1-9 後悔
文字数 6,233文字
「伊霧芽郁 ……」
「それがあの女の子の名前だ」
助手席のシートベルトを外しながら、夏波は志賀に教えられた名前を口にして宙空を見つめた。
どこかで聞いた覚えのある名前だ。だが、知り合いにいるという訳ではない。あくまでも既視感に近いものだ。
「すごく既視感がある、ような……」
「知ってる名前か?」
「や、知ってるって程じゃないんですけど」
うーん、と唸りながら記憶を探るが、霞を掴むに近い。早々に諦めて、首を振った。
「気のせいかもです。すみません」
「いや、気のせいでも良い。今後もそうやって共有しろ」
え、と車のドアを閉める手が思わず固まった。「なんだ」と相変わらず不機嫌そうにしている志賀にもう一度謝って、夏波は今度こそドアを閉める。車両に鍵をかけて歩き出す志賀の一歩後ろを付いて行きながら、夏波はじぃっと志賀の背中を見つめた。
てっきり、「どうでもいい事は口にするな」などと言われるかと思ったのだ。存外寛容な一言に驚いた、というのは流石に失礼が過ぎるか。
「……なんなんだ」
どうやって視線に気がついたのか、志賀はジロリと夏波を睨む。
「あ、いや、何でもないです!」
取り繕うのが下手なのは、昔から自覚はあれど直せない部分の一つだ。たまには三科を見習って「何がです?」くらいの返答を余裕をもってしたいのだが、それができるのなら苦労はしない。
志賀はふんと鼻を鳴らし、足早に駐車場を抜けると、病院の入り口を潜った。院内に立ち入ると温かい風が頬をなぜ、寒風によって失われていた体温が分かりやすく戻ってくる。いつの間にか縮こまらせていた肩の力がふっと抜けた。
「青葉中央警察署の者だ。さっき連絡を入れた通り、伊霧匠との面会がしたい」
志賀はさっさと面会受付の場所に寄ると、座っていた女性に用件を告げる。が、彼女は苦笑を浮かべてのたまった。
「申し訳ございません、身分証明をいただけますか?」
彼は後ろポケットから警察手帳を取り出すと受付に突きつける。
「……ちょっとお待ち下さいね」
受付はニコリと営業スマイルを志賀に向け、受付の奥へと引っ込んだ。そして奥にいる幾人かの看護師とヒソヒソ何かを会話をしながら、志賀をチラチラと伺いみている。
――いや、めっちゃ疑われてない?
夏波の内心は冷や汗で水浸しだ。
受付の態度は丁寧さを崩してこそいないが、志賀を子どもだと思っているのだろう事は透けていた。志賀が警察手帳を突き出した時の表情や、今もなお送られているあの視線はきっと、いたずらだとでも思っているのだろう。
――気持ちは、正直分かるけど……
口が裂けても言えないが、看護師達の誤解は致し方ないものだろう。
志賀の見た目はどんなによく見繕っても高校生、それも1年生かそこらだ。剣から事前に28歳であるという情報を受け取っていなければ、夏波とて彼を子ども扱いしていた可能性は大いにある。
まして、パーカーにジーンズ、それも金髪姿の彼を警察の人間だとは思えまい。
受付の女性は、子ども扱いが透けて見えるとはいえ、志賀を小馬鹿にした態度を取らないだけプロなのだ。
やがてひとしきり相談を終えたらしい女性が戻ってくると、張り付けたような営業スマイルで
「申し訳ございませんが、保護――」
「あーッ、えっと! こ、これ、はい、警察手帳です! 僕も警察です!」
保護者、と言いかけた女性の言葉を全速力で遮って、夏波はポケットから抜き出した自分の警察手帳を見せる。看護師は少し驚いた様に目を見開くと、一度志賀を不思議そうに見やってから、「えっと……お待ちくださいね」と言って再度奥へと引っ込んだ。
舌を打つ志賀の冠は、あからさまに曲がっていた。
「もっとちゃんと警察手帳見せたら良かったんじゃ……」
