3-1 理解者
文字数 5,369文字
意識が浮上したから音が聞こえたのか、それともその音によって覚醒させられたのか。
無意識的に顔を向けると、入口が空き、廊下の蛍光灯の灯りが飛び込んでいる事が分かる。
直様スイッチを入れる音。それまで夕闇に沈んでいた部屋が、白に照らされた。
「失礼しますね。夏波さん、面会希望の方がいらしてますよ」
夏波の霞がかった頭が、入ってきた看護師の姿とその言葉を辛うじて認識する。
ベッドに片肘をついて身を起こし、夏波はもたもたと口を開いた。
「えと……どなたでしょうか」
「三科さんです。お通ししてもよろしいですか?」
「あ、はい」
重たい瞼を擦りつつ、一度思い切り目を瞑る。できれば伸びがしたい気分だったが、下手に動かすと腹部に痛みが走る事を思い出して直前で止めた。
「よ、おはよう」
廊下へ引っ込んだ看護師と入れ替わりで、三科がひょこりと顔を出す。口元を吊り上げて嬉しそうにしている彼につられ、夏波も薄く笑みを作った。
「おはようって、もう夕方だよ」
「いやそうだけど。お前今起きたところじゃねえの?」
「な、何で分かったの?」
「そんな顔してりゃ分かるって」
からから笑う三科。彼は部屋の入口横に設置されていた棚に「これ、見舞いな」とビニール袋を置きやる。
「それなに?」
「アルフォートとパイの実とファンタ」
「出た、三科セット」
三科の言った組み合わせは、夏波と遊ぶ時に持ってくるいつもの差し入れだ。
彼とは普段共通の友人を呼んでボードゲームに興じる事が多い。そんな時、いつも必ず徳用のチョコレートと2リットルの炭酸飲料を手土産にしてやってくるので、夏波はそれを勝手に三科セットと呼んでいた。
「わざわざありがとう。でも、なんか懐かしいね」
「あー、確かに。そういや久しぶりに買ったわ」
三科はベッド脇にあったスツールに腰掛ける。そうして入院着姿の夏波を眺め、穏やかな口調で問いかけた。
「調子はどうよ?」
「最近は結構元気。あと1週間もすれば退院できるって言われたよ」
「そうなんか!やー、良かった」
三科は大袈裟に身体を前に折って、長く安堵の息をつく。
「大袈裟だなぁ」
なんて夏波が笑えば、
「そんなことないだろ」
と三科は体勢を変えず顔だけ上げた。
「マジで死にかけだったって聞いてたからさ」
「あー、……えっと。……らしいね」
「らしいねって、お前なァ」
夏波の返答に、三科は拍子抜けした様子で身体を起こす。
1週間前に目を覚ました際、医者にも似たような事を言われた記憶がある。
ただそれは医者の見解ではなく、夏波を運んだ救急隊員の言葉として伝えられたものだ。
彼らが駆けつけた時の夏波の身体は、死の一歩手前で何とか踏みとどまったようなものだったらしい。
だが医者の話によると、生死の境を彷徨ったのは頭部の多量出血によるものであり、骨折は肋部分のみ。内臓破裂なども見られず、後を引くほどの傷は全くないという事だった。
正直暴行を受けている時は骨の5、6本は折れている気がしていたし、口から血が出るほど蹴り飛ばされた記憶があるのだが、医者が嘘を付くいわれもない。
実際3日前には自由に動き回れるようになっていたし、悪い話でもないのだが、夏波はあまり釈然としないまま話を受け入れていた。
「剣さんと村山さんなんか、ずっとお前の心配してるってのに」
「そうだね……。村山さんは昨日もお見舞い来てくれたよ」
面会許可が出た後は、夏波の元に何人もの見舞客が訪れていた。
時たま捜査一課の人間が来ることもあったが、それさえ顔見知りばかりである。
中でも頻度が高いのは村山で、彼女は『救急車に乗せられていく夏波の姿がトラウマだから』と落ち込んだ様子で話し、週に2、3度は顔を出してくれていた。
次点で剣と三科。他の機捜の先輩も一度は顔を見せていたし、宮藤も忙しい暇を縫って何度か来てくれている。
しかし志賀だけは、待てど暮らせど一度も会いに来てはくれなかった。
