2-14 脅迫
文字数 3,683文字
『こんにちは、美月幸平』
加工された音声に、覆面の人間が一人。男性か女性かはわからないが、黒尽くめにパーカーを着た細身の人物だった。
目を引いたのは、その人物が腰を下ろす先。うつ伏せにさせられ、口と目に黒い布を巻かれた人間が下敷きになっている。
『君がこの取引を警察に教える、或いは取引に応じなかった時点で、コイツの命は無いものと思って欲しい』
覆面の人物は言いながら、パーカーのポケットから拳銃を取り出し、下敷きにしている人間の頭に突きつけた。
『我々が君に求める事は一つ。“神隠し事故”が君の手で引き起こされた物だと認め、君の口からそれを公表する事』
ガチリ、と撃鉄を起こす音。
『猶予は1時間……じゃ流石に短いか。2時間にしよう。今日の、……15時まで。方法は動画でも書面でも構わないが、我々に分かるよう君のSNSアカウントで行 ってくれ』
ぐい、と夏波と思しき人物の髪をつかみ、無理やり顔をあげさせる。そして覆面の人間は、自分のポケットから警察手帳を引っ張り出してカメラの前にふらつかせた。中には夏波の顔写真と名前がしっかと記載されているのが見える。
『この人質はダミーなんかじゃない』
そう言うと、覆面の人物は夏波の口からガムテープを取り去り、念入りに口に詰めていたのだろう布もつまみだした。
『お友達にお話をどうぞ?』
夏波はまた何度か咳き込んでから、後ろ手に縛られていた手を握り込み、苦しげに言葉を吐き出した。その声だけは加工されていない。
『……ネコ、かわいがってね』
それだけを絞り出す夏波に、覆面は少し拍子抜けした様子で手を離した。苦しげに呻きながらぐたりと横に倒れ、それきり夏波は沈黙する。
『今日の15時まで。それじゃ』
動画は止まる。画面上に出た再生マークと繰り返しを示すマークが表示されたのを確認し、志賀は端末を操作して通話画面へと戻った。
美月幸平と書かれた画面が何度か光り、ミツキの声が流れ出る。
『ご覧になりましたか』
「あぁ。把握した」
志賀は頷き、車の鍵を回してエンジンをかける。
「よく俺に見せる気になったな」
一応俺も警察だが。その言葉に、電話口の青年はこともなげに答えた。
『この動画が夏波さんのスマホから送られてきたのは、志賀さんと連絡を取った後でしたから。僕自身の行動は別に監視されてないんだなと思ったんです」
「ノータイムで送るのは、流石に肝が座ってるとしか思えん」
『肝座ってなきゃできない職業やってますからね』
志賀はその言葉を鼻で笑う。
確かに俳優は度胸でもないと続かない職だ。
しかし、今回は質が違う。他者の命がかかっている可能性を踏み倒しているのだ。逡巡くらいはしてもおかしくなさそうだが、ミツキがこの動画を志賀に送ってくるまでの判断はかなりの早さだったように思う。
だが、そのおかげで得られたものはかなり多い。
「アンタ、“神隠し”については何か知ってるのか」
『いえ、全く。何も知らないのに、ずっと脅迫文やら何やらが届いてるんですよ』
うんざりした口調でミツキは言う。
『こんな事までしてくるとは、流石に思いませんでしたけど』
そうだろうな、と志賀は返した。
「馬鹿の考え方なんて、予想する方が難しいんだ。特に今回は、拉致り方にも台詞にも衝動性と頭の悪さが滲み出てる。三角コーナーで生まれ育ったせいで脳が腐り落ちたんだろうな。心の底から同情するぜ、腐れ外道が」
『よくそんなすらすらと暴言が出てきますね……』
指摘され、志賀は口を噤む。電話口の声は僅かに苦笑したが、すぐにそれを引っ込めて問いかけた。
『あの、“ネコ”って、なんの事なんでしょうか』
「知らん。そっちに覚えはないのか」
『そうですね。なんのことかはわからないかな……』
志賀は黙って思案する。
映像の中の夏波は、手袋のついていない状態の手を動かしていた。恐らく何かの記憶を読み取ったのだろう。それも、猫を連想させる何かを。
ミツキに覚えがない。だとするなら、それは恐らく何かしらの合図だ。
あの状況で伝えてくる事柄なら、場所にまつわる事か。
そこまで思考を回して志賀は舌を打った。
「……アイツも馬鹿か!」
端末から声がする。
『何か分かったんですか?』
「分かったが、時間が無い。切るぞ」
相手の返事を待たず、志賀は画面を適当に叩く。短く下がる音階。
ぐ、とアクセルを踏み込み、志賀は街の東側へと車を走らせた。日曜の昼間だからか、郊外へ向かう車は極端に少ない。
