3-8 憂鬱
文字数 5,554文字
人の記憶を読むにあたって、問題点は2つある。
1つは相手に傷が無ければいけない事。そして2つ目が、夏波自身が素手でそれに触れなければならない事だ。
3年前の出来事を知る手っ取り早い方法は、志賀か宮藤の記憶を読み取る事だろう。しかし、意外と人間とは丈夫なもので、そう都合良く丁度いい怪我をするものではない。
特に特殊対策室の2人は常に手袋を装着しているので、夏波の触れやすい部分に傷を負うこともないのだ。
更に言えば、夏波の能力を知っている2人――特に志賀は、夏波が手袋を外す事そのものを嫌がる。能力の内容がバレている以上、彼らに対しての能力行使は、力づくでも無い限り難易度が高そうだ。
一先ずは資料を漁るなりなんなりして、志賀と宮藤が3年前に何をしていたのかを探った方がいいのだろう。
また、『保護』の内容については直接訊こうと決めていた。何もかもをこそこそと調べる必要はない。
ミヤギの話した内容は確かに気になるが、これまで接してきた志賀と宮藤が夏波を騙そうとしているとは、やはり思えなかったのだ。
今後も能力者の対処に当たる上で必要な情報だ、と言えば、きっと答えてくれるだろう。これは、あの2人に対する信頼でもある。
――これで答えてくれなかった時が嫌だけど
「夏波さん?」
不意に名前を呼ばれ、夏波は元気良く返事をしながら背筋を伸ばした。
目の前で不思議そうに夏波を覗き込んでいた青年が、驚いた様子で仰け反って、それからくすくすと笑い出す。
「あ……す、すみません、ぼーっとしちゃって……」
夏波が謝ると、美月幸平は笑いながら「いえ」と首を振った。
「体調悪いのかなって心配だったので、良かったです」
気恥ずかしさに縮こまり、キャスケット帽の鍔 を下げた夏波を見て、青年は
「次、夏波さんの手番ですよ」
と茶色い手袋のはまった片手を軽く差し出した。
広いテーブルに乗った青い盤面と、16個の白い駒。対戦型のボードゲームを挟んだ向こう側で、黒いマスクをつけた美月幸平はにこにこと楽しそうにしている。
夏波はしばらく盤上を見つめると、手前側に設置されていた駒を1つ前に出した。
「何かありましたか?」
「あ、いえ、何もないですよ!」
本当に?と心配げな表情を浮かべ、美月は殆どノータイムで駒を前進させる。
「それなら良いんですけど……具合悪いとかなら直ぐに言ってくださいね」
「ありがとうございます。でも、体調は本当に問題ないんです」
微笑んで見せつつ、夏波はどの駒を動かすべきか思案した。
美月幸平からの連絡は、夏波の拉致後も途絶えることは無かった。頻繁に飛んでくるメッセージに目を白黒させながら、何とか彼の連絡速度に合わせてやり取りを続けていたのだ。
村山に言われた通り、何度か『すぐに返さないといけないと思うと疲れてしまうから頻度を減らしたい』と直接訴えた事もあったのだが、そうすると『ボクのこと苦手だからですか』や『迷惑でしたよね……』と始まってしまうため、頻度も落とせない。
仕方なく、職場への復帰を言い訳に連絡を減らそうと思っていた矢先、退院後に会いたいと美月から申し出があった。
夏波が入院しているのは自分のせいだと悔やみ続ける彼の様子を見兼ねていたのもあり、『そんな事はない』と言う事を示すためにも、その誘いには乗ることにしたのだ。
このまま夏波が関係をフェードアウトさせることで、ミツキが人付き合いに対して臆病になってほしくはなかった。
だが、夏波の思いは虚しく、心労は募るばかりである。
「あのー……」
ふと聞き覚えのない声が聞こえ、夏波は思わず顔を上げた。正面に座っている美月の横に、高校生と思わしき男女が2人、やや申し訳無さそうにしながら立っていた。
夏波はそれを確認すると、慌てて顔を伏せ、ボードゲームを睨みつける。
――まただ
「違ってたら申し訳ないんですけど、美月幸平さん、ですよね?」
「えーと……あはは、バレちゃったな」
少年の問いかけに、美月はさして気にしていない様子で応答した。ちらりと窺い見れば、マスクをつけていても分かる爽やかな笑顔を見せ、青年は人差し指を顔の前に立てている。