「嫌いなんだよ、アレ」
「いや、嫌いとかあります?」
短い会話を重ねている間に、受付が戻った。
「大変失礼致しました。病棟8階のナースステーションをお訪ねください。そちらのエレベーターで昇って、降りたらすぐ右手にありますので」
「あ、はい。ありがとうございます」
ニコリと笑顔を向けると、受付の女性も微笑み返してくれる。夏波はそのまま顔を背け、足早にエレベーターに近づいてボタンを押し込んだ。
「……」
少し考え込むようにしながら、志賀はゆっくりとその後を付いてくる。
「どうしました?」
「……いや、なんでもない」
声をかけるが、すげなく一蹴されてしまった。
平日の昼間とはいうものの、大学病院ともあって人は多い。2人が乗り込む頃にはエレベーターを待つ人間はそこそこの数まで増えていた。8階につくまでも、ナースステーションを訪ねるまでも志賀との会話は無い。しかし、志賀は大人しく夏波の後をついて歩くようになり、看護師の対応は任せたと言わんばかりである。
「こちらが伊霧君の病室です。朝食は摂っているので、起きてるかとは思うんですけど……」
ナースステーションで声をかけた看護師は、病室前まで2人を案内しながら言う。コンコン、と軽いノックをすると、病室の中からくぐもった声で「はい」と返事が聞こえてきた。
――あれ?
既視感。どこかで聞いた声だ。だがやはりどこで聞いたかは明確に思い出せず、夏波の胸に不安が落ち込む。
病室に立ち入った看護師が、
「失礼しますね。伊霧君、警察の方がお話聞きたいって。……良いかな?」
そう声をかけると、僅かに息を飲むような間の後、もう一度静かに「はい」と返事する声があった。看護師は戻ってきて目配せをし、病室の中へ入るようにと促してくる。すると、それまで黙って付いてきていた志賀が、まっさきに病室に滑り込んでいった。不思議そうに志賀を見る看護師に
「あっ、終わったら、お呼びしたほうがいいですか?」
と話しかけて意識を反らす。看護師は「そうですね、お願いします」と頷いてからナースステーションへと戻って行った。
「……何だお前」
「さっき看護師が言ってたろ。警察だ」
「はぁ? ……嘘つけ、オレと同い年くらいじゃんか」
「……お前の2倍近く生きとるわ」
いざ病室の扉を閉めた段階で聞こえてきた会話に、軽く目眩が起こる。
――確かに、これはめちゃくちゃ効率悪いわ
ここで、ほんの1時間ほど前の光景を夏波は脳裏に思い描く。
この大学病院に来る前。宮藤と志賀の2人から能力の説明を受けた際、宮藤は今回の無茶な人事異動について言及した。
『突然引き抜く形になって、本当に申し訳ないと思ってるわ。……でも、貴方には志賀君と2人で行動してもらうのが一番だと私が判断したのよ』
『それは、僕を保護するためなんですか……?』
『勿論それが一番の理由よ。けど……、あけすけに言っちゃえば、警察内にいる能力者を使わない手はない、って考えもあるわ。能力者による被害はここ最近で少しずつ多くなってて、志賀君1人じゃ正直危険だし……何より彼単体だと“ものすごく効率が悪い”のよ』
宮藤はちらりと志賀を見て、はぁ、とため息をつく。“ものすごく効率が悪い”という言葉に志賀が噛み付くのでは、と思ったが、志賀は不本意そうに沈黙するばかりで口を開く様子はなかった。
『特殊対策室の使命は、世間を“能力”による混乱から守る事。その為には、人目に触れてしまっている異常を速やかに解決しなきゃならない』
志賀君のサポートをどうかよろしくね、と、宮藤に託されている。
なるほど、ここまでの道中で“ものすごく効率が悪い”と宮藤が言っていた理由は既に分かった気がする。