――お礼言いたいのに
夏波の記憶の最後は、女から頭への一撃を見舞われそうになった瞬間だ。それ以降はプツリと途切れていて、どうやって助かったのも、誰が助けてくれたのかもはっきりと覚えてはいなかった。
しかし、見舞い客の誰しもが「志賀が血相を変えて探してた」と話している事から、恐らく助け出してくれたのは志賀なのだろうと予想している。
「なんにせよ、無事で良かったけどな」
柔らかく微笑む三科に、「心配してくれてありがとう」と礼を返す。
その後の彼は、最近できたボードゲームカフェの話を持ち出したり、機捜で起こった笑いなどを持ち出して、他愛ない会話を繰り広げた。
夏波も彼の話に笑いながら、退院した後の日常へと想いを馳せる。
――また、助けられてる
伊霧芽郁の手を取り零した後と同じ様に。
夏波は三科の話に笑い声を立てながら、掛け布団の中で手袋をつけたままのこぶしを小さく握った。
意識を取り戻してから、夏波の心は泥沼に浸かったような感覚に苛まれ続けていた。
伊霧芽郁の死後と違うのは罪悪感の有無くらいのもので、どうにもならない不安と焦燥はあの時とよく似ている。見舞い客が来る度に多少薄まるのだが、それでも今回の拉致事件の話をしていると、その泥沼は更に深みを増していった。
最近では奇妙な乖離感に襲われる事すらある。
自分が知人と喋っているはずなのに、まるで知らない誰かに知人との会話を横取りされてしまったかのような、そんな嫉妬に似た感情を覚えるのだ。
しかし、そんな状態を夏波は誰にも打ち明けることができていなかった。
「その新しいボドゲカフェって、どこにできたの?」
「広瀬通だったっけかな?俺も行ったことないし、退院したら一緒行こうぜ」
「うん、行きたい」
三科祭とて、夏波の状況を知っている訳はない。
けれど、彼は見舞いに来ると必ず“いつも通り”を装って、何気ない日常の話をする事に終始した。夏波の容態を確認こそすれ、事件の話には殆ど触れようとしないのだ。
そのおかげか、夏波は三科と話している間だけは、乖離感に襲われることがなかった。
浮ついた自分自身を何とか繋ぎ止めて、日常に留まれている。そんな心地さえする。
だが、
――僕は、三科を待たせてる
つきん、と、小さな針が心臓に突き刺さったかのような痛み。夏波は僅かに身体を強張らせた。
「どうしたよ?」
「う、ううん、何でもない」
突然上の空になった夏波を、三科は怪訝そうに覗き込む。しかし夏波が直様首を振れば、そうか、と気にした様子なく話を元に戻した。
――三科は待ってくれている
夏波に訊きたい事や確認したい事が、三科にはきっと大量にあるはずなのだ。
それでも彼が何も言わずに日常の話に終止するのは、夏波自らが話を切り出す時を待っているからに他ならない。
「んじゃ、そろそろ帰るかね。晩飯時だろうし」
一頻り話をして、三科は椅子から立ち上がった。
「うん、いつもありがとう」
「おう、また来るわ」
三科はひらりと手を振って踵を返す。
それがなんだか酷く名残惜しいものに思えて、夏波はうっかり心の声を零した。
「……待ってるね」
ちらりと三科が振り向く。その瞳が悲しげな色を持っていたようにも見え、夏波の心は不安に揺れた。
しかし、三科はもう一度寝台に近付くと、夏波の前髪を大きな手でグシャグシャとかき混ぜて笑う。
「何だァお前、寂しがり爆発させてんじゃねーよ!」
「ちょ、やめてよ!?これから食堂行かなきゃなんだから!」
「元々寝起きで寝癖立ちまくりだったじゃねえか。今更だわ」
「え、うそ!?」
「残念、ホント」
からかい口調でそう言ってから、わはは、と楽しげに手を引っ込める。
頭の傷に触らない程度の軽いじゃれ合い。きっと前髪はひどい有様になっているのだろう。鏡を見ずともそれは分かる。
膨れっ面になって三科を睨むが、彼はそんな夏波の視線を受けるなり、まったく、と呆れた表情に一転させた。
「俺を待つんじゃなくて、お前が早く怪我治して退院すんだよ」
