3-6 白鯨

文字数 2,788文字

 紙が擦れる音を立てながら、志賀はページを繰る。
 『本を捲る』という動作は久しぶりだった。本を読まなくなった訳ではない。専ら電子書籍に頼り切りになっているせいだ。端末上の書籍であれば、手軽に何十冊も持ち歩ける上、収納場所にも困らない。しかし弱点もある。それは、いざ『この本が読みたい』と思った時に限って、大抵電子化されていないという点だ。古い本になるにつれてその確率は高く、そういった時は流石に紙媒体に頼る事になる。
 日頃適当な本を電子端末で眺めることの多かった志賀にとって、紙の本を購入する事も、ページを捲る動作も至極久しぶりのものだった。
 
「あら、また休日出勤してるの?」

 がちゃり、と音を立てて室内に宮藤が顔を覗かせる。
 応接ソファに深く腰掛けていた志賀は、それに反応する事すらなく、はらはらと本のページを捲り続けた。

「相変わらず物凄い速読よねぇ……。頭に入ってる?それ」
「ちょっと黙っててくれ」
「ハイハイ分かりましたー!すみませんねいつも!お邪魔虫は静かに休憩してますよ!」

 口を膨らませ、志賀の対面にどさりと身を投げる。はぁ、と大きくため息をつき、足も手も投げ出して背もたれにもたれかかった宮藤は、そのままじっと目を瞑った。
 ページを繰る手を止め、志賀が怪訝そうに顔を上げる。

「……何かあったのか」

 宮藤はうっすら目を開けて志賀を捉え、すぐにもう一度瞼を落とした。

「本部のお偉方と会食して、お話ししただけ」

 疲れ切った声。いつもの宮藤の力強さは消え失せ、いつもならくるくると回る口は、そう返したきりぱったりと閉ざされた。
 志賀は少しばかり何かを考え込んでいたが、やがてテーブルの上に文庫本を置くと、徐に立ち上がる。
 そして自分の机の上に置かれていた缶コーヒーを手に取り、戻ってくるなりガツンとぞんざいに宮藤の前に置いた。

「志賀君?」

 驚いて目を開けた宮藤が、缶コーヒーと、そしてソファに座り直して本を手に取る志賀とを見比べ、みるみる目を丸くする。

「え……、明日の天気、もしかして槍?」
「はっ倒すぞ」

 ジロリと睨まれて、宮藤は「ごめんごめん」と笑いながら置かれた缶コーヒーをつまんだ。

「何読んでるの?」

 プルタブを引き開けてちびちびとコーヒーを啜りつつ、志賀の持つ本の表紙を覗き込む。

「『彼岸の鯨』?」

 深く、それでいて鮮やかな緑色の海が広がる表紙。
 志賀はそこから数ページ読み進めると、本を閉じて机の上に放り出した。

「5年前に映画化されてる小説らしいが、その調子じゃお前も知らんか」
「映画……?」
「美月幸平が出てる」
「なるほど、美月幸平、……ね」

 ふぅ、と宮藤は再び大きく息をつく。

「どんな話なの?」
「普通の刑事モノだ。捜一の人間がバディ作って事件解決を目指す」
「設定だけならよくありそうだけど、面白いの?」
「面白いんだろうが、……俺は好かん」

 ちら、と隣に置いた文庫本を睨み、志賀は鼻を鳴らした。
 
「人が死んで喜ぶ話だ」
「刑事モノは人が亡くならないと話が始まらないでしょうよ」
「バディの片割れが死ぬんだよ」
「盛大なネタバレを食らったわね今」
 
 肩を竦め、小さく疲れた笑みを零す。

「というか、読ませたくなくてネタバレした?」

 視線を本から外し、志賀は黙った。

「映画も、もう見たの?」
「あぁ」
「美月幸平はどんな役だったのかしら?」

 志賀は僅かに躊躇したが、宮藤が「ネタバレどんとこいよ」と言えば、目を伏せたまま口を開く。

「犯人役だ。世間で悪人と呼ばれている人間を殺し、自分の殺人は人の為になっていると心の底から信じている、(たち)の悪いタイプのな」
「なるほどねー……」

 小説内の犯人は、心や名誉を傷つけ、他者を死に追いやった人間をターゲットとして殺害を繰り返していた。しかし、最後に殺害した者だけは、自分が犯人だとバレないように保身で殺した人間であり、主人公の二人組は『お前は許されない』と啖呵を切るのだ。
 
