1-4 怯えた掌
文字数 2,918文字
「すみません……そのアホをお願いします……」
深々と頭を下げる夏波の頭上に、村山の笑い声が落ちた。
「大丈夫大丈夫、三科は軽いから」
「いや、運んでんの俺なんですけど」
じろりと村山を睨んだ剣の背中の上には、すやすやと寝息を立てる三科が乗っかっている。早いペースで酒を飲み進めていた彼は、夏波の懸念通り綺麗に酔い潰れた。
三科は酒癖が悪い訳ではないものの、完全に酔いが回ると倒れるように眠ってしまい、朝まで起きることが無いのである。志賀の話でひとしきり盛り上がった後、随分三科が静かだな、と夏波が横を向いた時には後の祭りだ。机に突っ伏す形で落ちていた。
「まぁ、正体無くして大騒ぎされるよりはよっぽど可愛げがあるけどな。外でこんな風になってんのは、流石に初めて見たし」
「よっぽど腹立ってたんだろうねぇ」
先輩二人の視線の暖かさは完全に保護者のそれだが、三科本人は預かり知らぬところである。夏波は困ったように笑い、眠りこけている彼の頭をぺしりと小突いた。
「自分の事じゃないのに、よくそんなキレ散らかせるよなぁ。いつも『寝て忘れろ』って言うくせに」
「あっはは、自分の事じゃ怒んないもんねこの子。いい子じゃん」
「いや、否定はしませんけども……」
警察学校時代から、夏波のメンタルは三科に支えられていると言っても過言ではない。対人関係で悩みやすい夏波が平穏に暮らせているのは、彼の性格と言動によるものが大きいのだろう。嫌な事は寝て忘れる、という事も、最近はかなりできるようになっていた。
「ま、コイツの御守りは任せろ。夏波は帰り、気を付けろよ」
「怪我はお大事にね。ちゃんと人通りの多いところ歩くんだよ」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
ひらりと手を振って、彼らは夏波に背を向ける。夏波は三人の後姿が見えなくなるまで見送ってから、「さて」と腕時計で時間を確認した。時刻は21時を少し過ぎたところ。
全員が休みの日にセッティングした飲み会は比較的早い時間に始まっていたので、お開きになるのも早かった。
アーケードから一本道を外れた場所にある飲み屋だが、この時間帯ならまだ人通りも多い。
夏波はコートのポケットに手を突っ込むと、ゆっくりとアスファルトを踏みしめるようにして歩き出した。
身を置くアパートは、ここから10分程歩いた所にある。のんびりと歩みを進めたところで、20分はかからない。
道中適当なコンビニに寄って、目についたアイスを買った。家に帰ったらこたつで温まりながら食べるんだ。それから酔いが残っている内に少しだけゲームをやって、その後風呂に入って、24時を回った頃に眠りたい。とても良い休日だ。
程よく酒が回っていて、歩くのが楽しかった。何となく遠回りをしてもいい気分になるくらいには。
月夜烏と言う程でもないが、夏波が思いつきで足を向けたのは、街中にある小さな公園だった。公園といっても遊具があるタイプのものではなく、芝生に幾本か小道が続く、小型の森林公園である。
「わー、月きれー」
小道を空を見上げながらゆらゆらと歩き、誰にも聞こえない声で独り言ちた。
昔から空を見上げるのが好きだった。田舎にある実家の夜空では星がよく見えたが、仙台の街中ではそうはいかない。ぽつりぽつりと一等星が見える程度だ。しかし、今日の夜空には雲一つなく、少しだけ欠けた月が煌々と小道を照らしていた。遠くでは街の喧騒が響いてくるが、この場所にある音は夏波の立てる足音とアイスの入ったビニール袋の音だけだ。――そう、思っていた。
「あの」
「……ん?」
ざり、と砂を踏むような音。夜空から顔を戻して前を向くと、小道の向こうに誰かが立っている。公園の出入り口を背にして立つその人物は、恐る恐るといったように歩き、月明りの元に身を晒す。
「鯨、さん……」
「えと……?」
浮 ついていた頭の中に、冷やりと水を差された感覚がした。
そこに立っていたのは一人の少女だ。歳は高校生くらいにみえる。肩までかかった髪を揺らし、ふらりふらりとこちらに近づいてくる。
「“鯨さん”、ですか……?」
「鯨……?」
近づいてきた彼女は、ぽつりと問う。しかしその内容に心当たりがなく、夏波は首を傾げた。
パタタ、と、水が乾いた地面を打つ音がした。その発生源に視線を落とし、夏波はぎょっと目を見開く。
「ちょっと、君……!?」
少女の手から、黒い液体が垂れて小道に零れている。月明りが曝いた彼女の手は、遠目にも分かる程多くの傷にまみれていた。
弾かれるように夏波は駆け出し、少女の手首を取る。
「酷い怪我……」
駆け寄って見た彼女の手はやはりボロボロで、変色している箇所すらあるようだった。手首から先を触る事すら憚られる程、痛めつけられている。