問題は志賀の見た目と態度だ。今もまさにだが、先程の受付の反応を鑑みても、志賀1人の捜査では最初に一度誤解を解くターンを挟まなければならないのだ。しかし、誤解を解かなければならない当の本人はあの仏頂面で、しかも説明下手ときた。その対処も、事情を知っている宮藤にしかできないが、彼女とて多忙の身。常時対応などできる訳もない。
能力という特殊案件だけに人員補充もできず、かと言って放置しておいたら被害が広がるばかり。そうして困っていたところに夏波が現れた、といったところか。毎度こんな調子なのだとしたら、無茶を通したくなる気持ちも多少は理解できる。
「マジで何なんだよお前……!ウゼェんだよ!」
まだ声変わりが来ていないのか、志賀よりも幾分か高い声質。病室内にいた少年はイラつきを抑えられないといった風に怒鳴ると、窓の方へと顔を背けてしまった。
夏波は志賀の隣へそっと近寄る。志賀はチラリと夏波を見上げるなり、顎をくいと動かしてベッド上の少年を示した。
行けと。そういうことらしい。
「あの……伊霧匠 君?」
「あ……?」
夏波が声をかけると、彼は目を尖らせたまま振り返った。だが、志賀以外にもう1人いたとは思わなかったのだろう。驚いた様に目を見張り、暫く呆然と夏波を見つめる。
「青葉中央警察署から来ました、夏波って言います」
念の為警察手帳を出してから、ペコリと頭を下げた。少年はなおも訝しむように夏波を見つめていたが、やがて「どうも……」と罰が悪そうに答える。
「体調は……どうかな」
「別に……。痛いとかは無いです」
「そっか、良かった」
できるだけ柔らかい口調で、柔らかい表情を心がける。志賀との対話の内容でかなり警戒したが、こうして話してみると普通の男子中学生だ。だがやはり棘を感じるのは、元々気が立っていたのだろう。
――そりゃ、そうだよね。
伊霧匠 。彼は、夏波が志賀に蹴り飛ばされた日に見つけたあの少年だった。そして、公園で出会った伊霧芽郁の弟なのだという。
宮藤から最初に下された指令は、伊霧芽郁の保護、それに伴う伊霧匠への事情聴取だ。まずは何が起こったのかを探った後、彼女への対策を立てるということらしい。
最早志賀に話をする気が1ミリたりとして見えない現状、夏波が色々と聞き出すしかないのだろう。思考を必死にフル回転させながら、できるだけ神経を逆撫でしない言葉を摘み取って渡す。
「自分達は今、伊霧芽郁さんの行方を追って捜査をしています。匠君の知る範囲の情報を、どうか教えていただけないでしょうか」
中学生だからと侮ってはならない。彼らは最早子どもなどではないし、察する能力に至っては恐らく夏波よりも数段高いのだ。下手に同情する方がきっと不快を買う。そう判断した夏波は、少し事務的な口調を組み込みながら語りかけた。
「……あんま、覚えてないし、なんか夢とごっちゃになってるかもですけど」
「構いません。君の記憶の届く範囲。話せる範囲でお願いします。夢と混ざっていても大丈夫」
幸い、夏波の言葉には特段の敵愾心を見せずに答えてくれる。匠はポツリポツリと、記憶を辿りながら話を始めた。
「……オレ、その日の午前は部活の練習でした。いつも通り電車で学校いって、普通に帰るつもりだったんだけど、アイツ……芽郁から連絡入って、『今から迎えに行くから駅で待ってろ』って。めっちゃウザかったけど、すれ違ったらめんどくせーなって思って待ってたのに、全然来なくて。もうどうでもいいやってなって家に帰ったら、……アイツがいた」
そこまで口を挟まずに話を聞いていた夏波は、ふと胸の辺りの服を軽く鷲掴む。ざわざわと違和感が襲った。何故なのだろう。今初めて聞いた話のはずなのに、確かな既視感が生まれている。まるでこの話を彼から聞き出す前から知っていたような、強烈なデジャヴ。