「ごめんね、今プライベートだから。僕がここにいるって言うのは内緒にしてほしいな」
「あ、はい!でもあの、……写真とか、一緒に撮ったりとかって……」
「うん、SNSに上げないならいいよ」
こじんまりとした店内に、少女の黄色い悲鳴が小さく上がる。
携帯端末に向かってポーズを取る3人を横目に、夏波は顔を伏せたまま内心でため息を漏らした。
「あの……その方はお友達ですか?」
「うん、そうだよ」
「この前の動画でお話してた、記憶が読める人……だったり?」
「んー、ごめんだけど、この人は一般の人だから、詮索しないでもらえると嬉しいな」
楽しげに話すミツキに対して、夏波は内心で「やめてくれ」と悲鳴を上げる。
自分に降り注ぐ視線をひしひしと感じ、夏波はますます身体を縮こまらせ、帽子を目深に被った。
幸いな事に、夏波は見た目から性別の判断がつきにくい容姿と背格好をしているためか、これまで敵意らしい敵意を向けられたことはない。
だが、今日1日ずっとこんな調子なのだ。このボードゲームカフェも、夏波の知る限りかなり小さい場所を選んだつもりだったが、それでも声をかけてくる人間は絶えなかった。
美月も美月で来る者を拒まない質らしく、サインや写真を受け入れるどころか、夏波の存在を隠そうともしない。
ここまで潔いといっそ好ましいが、当事者である夏波にとってはたまったものではないのだ。
「すみません、中断させてしまって。駒動かしましたか?」
「い、いえ、動かす所を見てた方がいいかなと思って、まだ」
そう言いつつ、夏波は手に取った駒を一歩前進させる。
ミツキはそれを確認すると、やはり思考時間を割かず、あっさりと夏波の進めた駒に自分の駒をぶつけて盤面から取り去った。
「ありゃ、失敗したかな」
夏波から奪った駒を眺め、ミツキは笑う。
夏波もつられて笑顔を作ったが、上手く笑えているかまでは分からなかった。
「何だか……前にお会いした時よりも頻繁に声をかけられますね」
次はどの駒を動かそうか考えながら、夏波はちらりと美月を見やる。
美月はテーブルの端に寄せていたゲームのルールブックを手元に引き寄せつつ、「確かに」と頷いた。
「最近映画の番宣でよくテレビに出てるのと、動画チャンネルもちょっとずつ伸びてるからかな?」
彼は至極嬉しそうだった。
確かに喜ばしい事には変わりない。
しかし夏波としては、『これ、僕また殴られるんじゃないの』という恐怖心で一杯だ。
前回の拉致については、美月本人に全く非はない。確かに悪くはないのだが、それでも彼が有名人であるからこそ起こってしまった事件でもある。隣を歩いているだけで、また逆恨みされるのでは、と思ってしまうのも致し方ないだろう。
――遠慮すれば良かったかな……
ここまで心が休まらないとは思わなかった。それに、美月側も多少身バレしないように配慮してくれるだろうという勝手な期待もあった。
いや、配慮はあるのだ。ただ彼のイメージ的に、気付いてしまったファンを蔑ろにもできないだけであって。
「すみません……やっぱり、迷惑……でしたか」
黙りこくって駒を睨んでいた夏波に、ミツキはしょんぼりと肩と眉を落とした。
夏波は慌てて
「全然そんなことないですよ!僕、美月さんと遊べて嬉しいので!」
と返し、一番端の駒を前進させる。
――言えないよ
自分に会いたいと言ってくれて、ここまで好意を向けてくれる人間を、夏波とて邪険には出来ないのだ。
むしろ、夏波の心の中は申し訳無さで一杯だった。
自分が心から美月との時間を楽しめていたのなら良かったのに。そう思えていない自分が悪い。
「ボクも、嬉しいです」
目を細め、柔らかな視線を夏波に送る美月。
それからも美月は夏波の半分以下の思考時間で駒を進め続け、数手番後に「あ」と声を上げた。
「負けちゃいました」
そう言う割に、あまり悔しそうではない。しかし少し不思議そうに、
「何でボクがここに動かすって分かったんですか?」
と盤面上を指差しながら、ミツキは首を捻った。夏波は示された先を覗き込んで、ああ、と零す。
