3-10 譫言のような
文字数 4,041文字
扉を押し開ける音に、夏波はふと首を動かした。
「あら?夏波君?」
廊下から顔を出したのは、グレーのスーツに身を包んだ宮藤由利だった。
夏波はペコリと頭を下げ、「お疲れ様です」と小さく挨拶をする。
「もう退勤したと思ってたわ……。どうしたの、こんな夜遅くまで」
「あ、……た、頼まれた仕事が終わらなくて」
パソコンのキーボード上に手を置いたまま、夏波は薄く笑みを見せる。
ふと入り口上に設置された時計に視線を移すと、20時を少し回った所だった。
――結構経ってたんだ
一心不乱に作業をしていたせいで気付かなかった。機動捜査隊の先輩から請け負った資料のデータ化という仕事も、いつの間にやら終わりに近づいている。
「仕事熱心なのはいいけど、病み上がりなのよ。今日はもう帰ったほうがいいんじゃない?」
「……そう、ですね」
心配そうに夏波の顔を覗き込む宮藤から、昼間に垣間見た雰囲気は一切感じられない。
夏波の知る、朗らかで明るい宮藤の姿だ。彼女は夏波がキーボードから手を離した事を確認すると、膝を伸ばしてきょろきょろ辺りを見渡した。
「志賀君は?まだ戻ってないの?」
「そうですね……そういえば遅いな」
もう一度時計を見上げながら、夏波は少しだけ顔を曇らせる。
普段どこを飛び回っているのか分からない志賀だが、いつもであれば夏波の終業時間前後には戻ってくるはずなのだ。その時間はとっくに過ぎているし、何なら一度も連絡はない。
宮藤が手に持っていた端末を操作して耳に当てたが、じっと20秒ほど黙り込んだ後、首を振って端末を離した。
「出ないわね。ま、たまにあるからあんまり心配はしてないけど」
肩を竦めて、スーツのポケットに端末を滑り込ませる。
「どこに行くかは聞いてない?」
「確か、香清町 って言ってました」
「香清町……マル暴の話でも聞きつけたのかしら……?」
腕を組む宮藤。
彼女の言うマル暴とは警察内での隠語で、暴力団、或いは警察における暴力団対策系の部署と刑事を指す。青葉中央署に暴力団対策課のシマはないはずなので、宮藤が指しているのは暴力団そのものの方だろう。
夏波も機動捜査隊として密行している時に、香清町には“いる”と聞いた事がある。
「大丈夫なんでしょうか……?」
「んー、……あの子、無駄に強いから多分問題ないと思うわ」
手を振って事も無げな宮藤。だが、夏波の脳裏には嫌な記憶がふと蘇る。
『志賀太陽のこと、信用できそ?』
首を振って、ミヤギの言葉を振り払った。
――あの人は、そんな人じゃない
じっと遺体に手を合わせる志賀の姿を思い返し、夏波は自分の心を鼓舞する。
例え何か事件に巻き込まれたとしても、人を消すなんて選択を志賀が取る訳がない。――はずだ。
断言しきれないのが悔しかった。もっと志賀と話をして、確証を得ていたら、こんなくだらない事で悩まなくても良かったのに。
「とにかく、今日はもう帰りなさいな。何なら送りましょうか?」
「だ、大丈夫です!徒歩10分くらいですし、まだ人通りもあるので」
流石にそこまでさせる訳にはと、夏波は慌ててパソコンを畳む。
急ぎ帰り支度を整える夏波を眺め、宮藤がふと「あら?」と声を上げた。
「その本、もしかして『彼岸の鯨』?」
荷物整理の為に一瞬だけ取り出した本を指差され、夏波は一瞬呆気にとられる。
「え……あぁ、ご存じですか?」
「ええ。一昨日かな?志賀君が読んでたのよ」
「志賀さんが……?美月さんが映画に出てるから、とかですかね」
「そんなこと言ってたわ」
志賀が本を読んでいるイメージはあまり無かったが、そういう事かと納得する。
かくいう夏波とて、美月幸平の名前に引かれて買ったようなものだ。
まだ半分ほどしか読んでいないので犯人は分からないものの、主人公の片割れが亡くなってしまう事だけは冒頭で明かされており、ある程度心を固くして読み進めている。