「う……ご、ごもっとも……」
前髪を直しながら返事をすれば、三科は満足そうに頷いて、今度こそ夏波に背を向けた。病室の扉を閉める直前で「またな」と手を振り、そしてその場を立ち去ってゆく。
「うん、……また」
閉められた白い扉に片手を上げ、夏波は靴音を見送った。
やがてその足音が完全に聞こえなくなってから、ぱたり、と掛け布団の上に手を落とす。
――苦しい
喉の底を細い糸で緩やかに締められているかのようだ。
結局、今日も三科は事件の話には一切触れなかった。そして恐らく、今後も彼から問いかけてくることは無いのだろう。
夏波が話を切り出さない限り、三科はいつまでも待ってくれる。
一体夏波が何に巻き込まれているのかも、何故こんな事になったのかも分からないまま、それでも夏波が望まない限り、三科は“いつも通り”を崩さずにいてくれる。
逆の立場ならどうだっただろうかと想像して、――悲しくなった。
夏波が三科の立場なら、どうして自分を頼ってくれないのか、とか、信頼されていないのだろうかとか、思っていたとしてもおかしくはない。
しかし、それを理解していてなお、夏波は何も告げられていないのだ。
三科祭という日常への依り代をどうしても手放せない。彼だけは、そのまま陽の光を浴び続けていて欲しい。
同時に、『このままではいつか愛想を尽かして離れていってしまうのでは』という恐怖心も顔を覗かせ――けれどその不安は、すぐに頭を引っ込める。
――それは、きっと大丈夫
三科なら、何も言わずに離れたり、突然夏波を嫌ったりしないという確信がある。いや、そうなる前に、彼なら言葉をくれるはずなのだ。夏波がいつまでも話をしない事に気を損ねたのなら、それをその通りに伝えてくれる。夏波が彼の言葉に真摯である限り、三科は夏波を決して見捨てない。
そこまで考えを巡らせて、また心が沈んだ。
胸に渦巻くのは、途方も無い程強い三科に対する信頼だ。
夏波は三科祭という人間を、自分でもどうにもならない程に信頼しているのだ。もしも彼に裏切られることがあったら、もう二度と立てなくなるだろうと自覚ができる程に。
だというのに、そんな夏波自身が三科を裏切り続けている事があまりにも苦しい。
あわよくば、何も告げず、何も知らせずに、このまますっと他愛無い話をしていたい。
それがただのわがままでしかない事に、ほとほと嫌気が差す。
――ご飯、食べよう
下降していくばかりの思考に区切りをつけて、夏波はベッドから降り立った。ベッド脇の携帯端末をポケットに放り込み、のそのそと歩き出す。
歩けるようになった頃から、病院での食事は食堂で配膳を受けて食べるようにと言われていた。
途中のナースステーションに声をかけて、夏波は食堂へ入ると、一人ぽつぽつと食事を摂る。
栄養バランスの整った食事を1日3食摂る生活は、一体いつぶりなのだろう。
もしかすると高校が最後だろうか。大学時代はバイトに明け暮れていたおかげで、完全にまかないに頼りきりだった。警察になってからも自炊はほとんどしておらず、1日1食の時もざらだ。
――美味しい
鳥の照り焼きに、小鉢のほうれん草。味噌汁も暖かく、薄暗い気持ちが若干和らぐ。
食器を片付けながら、厨房に「ごちそうさまでした」と声をかけ、夏波は食堂を後にした。
だが、このまま自室に戻ったとしても特にやる事がない。三科が来るまでは眠っていたので眠気も無いし、と、夏波はそのまま病院の一階部分へと足を向ける。
この時間であれば、下の売店に寄っても問題ないはずだ。適当な小説でも買って時間を潰そう。確か電子決済もできたはずなので、携帯端末さえあれば現金は必要ない。
大きな総合受付を横切って、小さな売店の入り口をくぐる。
中央に食品の並んだ棚が置かれ、その奥の縦型ショーケース内ではペットボトルが沈黙していた。
夏波は壁沿いに設置されたもう一つの棚に近付くと、手頃な小説を指差しで探す。
――あれ……?