「美月さん、あんまりブラフをかけるタイプじゃないですよね?」
「確かに、言われてみればやってませんね」
「普段ボードゲーム一緒にやる奴がブラフかけまくる嫌なタイプなので慣れてるってのもありますが……、そういうのが無い人はこっちに動かすかなって思いました」
対戦型で、心理戦要素のあるボードゲームでは、ある程度相手の癖を読み解くと勝ちやすくなる。上級者になればなるほど、癖があると相手に誤認させる、なんて手法を使ってくるので、油断ならないのだが、ミツキの戦略はかなり素直なものだった。
ちなみに、普段ボードゲームを一緒にやるブラフかけまくる嫌な奴、というのは何を隠そう三科の事であり、彼は夏波をあの手この手で騙くらかしては煽り散らかす質 の悪いプレイヤーである。
「凄いですね。……悔しいのでもう一戦やりません?」
ニコリ、と笑顔を見せる美月。
先程はそこまで悔しくなさそうに見えたが、夏波に完全に読まれていたと分かって燃えたのだろう。
人に内心を読み当てられるとあまり良い気分にならないのは、夏波にもよく分かる。
再戦に応じて何度か遊ぶ内に、夏波も徐々に負け始め、最終的な戦績は夏波6割、美月4割と言った所だった。
*
「面白いですね、ボードゲーム」
ボードゲームカフェを出た後、美月は朗らかに夏波と視線を合わせ、言った。
夏波もそれには同意して、足並みを揃えてアーケード街を歩く。
「また沢山教えてくださいね」
「はい。僕なんかで良ければ」
他愛の無い会話で花を咲かせながら仙台の街を行く。
やがて、自宅に程近い分岐路まで辿り着くと、夏波は振り返った。
「お見送りさせてしまってすみません。仙台駅はこの道を少し戻って右手に曲がればすぐ見えると思うので……」
「ありがとうございます。というかむしろ、家の前まで送りたいくらいですけど……」
「あ、もう本当に1分ないくらいなので、大丈夫ですよ」
夏波の言葉に、美月は食い下がる事まではしなかった。
代わりに、小さな灰色のボディバッグからチケットを取り出すと、「どうぞ」と手渡してくる。
「これは……?」
「今度、宮城でイベントをやるんです。前みたいなテレビの企画じゃなくて、ファンの皆と交流できる形の……ライブみたいな感じですかね?」
そう語るミツキの差し出したチケットを受け取り、夏波は軽く目を通す。
日付はクリスマス付近だ。当然予定などある訳もないので、断る理由が咄嗟に思いつかない。
「来ていただけませんか……?」
若干目を潤ませて――いる気がするだけかもしれないが――美月は夏波の瞳を見据える。
「貰っちゃっていいんですか?こういうの、ちゃんとお金払わなきゃいけないんじゃ……」
「気にしないでください。身内用に何枚かもらってるうちの1枚です」
「それなら、尚更僕がもらうのは申し訳ないような……」
「ボク、夏波さんに来てほしいんです。それにこれは、お詫びも兼ねてるので」
ずい、と顔を近付けられて、夏波はチケットを胸に抱える形で肩を竦める。
今日の午前中に会ってから、ミツキはずっとこんな調子だ。何かにつけてお詫びと称されては、受け入れないわけにもいかない。
実際深く後悔しているのか、顔を合わせてからは一度も“神隠し”や、“能力”の話は殆ど触れてこなかった。
もしかすると、志賀や宮藤から“神隠し”の真相について明かされ、佐久間ありさの事も聞き及んでいるのかもしれない。
少し拍子抜けした節はあったものの、夏波としても能力をひけらかしたい訳ではない。なので、夏波側から拉致事件に触れるような事も無かった。
「そこまで言うなら……ありがとうございます」
頭を下げて貰い受ける。美月は満足そうに頷くと、
「それじゃ、今日は本当にありがとうございました。また連絡しますね」
と挨拶をしてから手を振った。そうして踵を返した後も、何度か名残惜しそうに振り返り、やがて美月は人混みへと消えていく。
取り残された夏波は、そんな青年の後ろ姿が見えなくなるまで手を振って、そしてゆっくりと手を下ろした。
日は少しずつ傾いている。後もう数分もすれば夜闇に包まれる時間帯になるだろう。