「部屋に入ったら、アイツの目の前に、何か変な白い塊みたいなのがあったんです。何かよくわかんねー、なんだろ、彫刻? みたいな。アイツ、あ、芽郁が、それの前で泣いてて。で、声かけたら、なんか変な顔して、外に走って出て行ったんです。ビックリして追いかけたら、……玄関の扉が無くなってて」
「無くなってた……?」
こくり、と匠は頷く。志賀が匠に聞こえない程の小さな低い声で、
「塩化してた。出る時に触ったんだ」
と補足してくれた。
「扉があった所は白い砂? 塩みたいなのが山になってて、全然意味分かんねーし、アイツが何処行ったかも分かんないから、一旦部屋に戻ったんです。そんで、部屋に落ちてたその白い塊を調べて……。……ここから先がなんか、夢なのか本当なのかごっちゃなんですけど、……その部屋にあった白い塊、見た目がすげえ父さんと母さんに似てました」
「え……」
出かけた言葉を必死に押し隠す。志賀が何も言わない所を見るに、彼はそれを既に知っていたのだろう。
匠は続ける。
「それで……塊を触ったら、触った指の先が……どんどん真っ白になってきて、……怖くなって外に出た後は……覚えてません」
能力が生き物に被害を及ぼした場合、延焼のような現象を起こす事がある。
先の説明で、志賀の言葉がフラッシュバックを起こした。父親と母親に似ていたという白い塊。触れたら自らも白く染まっていったという事は、それは――
「起きたら別に何ともなかったんで、だから夢かもしれないんですけど。……でも」
そこで、匠は一度言葉を切った。話の途中から震え始めていた声が、そこで限界を迎えたのだ。それでも彼はまだ何かを言おうとしていた。夏波はじっとそれを待つ。
「母さんと父さんは……」
吐き出すようにしてもなお、彼はそこまでしか言葉にできなかった。どう返していいのか分からず、夏波は必死に言葉を探す。しかし
「亡くなった」
長い沈黙を破り、それに答えたのは志賀だった。
「志賀さん……!」
「隠す意味がない」
はっきりと逃げ場のないほど明確な言葉に、夏波は思わず志賀を詰る。しかし志賀は表情も変えず、匠から視線を逸らす事もしなかった。
「そう……すか……」
少年は今度こそ夏波と志賀から顔を背ける。
「……そうなんじゃないかって、思ってたんで……。医者も何も、言わねーし、……入院してんのに、連絡も、……なにも……」
途切れ途切れの涙声を必死に抑え、匠は大きく胸に溜まっていたのだろう息を吐き出した。そうして何度か呼吸を繰り返し、若干震えの収まった声で問いかける。
「……芽郁は、生きてるんですか」
「生きている」
「……! なら……!」
志賀の即座の返答は、希望の灯火のようなものだったのだろう。沈み込んでいた顔をはっと持ち上げると、匠は目を大きく見開いた。ところが、直ぐにまた顔を伏せ、呟く様に言うのだ。
「家出る前に……喧嘩してて、このまま姉ちゃんまで死んじゃってたら、どうしようかと思って……」
かすれゆく声で言う彼の存在は、あまりにも心許なかった。当然だ。突然両親を喪い、唯一残った姉も行方知れずともなれば。
「アイツを……お願いします。何やったのかとか、知らねーけど……姉ちゃんまでいなくなったら、オレ……」
ぼた、と、掛け布団の上に大粒の水が落ちる。誰にも見えないように、まるでこちらに頭を下げるかのように、匠は顔を伏せて静かに懇願する。
「もう二度と……、……死ねなんて言わねーから……、頼むから……」
その願いは恐らく、自分達に向けられたものではないのだろう。しかしそれが分かっていてもなお、夏波は心臓を掴まれているかのような息苦しさから逃れることができなかった。
彼への同情や、彼の両親を悼む気持ちも確かにある。しかしそれ以上に、鉛のようなわだかまりが胸の内を支配する。伊霧姉弟の名前を聞いた時から、何度も夏波を襲っているデジャヴ。それは伊霧匠の言葉を聞くたびに、夏波の中で警鐘を鳴らし続けていた。