ふと、気になるタイトルが書かれた背表紙を見つけ、人差し指で引っ張り出した。
『彼岸の鯨』
何処かで聞いたタイトルだ。一体どこで、と表紙を見れば、帯に書かれた“映画化決定”の太文字が目に飛び込む。
とはいえ、映画化されたのは5年前の事で、初版の発刊はもっと前だ。この文庫本も長らく売店で日の目を見ていなかったのだろう。
ひっくり返すと、裏表紙側の帯には出演者の名前が並んでいた。そこに見覚えのある名前を見つけて、夏波は思わず息を飲む。
「美月幸平……」
主演ではないようだが、メインキャストではあるようだ。
夏波は迷わずレジへ赴くと、会計を済ませ、足早に自分の病室に戻ろうと売店を出る。
と、受付を通り過ぎようとしたところで、思わず足を止め「あ」と声を上げた。
総合受付で会計をしていた少年の後ろ姿に見覚えがあったのだ。
相手はまさか自分に向かってかけられた声だとは思わなかったのか、反応こそ示さなかったが、こちらを向くなり僅かに目を見開く。
やっぱり、と言いながら、夏波は制服姿の少年に近づいた。
「お久しぶりです……匠君」
伊霧匠は、少し戸惑ったような会釈をして、表情を固くしていた。
無意識的に顔を向けると、入口が空き、廊下の蛍光灯の灯りが飛び込んでいる事が分かる。
直様スイッチを入れる音。それまで夕闇に沈んでいた部屋が、白に照らされた。
「失礼しますね。夏波さん、面会希望の方がいらしてますよ」
夏波の霞がかった頭が、入ってきた看護師の姿とその言葉を辛うじて認識する。
ベッドに片肘をついて身を起こし、夏波はもたもたと口を開いた。
「えと……どなたでしょうか」
「三科さんです。お通ししてもよろしいですか?」
「あ、はい」
重たい瞼を擦りつつ、一度思い切り目を瞑る。できれば伸びがしたい気分だったが、下手に動かすと腹部に痛みが走る事を思い出して直前で止めた。
「よ、おはよう」
廊下へ引っ込んだ看護師と入れ替わりで、三科がひょこりと顔を出す。口元を吊り上げて嬉しそうにしている彼につられ、夏波も薄く笑みを作った。
「おはようって、もう夕方だよ」
「いやそうだけど。お前今起きたところじゃねえの?」
「な、何で分かったの?」
「そんな顔してりゃ分かるって」
からから笑う三科。彼は部屋の入口横に設置されていた棚に「これ、見舞いな」とビニール袋を置きやる。
「それなに?」
「アルフォートとパイの実とファンタ」
「出た、三科セット」
三科の言った組み合わせは、夏波と遊ぶ時に持ってくるいつもの差し入れだ。
彼とは普段共通の友人を呼んでボードゲームに興じる事が多い。そんな時、いつも必ず徳用のチョコレートと2リットルの炭酸飲料を手土産にしてやってくるので、夏波はそれを勝手に三科セットと呼んでいた。
「わざわざありがとう。でも、なんか懐かしいね」
「あー、確かに。そういや久しぶりに買ったわ」
三科はベッド脇にあったスツールに腰掛ける。そうして入院着姿の夏波を眺め、穏やかな口調で問いかけた。
「調子はどうよ?」
「最近は結構元気。あと1週間もすれば退院できるって言われたよ」
「そうなんか!やー、良かった」
三科は大袈裟に身体を前に折って、長く安堵の息をつく。
「大袈裟だなぁ」
なんて夏波が笑えば、
「そんなことないだろ」
と三科は体勢を変えず顔だけ上げた。
「マジで死にかけだったって聞いてたからさ」
「あー、……えっと。……らしいね」
「らしいねって、お前なァ」
夏波の返答に、三科は拍子抜けした様子で身体を起こす。