しかし怪我を負っているのはその両の手だけであるようで、夏波の持つ手首を始め、学生服に包まれた身体は至って綺麗だ。
「あ……ぁ……」
ふと、少女の震える息遣いに顔を上げる。彼女は愕然と夏波の顔を見つめていた。心無しか震え、何かに恐怖しているかのように唇を震わせている。そして、
「いやッ!!」
ガツ、と音を立てるほど勢いよく、少女は夏波の手を振り払った。
「ご、ごめんね、急に触ったりして……今救急車を……」
声をかけながら、夏波はポケットに手を突っ込み、携帯端末を取り出す。しかし、その手は端末をタップする直前で止まった。
何故か。それは、夏波の目に明らかな異常が映ったからだ。
白い。自らの右手が異様な白さに変色していくのである。それは決して肌の色ではなく、無機質で透明な何かだった。
認識した次の瞬間、ころりと指の先が“崩れ落ちた”。
「……ッ!?」
驚いて手に力が入る。しかしそれと同時に、ボロボロと白く変色した部分から地面へと落ちていった。持っていた携帯端末すら侵食し、それはまるで砂のような物質と化してゆく。腕が見る間に消失していくのである。しかし痛みはない。何が起こったのか分からず、困惑と驚愕を行き来する夏波の背後で、少女は泣き声を上げていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……違うの……私……助けて欲しかった、だけで」
「君は……」
呆然と少女を見つめる。月を背に立ち泣く少女は、祈るように手を組んで震えていた。
夏波は彼女の方へと左手を伸ばした。本来の効き手は最早完全に崩れ落ち、肘より先が存在しない。侵食は進み続け、徐々に夏波自身の意識すら刈り取り始める。
――死ぬ、の、?
酷く簡単な単語が脳裏に浮かぶ。その途端、バツン、と何かが切れるような音が身体の内側で弾けた。目の奥を焼き切る痛みに襲われ、頭蓋の内側を何度も殴りつけるような衝撃が走る。
立っている事もままならず、夏波は思わず膝をついた。追い打ちをかけるかのような痛みに襲われて、喉からは叫び声が転がり落ちている。
視界の端で少女が怯えたように夏波から距離を取り、踵を返して走り去った。
手を伸ばしても届かない事は、激しい痛みの中でも理解できていた。視界が暗い。思考もおぼつかない。それでも彼女の背中に左手を伸ばして、――その手が誰かに掴まれた感触を覚えた直後、夏波の意識は霧散した。
深々と頭を下げる夏波の頭上に、村山の笑い声が落ちた。
「大丈夫大丈夫、三科は軽いから」
「いや、運んでんの俺なんですけど」
じろりと村山を睨んだ剣の背中の上には、すやすやと寝息を立てる三科が乗っかっている。早いペースで酒を飲み進めていた彼は、夏波の懸念通り綺麗に酔い潰れた。
三科は酒癖が悪い訳ではないものの、完全に酔いが回ると倒れるように眠ってしまい、朝まで起きることが無いのである。志賀の話でひとしきり盛り上がった後、随分三科が静かだな、と夏波が横を向いた時には後の祭りだ。机に突っ伏す形で落ちていた。
「まぁ、正体無くして大騒ぎされるよりはよっぽど可愛げがあるけどな。外でこんな風になってんのは、流石に初めて見たし」
「よっぽど腹立ってたんだろうねぇ」
先輩二人の視線の暖かさは完全に保護者のそれだが、三科本人は預かり知らぬところである。夏波は困ったように笑い、眠りこけている彼の頭をぺしりと小突いた。
「自分の事じゃないのに、よくそんなキレ散らかせるよなぁ。いつも『寝て忘れろ』って言うくせに」
「あっはは、自分の事じゃ怒んないもんねこの子。いい子じゃん」
「いや、否定はしませんけども……」
警察学校時代から、夏波のメンタルは三科に支えられていると言っても過言ではない。対人関係で悩みやすい夏波が平穏に暮らせているのは、彼の性格と言動によるものが大きいのだろう。嫌な事は寝て忘れる、という事も、最近はかなりできるようになっていた。
「ま、コイツの御守りは任せろ。夏波は帰り、気を付けろよ」
「怪我はお大事にね。ちゃんと人通りの多いところ歩くんだよ」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
ひらりと手を振って、彼らは夏波に背を向ける。夏波は三人の後姿が見えなくなるまで見送ってから、「さて」と腕時計で時間を確認した。時刻は21時を少し過ぎたところ。
全員が休みの日にセッティングした飲み会は比較的早い時間に始まっていたので、お開きになるのも早かった。
アーケードから一本道を外れた場所にある飲み屋だが、この時間帯ならまだ人通りも多い。
夏波はコートのポケットに手を突っ込むと、ゆっくりとアスファルトを踏みしめるようにして歩き出した。