「夏波君は映画は見てないのよね?」
「はい。小説読み終わったらかなって……」
「そっか。志賀君も美月の演技が良かったって言ってたし、期待していいと思うわ」
「志賀さんが……」
「意外よね」
宮藤はソファの肘掛け部分に腰を軽く下ろした。
「美月幸平とはまだ交流あるの?」
「えっと、……そうですね。警察としてというか、個人的な付き合いになっちゃってますが……」
「それ、……負担になってない?」
え、と声を零して、リュックのジッパーを引っ張っていた手を止めた。首を回して宮藤を向けば、彼女は心配そうな面持ちでこちらを見ている。
「確かに、私達は美月幸平の協力を得たいし、彼がこのまま『能力は素晴らしい物』ってイメージを波及させてしまう事は好ましくないわ」
「はい。でも、美月さん、僕以外が介入すると途端に頑なになっちゃうので……」
宮藤は「それが困ったところなんだけど」と眉を寄せる。
美月との会話の中で、夏波は彼の気に触らない程度に『能力には危険な側面もある』と伝え続けていた。それが如何程の効果を持っているかは分からないが、少なくとも夏波が拉致された直後に出した動画以降は、無闇やたらに『超能力の良さ』を吹聴する事は無くなったはずだ。あくまでも自分の能力をアピールするに留まっている――と、思いたい。
「でも、無理はしなくていいからね」
宮藤の言葉に、夏波は緩やかな嘘をついた。
「ありがとうございます。でも……大丈夫です」
「……ならいいのだけど」
完全な嘘ではない。だが、半分は嘘だ。
美月とのやり取りは、確実に夏波の負担にはなっている。その自覚が夏波にもある。
しかし彼にはなんの悪意もない。むしろ好意で接してくれる人間だ。それを突き放してしまう事は、どうしても気が引けてできない。
「……それじゃぁ、失礼します」
笑顔を取り繕って、夏波は頭を下げる。
「うん。戸締まりは任せてね。帰りはくれぐれも気をつけて」
ひらりひらりと手を振る宮藤。その陰りのない笑顔から思わず目を背けながら、夏波は特殊対策室を逃げるように後にした。
*
ぽつぽつと帰路を歩く。
思考は浮 ついていた。何かを考えると胸が潰れてしまうのではないかという、漠然とした恐怖が頭の中にある。
必死に足を動かした。
しかし、それでもぱたりと前に進めなくなって、道の中央で立ち止まる。
迷惑そうに夏波を避けて歩く人。何かあったのかと伺いながら通り過ぎる人。
リュックの肩紐を握り締め、夏波は何度も浅く呼吸を繰り返した。
――歩かなきゃ
こんな所で立ち止まっていてはいけないのだ。
ゆらり、ゆらりとなんとか足を踏み出して、夏波は歩いた。
――僕のせいで
何も考えたくないはずだった。しかし、一度動かしてしまったせいで、坂から転がり落ちるかの如く思考が回る。
――僕が、余計なことしたから
志賀から何度も言われていたはずだった。
能力は都合が良いだけの力ではないと。
けれど、心のどこかで『自分は違う』と思っていたのだ。『記憶を読み取る』だけならば、何の弊害もない。ミツキの言う通り、自分の力で人を救えるかもしれないと。そう思っていた。
しかし、違った。夏波の力は『記憶を読み取る』なんてものではない。
――記憶を、奪ってたんだ
宮藤を悪魔と称した青年は、宮藤についての記憶を失っていた。
伊霧匠は、――姉である伊霧芽郁の名前を覚えていなかった。
姉がいたという事実は覚えているのに、彼女との記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。しかし、伊霧匠はそう指摘された後もピンときておらず、『授業が始まるから』と平然と電話を切ってしまった。
――もう記憶の中でしか会えないはずなのに
その記憶すら奪ってしまったのだろうか。
心の重りはそれに留まらない。
夏波が生きている人間の記憶を読み取ったのは、青年や伊霧匠だけではない。