「それがあの女の子の名前だ」
助手席のシートベルトを外しながら、夏波は志賀に教えられた名前を口にして宙空を見つめた。
どこかで聞いた覚えのある名前だ。だが、知り合いにいるという訳ではない。あくまでも既視感に近いものだ。
「すごく既視感がある、ような……」
「知ってる名前か?」
「や、知ってるって程じゃないんですけど」
うーん、と唸りながら記憶を探るが、霞を掴むに近い。早々に諦めて、首を振った。
「気のせいかもです。すみません」
「いや、気のせいでも良い。今後もそうやって共有しろ」
え、と車のドアを閉める手が思わず固まった。「なんだ」と相変わらず不機嫌そうにしている志賀にもう一度謝って、夏波は今度こそドアを閉める。車両に鍵をかけて歩き出す志賀の一歩後ろを付いて行きながら、夏波はじぃっと志賀の背中を見つめた。
てっきり、「どうでもいい事は口にするな」などと言われるかと思ったのだ。存外寛容な一言に驚いた、というのは流石に失礼が過ぎるか。
「……なんなんだ」
どうやって視線に気がついたのか、志賀はジロリと夏波を睨む。
「あ、いや、何でもないです!」
取り繕うのが下手なのは、昔から自覚はあれど直せない部分の一つだ。たまには三科を見習って「何がです?」くらいの返答を余裕をもってしたいのだが、それができるのなら苦労はしない。
志賀はふんと鼻を鳴らし、足早に駐車場を抜けると、病院の入り口を潜った。院内に立ち入ると温かい風が頬をなぜ、寒風によって失われていた体温が分かりやすく戻ってくる。いつの間にか縮こまらせていた肩の力がふっと抜けた。
「青葉中央警察署の者だ。さっき連絡を入れた通り、伊霧匠との面会がしたい」
志賀はさっさと面会受付の場所に寄ると、座っていた女性に用件を告げる。が、彼女は苦笑を浮かべてのたまった。
「申し訳ございません、身分証明をいただけますか?」
彼は後ろポケットから警察手帳を取り出すと受付に突きつける。
「……ちょっとお待ち下さいね」
受付はニコリと営業スマイルを志賀に向け、受付の奥へと引っ込んだ。そして奥にいる幾人かの看護師とヒソヒソ何かを会話をしながら、志賀をチラチラと伺いみている。
――いや、めっちゃ疑われてない?
夏波の内心は冷や汗で水浸しだ。
受付の態度は丁寧さを崩してこそいないが、志賀を子どもだと思っているのだろう事は透けていた。志賀が警察手帳を突き出した時の表情や、今もなお送られているあの視線はきっと、いたずらだとでも思っているのだろう。
――気持ちは、正直分かるけど……
口が裂けても言えないが、看護師達の誤解は致し方ないものだろう。
志賀の見た目はどんなによく見繕っても高校生、それも1年生かそこらだ。剣から事前に28歳であるという情報を受け取っていなければ、夏波とて彼を子ども扱いしていた可能性は大いにある。
まして、パーカーにジーンズ、それも金髪姿の彼を警察の人間だとは思えまい。
受付の女性は、子ども扱いが透けて見えるとはいえ、志賀を小馬鹿にした態度を取らないだけプロなのだ。
やがてひとしきり相談を終えたらしい女性が戻ってくると、張り付けたような営業スマイルで
「申し訳ございませんが、保護――」
「あーッ、えっと! こ、これ、はい、警察手帳です! 僕も警察です!」
保護者、と言いかけた女性の言葉を全速力で遮って、夏波はポケットから抜き出した自分の警察手帳を見せる。看護師は少し驚いた様に目を見開くと、一度志賀を不思議そうに見やってから、「えっと……お待ちくださいね」と言って再度奥へと引っ込んだ。
舌を打つ志賀の冠は、あからさまに曲がっていた。