身を置くアパートは、ここから10分程歩いた所にある。のんびりと歩みを進めたところで、20分はかからない。
道中適当なコンビニに寄って、目についたアイスを買った。家に帰ったらこたつで温まりながら食べるんだ。それから酔いが残っている内に少しだけゲームをやって、その後風呂に入って、24時を回った頃に眠りたい。とても良い休日だ。
程よく酒が回っていて、歩くのが楽しかった。何となく遠回りをしてもいい気分になるくらいには。
月夜烏と言う程でもないが、夏波が思いつきで足を向けたのは、街中にある小さな公園だった。公園といっても遊具があるタイプのものではなく、芝生に幾本か小道が続く、小型の森林公園である。
「わー、月きれー」
小道を空を見上げながらゆらゆらと歩き、誰にも聞こえない声で独り言ちた。
昔から空を見上げるのが好きだった。田舎にある実家の夜空では星がよく見えたが、仙台の街中ではそうはいかない。ぽつりぽつりと一等星が見える程度だ。しかし、今日の夜空には雲一つなく、少しだけ欠けた月が煌々と小道を照らしていた。遠くでは街の喧騒が響いてくるが、この場所にある音は夏波の立てる足音とアイスの入ったビニール袋の音だけだ。――そう、思っていた。
「あの」
「……ん?」
ざり、と砂を踏むような音。夜空から顔を戻して前を向くと、小道の向こうに誰かが立っている。公園の出入り口を背にして立つその人物は、恐る恐るといったように歩き、月明りの元に身を晒す。
「鯨、さん……」
「えと……?」
そこに立っていたのは一人の少女だ。歳は高校生くらいにみえる。肩までかかった髪を揺らし、ふらりふらりとこちらに近づいてくる。
「“鯨さん”、ですか……?」
「鯨……?」
近づいてきた彼女は、ぽつりと問う。しかしその内容に心当たりがなく、夏波は首を傾げた。
パタタ、と、水が乾いた地面を打つ音がした。その発生源に視線を落とし、夏波はぎょっと目を見開く。
「ちょっと、君……!?」
少女の手から、黒い液体が垂れて小道に零れている。月明りが曝いた彼女の手は、遠目にも分かる程多くの傷にまみれていた。
弾かれるように夏波は駆け出し、少女の手首を取る。
「酷い怪我……」
駆け寄って見た彼女の手はやはりボロボロで、変色している箇所すらあるようだった。手首から先を触る事すら憚られる程、痛めつけられている。
しかし怪我を負っているのはその両の手だけであるようで、夏波の持つ手首を始め、学生服に包まれた身体は至って綺麗だ。
「あ……ぁ……」
ふと、少女の震える息遣いに顔を上げる。彼女は愕然と夏波の顔を見つめていた。心無しか震え、何かに恐怖しているかのように唇を震わせている。そして、
「いやッ!!」
ガツ、と音を立てるほど勢いよく、少女は夏波の手を振り払った。
「ご、ごめんね、急に触ったりして……今救急車を……」
声をかけながら、夏波はポケットに手を突っ込み、携帯端末を取り出す。しかし、その手は端末をタップする直前で止まった。
何故か。それは、夏波の目に明らかな異常が映ったからだ。
白い。自らの右手が異様な白さに変色していくのである。それは決して肌の色ではなく、無機質で透明な何かだった。
認識した次の瞬間、ころりと指の先が“崩れ落ちた”。
「……ッ!?」
驚いて手に力が入る。しかしそれと同時に、ボロボロと白く変色した部分から地面へと落ちていった。持っていた携帯端末すら侵食し、それはまるで砂のような物質と化してゆく。腕が見る間に消失していくのである。しかし痛みはない。何が起こったのか分からず、困惑と驚愕を行き来する夏波の背後で、少女は泣き声を上げていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……違うの……私……助けて欲しかった、だけで」
「君は……」
呆然と少女を見つめる。月を背に立ち泣く少女は、祈るように手を組んで震えていた。
夏波は彼女の方へと左手を伸ばした。本来の効き手は最早完全に崩れ落ち、肘より先が存在しない。侵食は進み続け、徐々に夏波自身の意識すら刈り取り始める。
――死ぬ、の、?
酷く簡単な単語が脳裏に浮かぶ。その途端、バツン、と何かが切れるような音が身体の内側で弾けた。目の奥を焼き切る痛みに襲われ、頭蓋の内側を何度も殴りつけるような衝撃が走る。
立っている事もままならず、夏波は思わず膝をついた。追い打ちをかけるかのような痛みに襲われて、喉からは叫び声が転がり落ちている。
視界の端で少女が怯えたように夏波から距離を取り、踵を返して走り去った。
手を伸ばしても届かない事は、激しい痛みの中でも理解できていた。視界が暗い。思考もおぼつかない。それでも彼女の背中に左手を伸ばして、――その手が誰かに掴まれた感触を覚えた直後、夏波の意識は霧散した。