伊霧芽郁もその被害者だ。そして読み取ったのは、父親と母親を塩化させた記憶。つまり、伊霧芽郁は父親と母親の存在を忘れ、その上塩化させたという事実まで忘れてしまっていた可能性がある。
――それが、彼女が死を選ぶ理由や、他の人の死に繋がっていたんだとしたら
何もかもが自分のせいなのだとしたら。
夏波はもう一度足を止めた。道端を歩いていたおかげで周囲の迷惑にはならないが、それでも通りすがる人々は不思議そうに夏波に視線を送っては、すぐに記憶から消して歩き去る。
――苦しい
絶望、という言葉が酷く安っぽく思えた。喉の奥に溶けた鉛を流し込まれ、深い海の底に沈められたかのようだ。溺れ続けてもなお、気を失う事のできない地獄が続いている。
もう戻れない。取り返しはつかない。
潰れそうな胸を抑えて必死に歩いた。一歩ずつ、体を引きずるようにして前へ。
――消えてしまいたい
立ち行かなくなった思考回路がそんな言葉で埋め尽くされる。不思議な事に、そうして自分を責め立てている間の方が息ができる気さえした。
口の中で何度も逃げるように繰り返し、夏波ははくはくと息をする。
「もう……いやだ」
助けを求める事はできなかった。誰かに手を伸ばしてもらう程の価値を自分自身に見出 だせない。
重い足を引きずり、何とか家に辿り着く。靴を脱ごうとして、ふと足元に束ねられた新聞紙に目を奪われた。
――もう、なにも
新聞紙を束ねる為の細いロープがやけに目に焼き付く。
――考えたくない
普段の夏波であれば、ありえない思考回路だった。
その選択がどれだけの人間に迷惑を及ぼすかなんて、痛い程知っている。
自分の死を見る事になる人間。自分の死を処理する人間。自分の死を悼む人間。
今夏波の中にある選択は、その全てに迷惑をかける行為だ。
そんな事は知っている。分かりきっている。
それでも苦しい。これ以上どうすればいいのか分からない。逃げ出したい。何もかもがどうだっていい。
目眩がした。気持ち悪さに胸を抑え、夏波はその場にしゃがみ込む。そうしてぎゅっと目を瞑ると同時に、夏波の意識はぐるりと暗転した。
「あら?夏波君?」
廊下から顔を出したのは、グレーのスーツに身を包んだ宮藤由利だった。
夏波はペコリと頭を下げ、「お疲れ様です」と小さく挨拶をする。
「もう退勤したと思ってたわ……。どうしたの、こんな夜遅くまで」
「あ、……た、頼まれた仕事が終わらなくて」
パソコンのキーボード上に手を置いたまま、夏波は薄く笑みを見せる。
ふと入り口上に設置された時計に視線を移すと、20時を少し回った所だった。
――結構経ってたんだ
一心不乱に作業をしていたせいで気付かなかった。機動捜査隊の先輩から請け負った資料のデータ化という仕事も、いつの間にやら終わりに近づいている。
「仕事熱心なのはいいけど、病み上がりなのよ。今日はもう帰ったほうがいいんじゃない?」
「……そう、ですね」
心配そうに夏波の顔を覗き込む宮藤から、昼間に垣間見た雰囲気は一切感じられない。
夏波の知る、朗らかで明るい宮藤の姿だ。彼女は夏波がキーボードから手を離した事を確認すると、膝を伸ばしてきょろきょろ辺りを見渡した。
「志賀君は?まだ戻ってないの?」
「そうですね……そういえば遅いな」
もう一度時計を見上げながら、夏波は少しだけ顔を曇らせる。
普段どこを飛び回っているのか分からない志賀だが、いつもであれば夏波の終業時間前後には戻ってくるはずなのだ。その時間はとっくに過ぎているし、何なら一度も連絡はない。
宮藤が手に持っていた端末を操作して耳に当てたが、じっと20秒ほど黙り込んだ後、首を振って端末を離した。
「出ないわね。ま、たまにあるからあんまり心配はしてないけど」
肩を竦めて、スーツのポケットに端末を滑り込ませる。
「どこに行くかは聞いてない?」
「確か、
「香清町……マル暴の話でも聞きつけたのかしら……?」
腕を組む宮藤。