「もっとちゃんと警察手帳見せたら良かったんじゃ……」
「嫌いなんだよ、アレ」
「いや、嫌いとかあります?」
短い会話を重ねている間に、受付が戻った。
「大変失礼致しました。病棟8階のナースステーションをお訪ねください。そちらのエレベーターで昇って、降りたらすぐ右手にありますので」
「あ、はい。ありがとうございます」
ニコリと笑顔を向けると、受付の女性も微笑み返してくれる。夏波はそのまま顔を背け、足早にエレベーターに近づいてボタンを押し込んだ。
「……」
少し考え込むようにしながら、志賀はゆっくりとその後を付いてくる。
「どうしました?」
「……いや、なんでもない」
声をかけるが、すげなく一蹴されてしまった。
平日の昼間とはいうものの、大学病院ともあって人は多い。2人が乗り込む頃にはエレベーターを待つ人間はそこそこの数まで増えていた。8階につくまでも、ナースステーションを訪ねるまでも志賀との会話は無い。しかし、志賀は大人しく夏波の後をついて歩くようになり、看護師の対応は任せたと言わんばかりである。
「こちらが伊霧君の病室です。朝食は摂っているので、起きてるかとは思うんですけど……」
ナースステーションで声をかけた看護師は、病室前まで2人を案内しながら言う。コンコン、と軽いノックをすると、病室の中からくぐもった声で「はい」と返事が聞こえてきた。
――あれ?
既視感。どこかで聞いた声だ。だがやはりどこで聞いたかは明確に思い出せず、夏波の胸に不安が落ち込む。
病室に立ち入った看護師が、
「失礼しますね。伊霧君、警察の方がお話聞きたいって。……良いかな?」
そう声をかけると、僅かに息を飲むような間の後、もう一度静かに「はい」と返事する声があった。看護師は戻ってきて目配せをし、病室の中へ入るようにと促してくる。すると、それまで黙って付いてきていた志賀が、まっさきに病室に滑り込んでいった。不思議そうに志賀を見る看護師に
「あっ、終わったら、お呼びしたほうがいいですか?」
と話しかけて意識を反らす。看護師は「そうですね、お願いします」と頷いてからナースステーションへと戻って行った。
「……何だお前」
「さっき看護師が言ってたろ。警察だ」
「はぁ? ……嘘つけ、オレと同い年くらいじゃんか」
「……お前の2倍近く生きとるわ」
いざ病室の扉を閉めた段階で聞こえてきた会話に、軽く目眩が起こる。
――確かに、これはめちゃくちゃ効率悪いわ
ここで、ほんの1時間ほど前の光景を夏波は脳裏に思い描く。
この大学病院に来る前。宮藤と志賀の2人から能力の説明を受けた際、宮藤は今回の無茶な人事異動について言及した。
『突然引き抜く形になって、本当に申し訳ないと思ってるわ。……でも、貴方には志賀君と2人で行動してもらうのが一番だと私が判断したのよ』
『それは、僕を保護するためなんですか……?』
『勿論それが一番の理由よ。けど……、あけすけに言っちゃえば、警察内にいる能力者を使わない手はない、って考えもあるわ。能力者による被害はここ最近で少しずつ多くなってて、志賀君1人じゃ正直危険だし……何より彼単体だと“ものすごく効率が悪い”のよ』
宮藤はちらりと志賀を見て、はぁ、とため息をつく。“ものすごく効率が悪い”という言葉に志賀が噛み付くのでは、と思ったが、志賀は不本意そうに沈黙するばかりで口を開く様子はなかった。
『特殊対策室の使命は、世間を“能力”による混乱から守る事。その為には、人目に触れてしまっている異常を速やかに解決しなきゃならない』
志賀君のサポートをどうかよろしくね、と、宮藤に託されている。
なるほど、ここまでの道中で“ものすごく効率が悪い”と宮藤が言っていた理由は既に分かった気がする。
