1-13 引き潰れる音

文字数 4,305文字

 彼女を見つけたのが朝っぱらじゃなかったら、オレはきっと悲鳴を上げていただろう。
 交番の入り口の上半分はガラス製で、外から内部がよく見えるようになっている。それは交番内で作業していたオレ側からも外がよく見えると言う事だ。ふと何気なく顔をあげると、その入り口に少女が一人ぬぼっと立ち尽くしていた。俯きがち、かつ長い前髪のおかげで顔が見えず、まるで幽霊のようだった。午前中の明るい日差しの中にいてなお心臓が飛び上がるかと思った程だ。夜中じゃなくて本当に良かった。
 オレは立ち上がって入口に寄る。ガラリと音を立てて戸を開くなり、目を剥いた。彼女の手が血塗れだったのだ。ポタポタと入口に血が垂れているのを見て、すぐに彼女の手が傷だらけであることを悟った。

「だ、大丈夫か君!?」
「……しま、た……」

 彼女は何かを呟いていたが、一先ず血を止める事が先決だ。

「とにかく、中に入って!」

 オレは棚から救急セットを取り出し、彼女を椅子のある休憩室へと促す。
 
「とりあえず応急処置したら病院に連れて行くよ。お名前は?」

 大人しくついてきた少女に語りかけた。

「……しました」
「え?」
「……私、人を殺しました」

 彼女はそう声を絞り出し、途端大粒の涙を流し始める。困惑するなという方が無理だ。警察になってから十年間、オレは殺人の出頭を対処したことがない。まして、同僚が一人暮らしの爺さんの様子を見に行った一人きりのタイミングでとは、運が悪いというか。
 オレは少しだけ迷ったが、先んじて彼女の手当を行うことにした。彼女が今すぐ暴れ回る様子も、凶器を持っている様子もない。それに、殺したという彼女の方が傷だらけだ。話を聞きながら処置をして、それから署に連絡を入れよう。そう思った。

「話はちゃんと聞くよ。とりあえずお名前は?」
「伊霧……芽郁です……」
「住所は言える?」

 救急セットを開けて、中身を探る。消毒液を綿に少量含ませ、呆然と俯いて座る少女の手を「ちょっとごめんよ」と言いながら取った。少女はそれまで周りの事が認識できていなかったのだろう。オレが手を取るなり、ギョッとした表情でオレを見て

「――あ」

 と言った。目を丸くし、自分の傷だらけの手を凝視する。

「どこでこんな風にしたんだ一体……ぶつけたのか?」

 とんとん、と綿で傷を消毒していく。彼女の傷は切り傷も多かったが、何か硬いものを殴りつけて皮膚が破裂したようなものも多いように思えた。

「あ、……あ……」

 ガタガタと、少女が震え、声にならない悲鳴を上げる。何かに怯えているような表情をオレに


*

「夏波!!」
「……ッ!」

 いつの間にか止めていた息を一気に吐き出した。あまりの息苦しさに何度か肩で呼吸を繰り返す。背中に優しく手が当てられて、ゆっくりと擦られた。大きく息を吸って、吐く。

「……す、すみません、剣さん」
「大丈夫か」

 顔を上げると、やはり不安と心配を綯い交ぜにした表情の剣が横にいた。曖昧に笑って立ち上がるが、うまく膝に力がはいらない。崩れ落ちかけた夏波を拾い上げ、剣はしゃんと立たせた。

「具合悪いのか」
「いえ、そういう訳じゃ」

 ないんですけど、と言い切る前に、剣が夏波の右手を引いて外へと歩く。未だに霧がかったような頭ではうまく思考できず、夏波はなされるがままに交番の外へと出された。
 ふと、入口前に落ちていた血液に目が行く。

――伊霧芽郁の血液

 先程脳内に再生された映像。あれは恐らく、塩化してしまった警官本人が見たもののように思う。白昼夢にしてはあまりにもはっきりと記憶に残りすぎている。

――そうだ

 あの日。伊霧芽郁に出会った夜も、同じだった。自分ではない別人からの視点。家族を塩化させる夢を見たのだ。
 はっきりと思い出せるわけではない。しかし、伊霧芽郁という名前、伊霧匠という存在に覚えた既視感。それはあの日の夜に見た夢のせいだ。内容を詳細には思い出せない。ただ強く記憶に残っているのは、人が塩化する光景と、そして『自分のせいなのか』という絶望的な自覚だった。