1週間前に目を覚ました際、医者にも似たような事を言われた記憶がある。
ただそれは医者の見解ではなく、夏波を運んだ救急隊員の言葉として伝えられたものだ。
彼らが駆けつけた時の夏波の身体は、死の一歩手前で何とか踏みとどまったようなものだったらしい。
だが医者の話によると、生死の境を彷徨ったのは頭部の多量出血によるものであり、骨折は肋部分のみ。内臓破裂なども見られず、後を引くほどの傷は全くないという事だった。
正直暴行を受けている時は骨の5、6本は折れている気がしていたし、口から血が出るほど蹴り飛ばされた記憶があるのだが、医者が嘘を付くいわれもない。
実際3日前には自由に動き回れるようになっていたし、悪い話でもないのだが、夏波はあまり釈然としないまま話を受け入れていた。
「剣さんと村山さんなんか、ずっとお前の心配してるってのに」
「そうだね……。村山さんは昨日もお見舞い来てくれたよ」
面会許可が出た後は、夏波の元に何人もの見舞客が訪れていた。
時たま捜査一課の人間が来ることもあったが、それさえ顔見知りばかりである。
中でも頻度が高いのは村山で、彼女は『救急車に乗せられていく夏波の姿がトラウマだから』と落ち込んだ様子で話し、週に2、3度は顔を出してくれていた。
次点で剣と三科。他の機捜の先輩も一度は顔を見せていたし、宮藤も忙しい暇を縫って何度か来てくれている。
しかし志賀だけは、待てど暮らせど一度も会いに来てはくれなかった。
――お礼言いたいのに
夏波の記憶の最後は、女から頭への一撃を見舞われそうになった瞬間だ。それ以降はプツリと途切れていて、どうやって助かったのも、誰が助けてくれたのかもはっきりと覚えてはいなかった。
しかし、見舞い客の誰しもが「志賀が血相を変えて探してた」と話している事から、恐らく助け出してくれたのは志賀なのだろうと予想している。
「なんにせよ、無事で良かったけどな」
柔らかく微笑む三科に、「心配してくれてありがとう」と礼を返す。
その後の彼は、最近できたボードゲームカフェの話を持ち出したり、機捜で起こった笑いなどを持ち出して、他愛ない会話を繰り広げた。
夏波も彼の話に笑いながら、退院した後の日常へと想いを馳せる。
――また、助けられてる
伊霧芽郁の手を取り零した後と同じ様に。
夏波は三科の話に笑い声を立てながら、掛け布団の中で手袋をつけたままのこぶしを小さく握った。
意識を取り戻してから、夏波の心は泥沼に浸かったような感覚に苛まれ続けていた。
伊霧芽郁の死後と違うのは罪悪感の有無くらいのもので、どうにもならない不安と焦燥はあの時とよく似ている。見舞い客が来る度に多少薄まるのだが、それでも今回の拉致事件の話をしていると、その泥沼は更に深みを増していった。
最近では奇妙な乖離感に襲われる事すらある。
自分が知人と喋っているはずなのに、まるで知らない誰かに知人との会話を横取りされてしまったかのような、そんな嫉妬に似た感情を覚えるのだ。
しかし、そんな状態を夏波は誰にも打ち明けることができていなかった。
「その新しいボドゲカフェって、どこにできたの?」
「広瀬通だったっけかな?俺も行ったことないし、退院したら一緒行こうぜ」
「うん、行きたい」
三科祭とて、夏波の状況を知っている訳はない。
けれど、彼は見舞いに来ると必ず“いつも通り”を装って、何気ない日常の話をする事に終始した。夏波の容態を確認こそすれ、事件の話には殆ど触れようとしないのだ。
そのおかげか、夏波は三科と話している間だけは、乖離感に襲われることがなかった。