問題は志賀の見た目と態度だ。今もまさにだが、先程の受付の反応を鑑みても、志賀1人の捜査では最初に一度誤解を解くターンを挟まなければならないのだ。しかし、誤解を解かなければならない当の本人はあの仏頂面で、しかも説明下手ときた。その対処も、事情を知っている宮藤にしかできないが、彼女とて多忙の身。常時対応などできる訳もない。
能力という特殊案件だけに人員補充もできず、かと言って放置しておいたら被害が広がるばかり。そうして困っていたところに夏波が現れた、といったところか。毎度こんな調子なのだとしたら、無茶を通したくなる気持ちも多少は理解できる。
「マジで何なんだよお前……!ウゼェんだよ!」
まだ声変わりが来ていないのか、志賀よりも幾分か高い声質。病室内にいた少年はイラつきを抑えられないといった風に怒鳴ると、窓の方へと顔を背けてしまった。
夏波は志賀の隣へそっと近寄る。志賀はチラリと夏波を見上げるなり、顎をくいと動かしてベッド上の少年を示した。
行けと。そういうことらしい。
「あの……
「あ……?」
夏波が声をかけると、彼は目を尖らせたまま振り返った。だが、志賀以外にもう1人いたとは思わなかったのだろう。驚いた様に目を見張り、暫く呆然と夏波を見つめる。
「青葉中央警察署から来ました、夏波って言います」
念の為警察手帳を出してから、ペコリと頭を下げた。少年はなおも訝しむように夏波を見つめていたが、やがて「どうも……」と罰が悪そうに答える。
「体調は……どうかな」
「別に……。痛いとかは無いです」
「そっか、良かった」
できるだけ柔らかい口調で、柔らかい表情を心がける。志賀との対話の内容でかなり警戒したが、こうして話してみると普通の男子中学生だ。だがやはり棘を感じるのは、元々気が立っていたのだろう。
――そりゃ、そうだよね。
宮藤から最初に下された指令は、伊霧芽郁の保護、それに伴う伊霧匠への事情聴取だ。まずは何が起こったのかを探った後、彼女への対策を立てるということらしい。
最早志賀に話をする気が1ミリたりとして見えない現状、夏波が色々と聞き出すしかないのだろう。思考を必死にフル回転させながら、できるだけ神経を逆撫でしない言葉を摘み取って渡す。
「自分達は今、伊霧芽郁さんの行方を追って捜査をしています。匠君の知る範囲の情報を、どうか教えていただけないでしょうか」
中学生だからと侮ってはならない。彼らは最早子どもなどではないし、察する能力に至っては恐らく夏波よりも数段高いのだ。下手に同情する方がきっと不快を買う。そう判断した夏波は、少し事務的な口調を組み込みながら語りかけた。
「……あんま、覚えてないし、なんか夢とごっちゃになってるかもですけど」
「構いません。君の記憶の届く範囲。話せる範囲でお願いします。夢と混ざっていても大丈夫」
幸い、夏波の言葉には特段の敵愾心を見せずに答えてくれる。匠はポツリポツリと、記憶を辿りながら話を始めた。
「……オレ、その日の午前は部活の練習でした。いつも通り電車で学校いって、普通に帰るつもりだったんだけど、アイツ……芽郁から連絡入って、『今から迎えに行くから駅で待ってろ』って。めっちゃウザかったけど、すれ違ったらめんどくせーなって思って待ってたのに、全然来なくて。もうどうでもいいやってなって家に帰ったら、……アイツがいた」
そこまで口を挟まずに話を聞いていた夏波は、ふと胸の辺りの服を軽く鷲掴む。ざわざわと違和感が襲った。何故なのだろう。今初めて聞いた話のはずなのに、確かな既視感が生まれている。まるでこの話を彼から聞き出す前から知っていたような、強烈なデジャヴ。
「部屋に入ったら、アイツの目の前に、何か変な白い塊みたいなのがあったんです。何かよくわかんねー、なんだろ、彫刻? みたいな。アイツ、あ、芽郁が、それの前で泣いてて。で、声かけたら、なんか変な顔して、外に走って出て行ったんです。ビックリして追いかけたら、……玄関の扉が無くなってて」