彼女の言うマル暴とは警察内での隠語で、暴力団、或いは警察における暴力団対策系の部署と刑事を指す。青葉中央署に暴力団対策課のシマはないはずなので、宮藤が指しているのは暴力団そのものの方だろう。
夏波も機動捜査隊として密行している時に、香清町には“いる”と聞いた事がある。
「大丈夫なんでしょうか……?」
「んー、……あの子、無駄に強いから多分問題ないと思うわ」
手を振って事も無げな宮藤。だが、夏波の脳裏には嫌な記憶がふと蘇る。
『志賀太陽のこと、信用できそ?』
首を振って、ミヤギの言葉を振り払った。
――あの人は、そんな人じゃない
じっと遺体に手を合わせる志賀の姿を思い返し、夏波は自分の心を鼓舞する。
例え何か事件に巻き込まれたとしても、人を消すなんて選択を志賀が取る訳がない。――はずだ。
断言しきれないのが悔しかった。もっと志賀と話をして、確証を得ていたら、こんなくだらない事で悩まなくても良かったのに。
「とにかく、今日はもう帰りなさいな。何なら送りましょうか?」
「だ、大丈夫です!徒歩10分くらいですし、まだ人通りもあるので」
流石にそこまでさせる訳にはと、夏波は慌ててパソコンを畳む。
急ぎ帰り支度を整える夏波を眺め、宮藤がふと「あら?」と声を上げた。
「その本、もしかして『彼岸の鯨』?」
荷物整理の為に一瞬だけ取り出した本を指差され、夏波は一瞬呆気にとられる。
「え……あぁ、ご存じですか?」
「ええ。一昨日かな?志賀君が読んでたのよ」
「志賀さんが……?美月さんが映画に出てるから、とかですかね」
「そんなこと言ってたわ」
志賀が本を読んでいるイメージはあまり無かったが、そういう事かと納得する。
かくいう夏波とて、美月幸平の名前に引かれて買ったようなものだ。
まだ半分ほどしか読んでいないので犯人は分からないものの、主人公の片割れが亡くなってしまう事だけは冒頭で明かされており、ある程度心を固くして読み進めている。
「夏波君は映画は見てないのよね?」
「はい。小説読み終わったらかなって……」
「そっか。志賀君も美月の演技が良かったって言ってたし、期待していいと思うわ」
「志賀さんが……」
「意外よね」
宮藤はソファの肘掛け部分に腰を軽く下ろした。
「美月幸平とはまだ交流あるの?」
「えっと、……そうですね。警察としてというか、個人的な付き合いになっちゃってますが……」
「それ、……負担になってない?」
え、と声を零して、リュックのジッパーを引っ張っていた手を止めた。首を回して宮藤を向けば、彼女は心配そうな面持ちでこちらを見ている。
「確かに、私達は美月幸平の協力を得たいし、彼がこのまま『能力は素晴らしい物』ってイメージを波及させてしまう事は好ましくないわ」
「はい。でも、美月さん、僕以外が介入すると途端に頑なになっちゃうので……」
宮藤は「それが困ったところなんだけど」と眉を寄せる。
美月との会話の中で、夏波は彼の気に触らない程度に『能力には危険な側面もある』と伝え続けていた。それが如何程の効果を持っているかは分からないが、少なくとも夏波が拉致された直後に出した動画以降は、無闇やたらに『超能力の良さ』を吹聴する事は無くなったはずだ。あくまでも自分の能力をアピールするに留まっている――と、思いたい。
「でも、無理はしなくていいからね」
宮藤の言葉に、夏波は緩やかな嘘をついた。
「ありがとうございます。でも……大丈夫です」
「……ならいいのだけど」
完全な嘘ではない。だが、半分は嘘だ。
美月とのやり取りは、確実に夏波の負担にはなっている。その自覚が夏波にもある。
しかし彼にはなんの悪意もない。むしろ好意で接してくれる人間だ。それを突き放してしまう事は、どうしても気が引けてできない。
「……それじゃぁ、失礼します」
笑顔を取り繕って、夏波は頭を下げる。
「うん。戸締まりは任せてね。帰りはくれぐれも気をつけて」