無線と端末を何度か操作して、剣や他の捜査員に指示を飛ばした後、志賀はぎりと音が立つほどに奥歯を噛んだ。
頭の中に、何度も同じ映像が流れ続けていた。
そしてそれは、ここ最近何度か経験している感覚だ。
その度に見るのは、夏波奏が死ぬ光景。
見たくもない、まして想像すらしたくない映像が初めて流れ込んできたのは、一月ほど前の事だった。
不意に浮かんで頭から離れなくなった、白昼夢のような映像。
あの時の志賀は、夏波奏という人間をまだ知らなかった。だというのに、彼女が倒れ伏した人物に触れた途端、塩と化す光景が脳裏に何度も繰り返されたのだ。
余りにも鮮明で、その人物がいた場所もアパートの名前で特定できるほどだった。胸騒ぎがしてその場所に駆けつけた時、志賀は色を失った。
自分が見た映像そのままに、夏波奏は倒れた少年に触れようとしていたからだ。志賀は咄嗟に駆け、そして夏波奏を蹴り飛ばした。
――間に合った
倒れていた少年も何事もなく、そして蹴り飛ばしてしまった夏波奏も怪我こそさせたが生きていた。
次に見たのは、その出来事から間もなく。
どこか見覚えのある公園で、夏波奏が少女に触れ、そして白く染まり上がっていく光景。こびりつく景色をかき消しながら、志賀は公園を探し、そして辿り着いたときには既に、夏波奏は伊霧芽郁に触れて白く染まり上がっていく最中だった。
間に合わない。もう手遅れだと分かっていても、手を伸ばさない訳にはいかないのだ。志賀は崩れ落ちる夏波を腕で抱きとめることしかできなかった。
腕の中の夏波が少しずつ塩と化していく。人ではなくなっていく感触に吐き気さえした。走り去る伊霧芽郁を追うこともできず、腕の中の青年が脆く崩れることがあまりにも恐ろしくて、動くこともできない。そんな志賀の腕の中で、彼女はふと呟いたのだ。
「死にたくない」
と。
志賀は夏波の伸ばしていた腕に、思わず自身の手を伸ばした。そして触れる。その瞬間、志賀の手に温かみが届いたのだ。手袋越しにも分かる程、はっきりと。夏波奏の身体が人の形と色を取り戻し始めたのである。
何が起こったのかは全く分からなかった。ただ、“能力”によるものなのだろうという直感だけがそこにはあった。しかし、志賀自身が知る自らの力とはあまりにもかけ離れている。だから、恐らくは夏波奏自身が能力を持っているのだと、志賀はそう結論づけた。
そしてその日のうちに、志賀は夏波を手元に置くことに決めた。
我ながら馬鹿だと自嘲することしかできない。これまでの自分の行いと真逆の事をしようとしているからだ。
自らの手の中で潰える感覚。あの胸をくり抜くかのような、悍ましいまでの絶望。恐ろしくて、逃げ出したくて、志賀はこれまで人と距離を取ったはずだったのだ。嫌われ、自分に誰も近づかなければ、あんな思いはもう二度としなくて済むと考えたから、そうしてきたのに。
だというのに、夏波奏を遠ざける事はどうしてもできなかった。再びあんな光景を見せつけられて、今度こそ間に合わなかったら。そう思うと胸が引き潰れそうだった。
そして、これが三度目。
――GPSでも持たせとけってのかよ
それも考えた。が、流石に気が引けた。頻繁にあの白昼夢を見るのなら実行したかもしれないが、伊霧芽郁と接触した日以降、夏波が死ぬ光景を志賀が見る事はなくなったからだ。
廃ビル前の赤い血痕を見た瞬間から、ずっとある映像がこびりついて離れない。
夏波が苦しげに表情を歪め、朽ち果てたがらんどうな室内で、静かに息を引き取る光景が。
先程ミツキから送られてきた映像でも、夏波には相当暴力を受けた痕跡が見られた。
ミツキと通話が繋がっていない状態であれば、端末を叩き壊していたかもしれない。喉の奥にこみ上げたドス黒い何かを飲み下し、脳を焼き切るほどの怒りにじっと耐える事しか、志賀にはできなかった。
もしも、間に合わなかったら。今度こそ夏波が、脳裏に何度も浮かぶ光景と同じようになってしまったら。
――許されない
逃げて、遠ざけて、もう二度とあんな思いはしたくないと目と耳を塞いだ。
こんなどうしようもない世界なんて大嫌いだった。生きていたって苦しいだけだと胸をえぐられた。
死にたいと何度も思っては、許されないと息を詰まらせて。それが許されるとしたら、それはきっと救える命を救った時なのだと、気持ちを必死に殺して生きてきた。
夏波奏を救えたなら、許されるのだろうか。