――探さないと

 どうやってかまでは、頭が回っていなかった。しかし、何となく足が前に出る。伊霧芽郁と今も繋がっているかのように、彼女の行動が何となく分かる。

「おい、夏波!?」

 剣が夏波の手を離した瞬間、夏波はゆらりと交番に背を向け、そして走り出していた。

*

 彼女の痕跡は直ぐに見つかった。蒼然暮色の空の下で夏波が走ったのは、仙台駅に向かう大きな通りから一本外れた道だ。
 最初は壁だった。少し進んだ所も、その次も。わずかに壁が崩れ、白く染まっている。不規則に、しかし見失う事がない場所で点々と塩化は起っていた。

――自分の場所を、知らせようとしてる?

 まるで追いかけろ、と言わんばかりだ。夏波の中にある不可思議な直感もそう告げていた。
 どれだけの距離を追ったのだろうか。交番のほど近くからずっと続いていた小さな崩壊は、一つの廃ビル入り口を最後にぱったりと途絶えた。辺りを一通り探る事も考えたが、わざわざ鍵の部分を壊しているようなので、ほとんど間違いないだろう。
 この中に彼女は身を潜めているのだろうか。生唾を飲み込んで扉を押し開けようと体重をかけた。

「おい」

 その声に、夏波の肩が跳ね上がる。とびきり不機嫌そうな声。夏波は恐る恐る背後を振り返った。

「肝試しか? 良い度胸だな」

 本人は冗談のつもりなのだろうが、完全に脅しの文言にしか聞こえない。夏波は亀のように首を竦め、背後で仁王立ちする男の名前を呼んだ。

「志賀さん……」

 口から声が出ると同時に、そこでようやく夏波は自分の行動を思い出した。それまで何かに取り憑かれるようだった頭の中が、ゆるゆると晴れていく。
 ばし、と志賀に何かを投げつけられ、慌てて両手で受け取った。

「今すぐ着けろ」

 それは、つい先程まで手に着けていた手袋の片割れだ。最早どこに落としたのか記憶にないが、夏波の右手は確かに素肌が晒されている。慌てて装着し直す間に、志賀は険しい表情のまま歩みを寄せた。

「何があった」
「えっと……思い出したんです。……伊霧芽郁の記憶、みたいなものを……」

 志賀は何も口を挟まない。最後まで話せという事なのだろう。

「僕、あの後もう一度さっきの方に触ったんです。そうしたら、あの方が亡くなる直前の記憶? みたいなものが見えて……。それと一緒に、前に似たような夢を見た事を思い出しました。多分ですけど……伊霧芽郁本人の記憶、なんだと思います。その後何となく彼女が取った行動が分かったような気がして、……気が付いたらここに」

 確証はない。白昼夢だと一蹴されたらそれまでだ。だが、志賀は顎に手を置き、じっと考え込んだ。

「“能力”……?いや、そんな……」
「あッ!!」

 手袋のベルトを締め直しながら、夏波は先程の光景を思い返して肝を冷やした。突然の大声に、流石の志賀も驚いて顔を上げる。

「さ、さっき僕、剣さんに触った……!」

 交番内から出て行く時、剣が掴んだのは手袋を外した状態の夏波の右手だった。もしも剣になにかが起こっていたらと夏波は顔を青ざめさせる。が、志賀は落ち着き払って「大丈夫だ」と声をかけた。

「俺にお前の事を知らせに来た段階じゃ、奴に変化は見られなかった。それに効果や条件が定かじゃないとはいえ、お前の能力が人を傷つけた事は今の所ないだろ。一旦落ち着け」
「は、はい……」

