴が聞こえたのは、血まみれのギルベルトが満身創痍の一団を引きつれてきたので、使用人が驚いたかもしてない。
その様子に、リリエはクスリと微笑んだ。
ずっとこの城の地下に眠っていた負の遺産が、永遠に眠った。もう誰も死ななくてもいい。もう誰も魂を犠牲にすることはない。形式上とはいえ、封印になるために生きることを許されてきた彼女にとって、それは福音であった。
そんな彼女の方に、ステルベンがそっと手を置く。
「お前に話がある。…父として」