いや、この際許されなくても良い。ただ無事を願うのだ。心の底から。
加工された音声に、覆面の人間が一人。男性か女性かはわからないが、黒尽くめにパーカーを着た細身の人物だった。
目を引いたのは、その人物が腰を下ろす先。うつ伏せにさせられ、口と目に黒い布を巻かれた人間が下敷きになっている。
『君がこの取引を警察に教える、或いは取引に応じなかった時点で、コイツの命は無いものと思って欲しい』
覆面の人物は言いながら、パーカーのポケットから拳銃を取り出し、下敷きにしている人間の頭に突きつけた。
『我々が君に求める事は一つ。“神隠し事故”が君の手で引き起こされた物だと認め、君の口からそれを公表する事』
ガチリ、と撃鉄を起こす音。
『猶予は1時間……じゃ流石に短いか。2時間にしよう。今日の、……15時まで。方法は動画でも書面でも構わないが、我々に分かるよう君のSNSアカウントで
ぐい、と夏波と思しき人物の髪をつかみ、無理やり顔をあげさせる。そして覆面の人間は、自分のポケットから警察手帳を引っ張り出してカメラの前にふらつかせた。中には夏波の顔写真と名前がしっかと記載されているのが見える。
『この人質はダミーなんかじゃない』
そう言うと、覆面の人物は夏波の口からガムテープを取り去り、念入りに口に詰めていたのだろう布もつまみだした。
『お友達にお話をどうぞ?』
夏波はまた何度か咳き込んでから、後ろ手に縛られていた手を握り込み、苦しげに言葉を吐き出した。その声だけは加工されていない。
『……ネコ、かわいがってね』
それだけを絞り出す夏波に、覆面は少し拍子抜けした様子で手を離した。苦しげに呻きながらぐたりと横に倒れ、それきり夏波は沈黙する。
『今日の15時まで。それじゃ』
動画は止まる。画面上に出た再生マークと繰り返しを示すマークが表示されたのを確認し、志賀は端末を操作して通話画面へと戻った。
美月幸平と書かれた画面が何度か光り、ミツキの声が流れ出る。
『ご覧になりましたか』
「あぁ。把握した」
志賀は頷き、車の鍵を回してエンジンをかける。
「よく俺に見せる気になったな」
一応俺も警察だが。その言葉に、電話口の青年はこともなげに答えた。
『この動画が夏波さんのスマホから送られてきたのは、志賀さんと連絡を取った後でしたから。僕自身の行動は別に監視されてないんだなと思ったんです」
「ノータイムで送るのは、流石に肝が座ってるとしか思えん」
『肝座ってなきゃできない職業やってますからね』
志賀はその言葉を鼻で笑う。
確かに俳優は度胸でもないと続かない職だ。
しかし、今回は質が違う。他者の命がかかっている可能性を踏み倒しているのだ。逡巡くらいはしてもおかしくなさそうだが、ミツキがこの動画を志賀に送ってくるまでの判断はかなりの早さだったように思う。
だが、そのおかげで得られたものはかなり多い。
「アンタ、“神隠し”については何か知ってるのか」
『いえ、全く。何も知らないのに、ずっと脅迫文やら何やらが届いてるんですよ』
うんざりした口調でミツキは言う。
『こんな事までしてくるとは、流石に思いませんでしたけど』
そうだろうな、と志賀は返した。
「馬鹿の考え方なんて、予想する方が難しいんだ。特に今回は、拉致り方にも台詞にも衝動性と頭の悪さが滲み出てる。三角コーナーで生まれ育ったせいで脳が腐り落ちたんだろうな。心の底から同情するぜ、腐れ外道が」
『よくそんなすらすらと暴言が出てきますね……』
指摘され、志賀は口を噤む。電話口の声は僅かに苦笑したが、すぐにそれを引っ込めて問いかけた。
『あの、“ネコ”って、なんの事なんでしょうか』
「知らん。そっちに覚えはないのか」
『そうですね。なんのことかはわからないかな……』
志賀は黙って思案する。
映像の中の夏波は、手袋のついていない状態の手を動かしていた。恐らく何かの記憶を読み取ったのだろう。それも、猫を連想させる何かを。
ミツキに覚えがない。だとするなら、それは恐らく何かしらの合図だ。
あの状況で伝えてくる事柄なら、場所にまつわる事か。
そこまで思考を回して志賀は舌を打った。
「……アイツも馬鹿か!」
端末から声がする。
『何か分かったんですか?』
「分かったが、時間が無い。切るぞ」
相手の返事を待たず、志賀は画面を適当に叩く。短く下がる音階。
ぐ、とアクセルを踏み込み、志賀は街の東側へと車を走らせた。日曜の昼間だからか、郊外へ向かう車は極端に少ない。