浮ついた自分自身を何とか繋ぎ止めて、日常に留まれている。そんな心地さえする。
だが、
――僕は、三科を待たせてる
つきん、と、小さな針が心臓に突き刺さったかのような痛み。夏波は僅かに身体を強張らせた。
「どうしたよ?」
「う、ううん、何でもない」
突然上の空になった夏波を、三科は怪訝そうに覗き込む。しかし夏波が直様首を振れば、そうか、と気にした様子なく話を元に戻した。
――三科は待ってくれている
夏波に訊きたい事や確認したい事が、三科にはきっと大量にあるはずなのだ。
それでも彼が何も言わずに日常の話に終止するのは、夏波自らが話を切り出す時を待っているからに他ならない。
「んじゃ、そろそろ帰るかね。晩飯時だろうし」
一頻り話をして、三科は椅子から立ち上がった。
「うん、いつもありがとう」
「おう、また来るわ」
三科はひらりと手を振って踵を返す。
それがなんだか酷く名残惜しいものに思えて、夏波はうっかり心の声を零した。
「……待ってるね」
ちらりと三科が振り向く。その瞳が悲しげな色を持っていたようにも見え、夏波の心は不安に揺れた。
しかし、三科はもう一度寝台に近付くと、夏波の前髪を大きな手でグシャグシャとかき混ぜて笑う。
「何だァお前、寂しがり爆発させてんじゃねーよ!」
「ちょ、やめてよ!?これから食堂行かなきゃなんだから!」
「元々寝起きで寝癖立ちまくりだったじゃねえか。今更だわ」
「え、うそ!?」
「残念、ホント」
からかい口調でそう言ってから、わはは、と楽しげに手を引っ込める。
頭の傷に触らない程度の軽いじゃれ合い。きっと前髪はひどい有様になっているのだろう。鏡を見ずともそれは分かる。
膨れっ面になって三科を睨むが、彼はそんな夏波の視線を受けるなり、まったく、と呆れた表情に一転させた。
「俺を待つんじゃなくて、お前が早く怪我治して退院すんだよ」
「う……ご、ごもっとも……」
前髪を直しながら返事をすれば、三科は満足そうに頷いて、今度こそ夏波に背を向けた。病室の扉を閉める直前で「またな」と手を振り、そしてその場を立ち去ってゆく。
「うん、……また」
閉められた白い扉に片手を上げ、夏波は靴音を見送った。
やがてその足音が完全に聞こえなくなってから、ぱたり、と掛け布団の上に手を落とす。
――苦しい
喉の底を細い糸で緩やかに締められているかのようだ。
結局、今日も三科は事件の話には一切触れなかった。そして恐らく、今後も彼から問いかけてくることは無いのだろう。
夏波が話を切り出さない限り、三科はいつまでも待ってくれる。
一体夏波が何に巻き込まれているのかも、何故こんな事になったのかも分からないまま、それでも夏波が望まない限り、三科は“いつも通り”を崩さずにいてくれる。
逆の立場ならどうだっただろうかと想像して、――悲しくなった。
夏波が三科の立場なら、どうして自分を頼ってくれないのか、とか、信頼されていないのだろうかとか、思っていたとしてもおかしくはない。
しかし、それを理解していてなお、夏波は何も告げられていないのだ。
三科祭という日常への依り代をどうしても手放せない。彼だけは、そのまま陽の光を浴び続けていて欲しい。
同時に、『このままではいつか愛想を尽かして離れていってしまうのでは』という恐怖心も顔を覗かせ――けれどその不安は、すぐに頭を引っ込める。
――それは、きっと大丈夫