「犯人が犯した殺人のおかげで、確かに救われた人間が大勢いた。そもそも最後の殺しだって、言ってみりゃ正当防衛だったしな」
「それは随分憎みづらい犯人ね」

 志賀はソファに深く身を沈め、目を閉じる。

「トロッコ問題を延々と投げかけてくるような人間だったよ。……まぁ、ミツキの演技は良かった」
「あら、手放しで褒めるのね?」
「良い物に悪いと言って何が生まれるんだ」

 それもそうね、と宮藤は苦笑した。

「どうして『彼岸の鯨』ってタイトルなの?」
「犯人が被害者の事を『鯨』と呼んでいるからだ。『白鯨』に擬えてな」
「『白鯨』……?」

 ハーマン・メルヴィルの長編、『白鯨』。
 捕鯨船の船長であるエイハブが、モービィ・ディックと呼ばれる白鯨への復讐に燃える様を描いた長編作品である。
 志賀はそう端的に説明し、目を瞑ったまま続けた。

「犯人は自分をエイハブ船長に見立て、自分で見定めた白鯨――要は犯人にとっての悪人を殺していた。ただ最終的な構図は、主人公の片割れがエイハブ船長、犯人が白鯨になる。両方とも死んじまうが」
「うーわー……後味悪……」
「生き残ったもう一人が前向きに生きていく結末だから、そこまで後ろ暗くはない」

 コーヒーを飲み下しながら、宮藤は顔をしかめた。
 志賀は事も無げに言ってのけた後、そのまま口を閉ざす。

「私達が追う“鯨”とは違いそうね」

 夏波奏から聞いた“鯨”の話。
 彼、もしくは彼女の目的は掴めない。しかし、それは確実に“死を願った能力者”を自殺に導いている。しかし、それを動画に残し、あまつさえ多数の人間の目に晒しもしている。それが何を指すのか、何が目的なのかは未だ不明瞭だ。
 
「彼岸……ね」

 表紙の白文字に書かれた文字を見つめ、宮藤はポツリと呟いた。
 彼岸。確かこれは死後の世界を指す仏教用語だ。そして『白鯨』は、宮藤の記憶が正しければアメリカの小説で、敬虔なキリスト教信者が出てくる物語のはず。
 宗教や知識が闇鍋のようになっているのは、日本人独特の宗教観によるものなのだろう。

「ねぇ、これって――」

 顔を上げて志賀を見た宮藤は、はたと口を噤んだ。
 ソファに深く座って首を落とし、志賀は沈黙している。肩がゆっくりと上下しているので、眠ってしまったのだろう。
 寝息すらなく眠るその姿は、まるで糸の切れたマリオネットを彷彿とさせた。
 宮藤はそっと持っていたコーヒー缶をテーブルに置くと、本を手に取ってページを捲る。

「……確かに、好かないわね」
 
 志賀の明かした『バディの片割れが死ぬ』という事実は、最初の数ページで明かされていた。ラストのシーンを冒頭に持ってくる、よくある手法だ。
 つまりこれは、最初から失われる物語なのだ。そして読み手は、冒頭を覚悟しながら物語を追わねばならない。
 静かな部屋に、ページを繰る音と宮藤の言葉だけが吸い込まれた。

「白鯨は、……私たちなのにね」
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登場人物紹介

夏波 奏 《カナミ カナデ》


25歳/O型/167cm/特殊対策室所属


自他共に認める気弱人間

志賀 太陽 《シガ タイヨウ》


28歳/AB型/159cm/特殊対策室所属


中央署の嫌われ者

宮藤 由利 《クドウ ユリ》


?歳/B型/154cm/特殊対策室所属


中央署の名物署長

三科 祭 《ミシナ マツリ》


26歳/B型/178cm/機動捜査隊所属


夏波の元相棒で親友

剣 佐助 《ツルギ サスケ》


28歳/AB型/181cm/機動捜査隊所属


苦労人気質の優しい先輩

村山 美樹 《ムラヤマ ミキ》


31歳/O型/162cm/機動捜査隊所属


飄々としてるけど面倒見はいいお姉さん

美月 幸平 《ミツキ コウヘイ》


24歳/B型/178cm/俳優


爽やかな青年

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