無線と端末を何度か操作して、剣や他の捜査員に指示を飛ばした後、志賀はぎりと音が立つほどに奥歯を噛んだ。
頭の中に、何度も同じ映像が流れ続けていた。
そしてそれは、ここ最近何度か経験している感覚だ。
その度に見るのは、夏波奏が死ぬ光景。
見たくもない、まして想像すらしたくない映像が初めて流れ込んできたのは、一月ほど前の事だった。
不意に浮かんで頭から離れなくなった、白昼夢のような映像。
あの時の志賀は、夏波奏という人間をまだ知らなかった。だというのに、彼女が倒れ伏した人物に触れた途端、塩と化す光景が脳裏に何度も繰り返されたのだ。
余りにも鮮明で、その人物がいた場所もアパートの名前で特定できるほどだった。胸騒ぎがしてその場所に駆けつけた時、志賀は色を失った。
自分が見た映像そのままに、夏波奏は倒れた少年に触れようとしていたからだ。志賀は咄嗟に駆け、そして夏波奏を蹴り飛ばした。
――間に合った
倒れていた少年も何事もなく、そして蹴り飛ばしてしまった夏波奏も怪我こそさせたが生きていた。
次に見たのは、その出来事から間もなく。
どこか見覚えのある公園で、夏波奏が少女に触れ、そして白く染まり上がっていく光景。こびりつく景色をかき消しながら、志賀は公園を探し、そして辿り着いたときには既に、夏波奏は伊霧芽郁に触れて白く染まり上がっていく最中だった。
間に合わない。もう手遅れだと分かっていても、手を伸ばさない訳にはいかないのだ。志賀は崩れ落ちる夏波を腕で抱きとめることしかできなかった。
腕の中の夏波が少しずつ塩と化していく。人ではなくなっていく感触に吐き気さえした。走り去る伊霧芽郁を追うこともできず、腕の中の青年が脆く崩れることがあまりにも恐ろしくて、動くこともできない。そんな志賀の腕の中で、彼女はふと呟いたのだ。
「死にたくない」
と。
志賀は夏波の伸ばしていた腕に、思わず自身の手を伸ばした。そして触れる。その瞬間、志賀の手に温かみが届いたのだ。手袋越しにも分かる程、はっきりと。夏波奏の身体が人の形と色を取り戻し始めたのである。
何が起こったのかは全く分からなかった。ただ、“能力”によるものなのだろうという直感だけがそこにはあった。しかし、志賀自身が知る自らの力とはあまりにもかけ離れている。だから、恐らくは夏波奏自身が能力を持っているのだと、志賀はそう結論づけた。
そしてその日のうちに、志賀は夏波を手元に置くことに決めた。
我ながら馬鹿だと自嘲することしかできない。これまでの自分の行いと真逆の事をしようとしているからだ。
自らの手の中で潰える感覚。あの胸をくり抜くかのような、悍ましいまでの絶望。恐ろしくて、逃げ出したくて、志賀はこれまで人と距離を取ったはずだったのだ。嫌われ、自分に誰も近づかなければ、あんな思いはもう二度としなくて済むと考えたから、そうしてきたのに。
だというのに、夏波奏を遠ざける事はどうしてもできなかった。再びあんな光景を見せつけられて、今度こそ間に合わなかったら。そう思うと胸が引き潰れそうだった。
そして、これが三度目。
――GPSでも持たせとけってのかよ
それも考えた。が、流石に気が引けた。頻繁にあの白昼夢を見るのなら実行したかもしれないが、伊霧芽郁と接触した日以降、夏波が死ぬ光景を志賀が見る事はなくなったからだ。
廃ビル前の赤い血痕を見た瞬間から、ずっとある映像がこびりついて離れない。
夏波が苦しげに表情を歪め、朽ち果てたがらんどうな室内で、静かに息を引き取る光景が。
先程ミツキから送られてきた映像でも、夏波には相当暴力を受けた痕跡が見られた。
ミツキと通話が繋がっていない状態であれば、端末を叩き壊していたかもしれない。喉の奥にこみ上げたドス黒い何かを飲み下し、脳を焼き切るほどの怒りにじっと耐える事しか、志賀にはできなかった。
もしも、間に合わなかったら。今度こそ夏波が、脳裏に何度も浮かぶ光景と同じようになってしまったら。
――許されない
逃げて、遠ざけて、もう二度とあんな思いはしたくないと目と耳を塞いだ。
こんなどうしようもない世界なんて大嫌いだった。生きていたって苦しいだけだと胸をえぐられた。
死にたいと何度も思っては、許されないと息を詰まらせて。それが許されるとしたら、それはきっと救える命を救った時なのだと、気持ちを必死に殺して生きてきた。
夏波奏を救えたなら、許されるのだろうか。
いや、この際許されなくても良い。ただ無事を願うのだ。心の底から。