「無くなってた……?」
こくり、と匠は頷く。志賀が匠に聞こえない程の小さな低い声で、
「塩化してた。出る時に触ったんだ」
と補足してくれた。
「扉があった所は白い砂? 塩みたいなのが山になってて、全然意味分かんねーし、アイツが何処行ったかも分かんないから、一旦部屋に戻ったんです。そんで、部屋に落ちてたその白い塊を調べて……。……ここから先がなんか、夢なのか本当なのかごっちゃなんですけど、……その部屋にあった白い塊、見た目がすげえ父さんと母さんに似てました」
「え……」
出かけた言葉を必死に押し隠す。志賀が何も言わない所を見るに、彼はそれを既に知っていたのだろう。
匠は続ける。
「それで……塊を触ったら、触った指の先が……どんどん真っ白になってきて、……怖くなって外に出た後は……覚えてません」
能力が生き物に被害を及ぼした場合、延焼のような現象を起こす事がある。
先の説明で、志賀の言葉がフラッシュバックを起こした。父親と母親に似ていたという白い塊。触れたら自らも白く染まっていったという事は、それは――
「起きたら別に何ともなかったんで、だから夢かもしれないんですけど。……でも」
そこで、匠は一度言葉を切った。話の途中から震え始めていた声が、そこで限界を迎えたのだ。それでも彼はまだ何かを言おうとしていた。夏波はじっとそれを待つ。
「母さんと父さんは……」
吐き出すようにしてもなお、彼はそこまでしか言葉にできなかった。どう返していいのか分からず、夏波は必死に言葉を探す。しかし
「亡くなった」
長い沈黙を破り、それに答えたのは志賀だった。
「志賀さん……!」
「隠す意味がない」
はっきりと逃げ場のないほど明確な言葉に、夏波は思わず志賀を詰る。しかし志賀は表情も変えず、匠から視線を逸らす事もしなかった。
「そう……すか……」
少年は今度こそ夏波と志賀から顔を背ける。
「……そうなんじゃないかって、思ってたんで……。医者も何も、言わねーし、……入院してんのに、連絡も、……なにも……」
途切れ途切れの涙声を必死に抑え、匠は大きく胸に溜まっていたのだろう息を吐き出した。そうして何度か呼吸を繰り返し、若干震えの収まった声で問いかける。
「……芽郁は、生きてるんですか」
「生きている」
「……! なら……!」
志賀の即座の返答は、希望の灯火のようなものだったのだろう。沈み込んでいた顔をはっと持ち上げると、匠は目を大きく見開いた。ところが、直ぐにまた顔を伏せ、呟く様に言うのだ。
「家出る前に……喧嘩してて、このまま姉ちゃんまで死んじゃってたら、どうしようかと思って……」
かすれゆく声で言う彼の存在は、あまりにも心許なかった。当然だ。突然両親を喪い、唯一残った姉も行方知れずともなれば。
「アイツを……お願いします。何やったのかとか、知らねーけど……姉ちゃんまでいなくなったら、オレ……」
ぼた、と、掛け布団の上に大粒の水が落ちる。誰にも見えないように、まるでこちらに頭を下げるかのように、匠は顔を伏せて静かに懇願する。
「もう二度と……、……死ねなんて言わねーから……、頼むから……」
その願いは恐らく、自分達に向けられたものではないのだろう。しかしそれが分かっていてもなお、夏波は心臓を掴まれているかのような息苦しさから逃れることができなかった。
彼への同情や、彼の両親を悼む気持ちも確かにある。しかしそれ以上に、鉛のようなわだかまりが胸の内を支配する。伊霧姉弟の名前を聞いた時から、何度も夏波を襲っているデジャヴ。それは伊霧匠の言葉を聞くたびに、夏波の中で警鐘を鳴らし続けていた。