 志賀は相変わらず強い口調のまま言い切る。完全な安堵とまではいかないものの、夏波は深呼吸を繰り返し、何とか落ち着きを取り戻す――事は、叶わなかった。

「わあぁぁぁぁぁ――ッ!!」

 廃ビルの中から突如響いてきた大声。夏波と志賀は身構えて、声の方向を向く。廃ビルの、ガラスの押戸のその先。一人の少女が立ち尽くし、こちらをじっと見ていた。

「伊霧芽郁……!」

 夏波が名前を呼ぶが早いか、少女はくるりと踵を返す。そうして、建物の奥へと駆け出した。

「待って!!」
「おいッ!」

 気付いたときには、夏波の足はコンクリートを蹴っていた。押戸を跳ね開け、床に散乱した瓦礫を飛び越えて彼女の後を追う。背後を志賀の声が追いすがったが、気に留めることはできなかった。
 少女は全速力でビルを上へ上へと駆け上っていく。夏波とて、並の人間に負けるような鍛え方はしていない。機捜時代に培ったバネを駆使して追いかけるが、追いつきそうになる度に壁が塩となって崩れたり、足元が塩化したりと妨害され、なかなか思うように捕らえられない。

「待って、話を……!」

 息を切らしながら声をかけても、彼女は一度たりとして反応を見せなかった。上へ、上へと昇り続け、やがて少女は屋上の扉を弾き開けて外へと出てしまう。あともう少し。彼女が屋上の(へり)手前で止まれば手が届く距離。
 しかし、彼女は足を止めなかった。

「――なんでッ」

 夏波は手を伸ばし、頭から飛び込んだ。夏波が彼女の腕を掴んだのはある種の奇跡だろう。ビルの縁から上半身が出た状態で、夏波は必死に一人の少女の体重を支えた。彼女の指先が僅かに触れた袖の部分から、はらはらと結晶が舞い落ちる。

「手、掴んで……!」

 掴まれたら、塩化するかもしれない。しかしこのままでは二人とも落下するだけだ。優に20mを越えているこの高さから落ちれば、死は免れない。夏波は引きちぎれそうな腕になんとか力を込めながら必死に踏ん張る。

「お願い、手を……ッ」

 ずるり、と前に出かけた夏波の胴体を、誰かが抱え込んだ。おかげで力を込めやすくなり、腕に若干の余裕ができる。だが言葉とは裏腹に、少女が夏波の手を掴む素振りはない。

「手を離して」
「どうして……!?」

 ぐ、と、少女が顔を上げた。夏波の背筋に悪寒が走る。目を大きく見開いて、今まさに沈もうとしている夕焼けの光を目に映しながら、彼女は言った。

「私、望まなきゃいけないの。私達が、私達でいるために」
「ど……ういう……」
「“鯨さん”と――約束したから」

 伊霧芽郁は、夏波に掴まれていないもう片方の手を伸ばした。そして、自分を掴んでいる夏波の手に触れる。声を上げる間もない。夏波の右手につけていた手袋の布地が白く染まり上がった。

「これは、私自身の意志」
 
 だから、いいんです。

 ずるり、と抜け落ちた手をもう一度握ろうとして、しかしそれは叶わなかった。夏波の手は虚空を切る。
 目に焼き付いた彼女の最期の笑顔は寂しげで、しかしどこか満足気なものだった。
 呆然と目を見開く。それまで夏波の胴体を押さえていた人物が身体を引っ張り上げた瞬間、ぐしゃりと、命が引き潰れる音が耳に届いた。

 それきりだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

夏波 奏 《カナミ カナデ》


25歳/O型/167cm/特殊対策室所属


自他共に認める気弱人間

志賀 太陽 《シガ タイヨウ》


28歳/AB型/159cm/特殊対策室所属


中央署の嫌われ者

宮藤 由利 《クドウ ユリ》


?歳/B型/154cm/特殊対策室所属


中央署の名物署長

三科 祭 《ミシナ マツリ》


26歳/B型/178cm/機動捜査隊所属


夏波の元相棒で親友

剣 佐助 《ツルギ サスケ》


28歳/AB型/181cm/機動捜査隊所属


苦労人気質の優しい先輩

村山 美樹 《ムラヤマ ミキ》


31歳/O型/162cm/機動捜査隊所属


飄々としてるけど面倒見はいいお姉さん

美月 幸平 《ミツキ コウヘイ》


24歳/B型/178cm/俳優


爽やかな青年

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み