三科なら、何も言わずに離れたり、突然夏波を嫌ったりしないという確信がある。いや、そうなる前に、彼なら言葉をくれるはずなのだ。夏波がいつまでも話をしない事に気を損ねたのなら、それをその通りに伝えてくれる。夏波が彼の言葉に真摯である限り、三科は夏波を決して見捨てない。
そこまで考えを巡らせて、また心が沈んだ。
胸に渦巻くのは、途方も無い程強い三科に対する信頼だ。
夏波は三科祭という人間を、自分でもどうにもならない程に信頼しているのだ。もしも彼に裏切られることがあったら、もう二度と立てなくなるだろうと自覚ができる程に。
だというのに、そんな夏波自身が三科を裏切り続けている事があまりにも苦しい。
あわよくば、何も告げず、何も知らせずに、このまますっと他愛無い話をしていたい。
それがただのわがままでしかない事に、ほとほと嫌気が差す。
――ご飯、食べよう
下降していくばかりの思考に区切りをつけて、夏波はベッドから降り立った。ベッド脇の携帯端末をポケットに放り込み、のそのそと歩き出す。
歩けるようになった頃から、病院での食事は食堂で配膳を受けて食べるようにと言われていた。
途中のナースステーションに声をかけて、夏波は食堂へ入ると、一人ぽつぽつと食事を摂る。
栄養バランスの整った食事を1日3食摂る生活は、一体いつぶりなのだろう。
もしかすると高校が最後だろうか。大学時代はバイトに明け暮れていたおかげで、完全にまかないに頼りきりだった。警察になってからも自炊はほとんどしておらず、1日1食の時もざらだ。
――美味しい
鳥の照り焼きに、小鉢のほうれん草。味噌汁も暖かく、薄暗い気持ちが若干和らぐ。
食器を片付けながら、厨房に「ごちそうさまでした」と声をかけ、夏波は食堂を後にした。
だが、このまま自室に戻ったとしても特にやる事がない。三科が来るまでは眠っていたので眠気も無いし、と、夏波はそのまま病院の一階部分へと足を向ける。
この時間であれば、下の売店に寄っても問題ないはずだ。適当な小説でも買って時間を潰そう。確か電子決済もできたはずなので、携帯端末さえあれば現金は必要ない。
大きな総合受付を横切って、小さな売店の入り口をくぐる。
中央に食品の並んだ棚が置かれ、その奥の縦型ショーケース内ではペットボトルが沈黙していた。
夏波は壁沿いに設置されたもう一つの棚に近付くと、手頃な小説を指差しで探す。
――あれ……?
ふと、気になるタイトルが書かれた背表紙を見つけ、人差し指で引っ張り出した。
『彼岸の鯨』
何処かで聞いたタイトルだ。一体どこで、と表紙を見れば、帯に書かれた“映画化決定”の太文字が目に飛び込む。
とはいえ、映画化されたのは5年前の事で、初版の発刊はもっと前だ。この文庫本も長らく売店で日の目を見ていなかったのだろう。
ひっくり返すと、裏表紙側の帯には出演者の名前が並んでいた。そこに見覚えのある名前を見つけて、夏波は思わず息を飲む。
「美月幸平……」
主演ではないようだが、メインキャストではあるようだ。
夏波は迷わずレジへ赴くと、会計を済ませ、足早に自分の病室に戻ろうと売店を出る。
と、受付を通り過ぎようとしたところで、思わず足を止め「あ」と声を上げた。
総合受付で会計をしていた少年の後ろ姿に見覚えがあったのだ。
相手はまさか自分に向かってかけられた声だとは思わなかったのか、反応こそ示さなかったが、こちらを向くなり僅かに目を見開く。
やっぱり、と言いながら、夏波は制服姿の少年に近づいた。
「お久しぶりです……匠君」
伊霧匠は、少し戸惑ったような会釈をして、表情を固くしていた。