ひらりひらりと手を振る宮藤。その陰りのない笑顔から思わず目を背けながら、夏波は特殊対策室を逃げるように後にした。
*
ぽつぽつと帰路を歩く。
思考は
必死に足を動かした。
しかし、それでもぱたりと前に進めなくなって、道の中央で立ち止まる。
迷惑そうに夏波を避けて歩く人。何かあったのかと伺いながら通り過ぎる人。
リュックの肩紐を握り締め、夏波は何度も浅く呼吸を繰り返した。
――歩かなきゃ
こんな所で立ち止まっていてはいけないのだ。
ゆらり、ゆらりとなんとか足を踏み出して、夏波は歩いた。
――僕のせいで
何も考えたくないはずだった。しかし、一度動かしてしまったせいで、坂から転がり落ちるかの如く思考が回る。
――僕が、余計なことしたから
志賀から何度も言われていたはずだった。
能力は都合が良いだけの力ではないと。
けれど、心のどこかで『自分は違う』と思っていたのだ。『記憶を読み取る』だけならば、何の弊害もない。ミツキの言う通り、自分の力で人を救えるかもしれないと。そう思っていた。
しかし、違った。夏波の力は『記憶を読み取る』なんてものではない。
――記憶を、奪ってたんだ
宮藤を悪魔と称した青年は、宮藤についての記憶を失っていた。
伊霧匠は、――姉である伊霧芽郁の名前を覚えていなかった。
姉がいたという事実は覚えているのに、彼女との記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。しかし、伊霧匠はそう指摘された後もピンときておらず、『授業が始まるから』と平然と電話を切ってしまった。
――もう記憶の中でしか会えないはずなのに
その記憶すら奪ってしまったのだろうか。
心の重りはそれに留まらない。
夏波が生きている人間の記憶を読み取ったのは、青年や伊霧匠だけではない。
伊霧芽郁もその被害者だ。そして読み取ったのは、父親と母親を塩化させた記憶。つまり、伊霧芽郁は父親と母親の存在を忘れ、その上塩化させたという事実まで忘れてしまっていた可能性がある。
――それが、彼女が死を選ぶ理由や、他の人の死に繋がっていたんだとしたら
何もかもが自分のせいなのだとしたら。
夏波はもう一度足を止めた。道端を歩いていたおかげで周囲の迷惑にはならないが、それでも通りすがる人々は不思議そうに夏波に視線を送っては、すぐに記憶から消して歩き去る。
――苦しい
絶望、という言葉が酷く安っぽく思えた。喉の奥に溶けた鉛を流し込まれ、深い海の底に沈められたかのようだ。溺れ続けてもなお、気を失う事のできない地獄が続いている。
もう戻れない。取り返しはつかない。
潰れそうな胸を抑えて必死に歩いた。一歩ずつ、体を引きずるようにして前へ。
――消えてしまいたい
立ち行かなくなった思考回路がそんな言葉で埋め尽くされる。不思議な事に、そうして自分を責め立てている間の方が息ができる気さえした。
口の中で何度も逃げるように繰り返し、夏波ははくはくと息をする。
「もう……いやだ」
助けを求める事はできなかった。誰かに手を伸ばしてもらう程の価値を自分自身に
重い足を引きずり、何とか家に辿り着く。靴を脱ごうとして、ふと足元に束ねられた新聞紙に目を奪われた。
――もう、なにも
新聞紙を束ねる為の細いロープがやけに目に焼き付く。
――考えたくない
普段の夏波であれば、ありえない思考回路だった。
その選択がどれだけの人間に迷惑を及ぼすかなんて、痛い程知っている。
自分の死を見る事になる人間。自分の死を処理する人間。自分の死を悼む人間。
今夏波の中にある選択は、その全てに迷惑をかける行為だ。
そんな事は知っている。分かりきっている。
それでも苦しい。これ以上どうすればいいのか分からない。逃げ出したい。何もかもがどうだっていい。
目眩がした。気持ち悪さに胸を抑え、夏波はその場にしゃがみ込む。そうしてぎゅっと目を瞑ると同時に、夏波の意識はぐるりと暗転した。