帰らなければならない。それは分かっている。けれど、昨日の出来事を思い返して足が竦んだ。
――怖い
流石にまたあの男が家の中にいる、なんてことは無いだろう。しかし、昨日の体験は夏波にとって余りにも恐ろしい非日常だったのだ。
美月と別れた瞬間から、得も言われぬ恐怖と焦燥感に包まれている。心臓が潰れそうな程高鳴って、喉を通る空気も細い。ゆっくり意識して吸い込まなければ、途端に過呼吸になってしまいそうだった。
――誰か
誰か、助けてほしい。
けれど、一体誰に助けを求めれば良いのだろうか。
助けを求める事ですら怖いのだ。
もしも、迷惑をかけたら。もしも、嫌われたら。もしも――裏切られていたら。
そう思うと、誰にも連絡が取れなかった。
しかし、このまま立てなくなりでもしたら、自分はもう誰にも必要とされないのでは、という思考回路が夏波の心を追い込んでいく。
過去と現在の恐怖がないまぜになって、どうにかなりそうだった。
夏波は被っていたキャスケット帽を深く被り直し、自宅への道を辿る。
――嫌な事は、寝て忘れるんだ
かつての相棒の口癖を何度も唱え、夏波は一人帰路を急いだのだった。
1つは相手に傷が無ければいけない事。そして2つ目が、夏波自身が素手でそれに触れなければならない事だ。
3年前の出来事を知る手っ取り早い方法は、志賀か宮藤の記憶を読み取る事だろう。しかし、意外と人間とは丈夫なもので、そう都合良く丁度いい怪我をするものではない。
特に特殊対策室の2人は常に手袋を装着しているので、夏波の触れやすい部分に傷を負うこともないのだ。
更に言えば、夏波の能力を知っている2人――特に志賀は、夏波が手袋を外す事そのものを嫌がる。能力の内容がバレている以上、彼らに対しての能力行使は、力づくでも無い限り難易度が高そうだ。
一先ずは資料を漁るなりなんなりして、志賀と宮藤が3年前に何をしていたのかを探った方がいいのだろう。
また、『保護』の内容については直接訊こうと決めていた。何もかもをこそこそと調べる必要はない。
ミヤギの話した内容は確かに気になるが、これまで接してきた志賀と宮藤が夏波を騙そうとしているとは、やはり思えなかったのだ。
今後も能力者の対処に当たる上で必要な情報だ、と言えば、きっと答えてくれるだろう。これは、あの2人に対する信頼でもある。
――これで答えてくれなかった時が嫌だけど
「夏波さん?」
不意に名前を呼ばれ、夏波は元気良く返事をしながら背筋を伸ばした。
目の前で不思議そうに夏波を覗き込んでいた青年が、驚いた様子で仰け反って、それからくすくすと笑い出す。
「あ……す、すみません、ぼーっとしちゃって……」
夏波が謝ると、美月幸平は笑いながら「いえ」と首を振った。
「体調悪いのかなって心配だったので、良かったです」
気恥ずかしさに縮こまり、キャスケット帽の
「次、夏波さんの手番ですよ」
と茶色い手袋のはまった片手を軽く差し出した。
広いテーブルに乗った青い盤面と、16個の白い駒。対戦型のボードゲームを挟んだ向こう側で、黒いマスクをつけた美月幸平はにこにこと楽しそうにしている。
夏波はしばらく盤上を見つめると、手前側に設置されていた駒を1つ前に出した。
「何かありましたか?」
「あ、いえ、何もないですよ!」
本当に?と心配げな表情を浮かべ、美月は殆どノータイムで駒を前進させる。
「それなら良いんですけど……具合悪いとかなら直ぐに言ってくださいね」
「ありがとうございます。でも、体調は本当に問題ないんです」
微笑んで見せつつ、夏波はどの駒を動かすべきか思案した。
美月幸平からの連絡は、夏波の拉致後も途絶えることは無かった。頻繁に飛んでくるメッセージに目を白黒させながら、何とか彼の連絡速度に合わせてやり取りを続けていたのだ。
村山に言われた通り、何度か『すぐに返さないといけないと思うと疲れてしまうから頻度を減らしたい』と直接訴えた事もあったのだが、そうすると『ボクのこと苦手だからですか』や『迷惑でしたよね……』と始まってしまうため、頻度も落とせない。
仕方なく、職場への復帰を言い訳に連絡を減らそうと思っていた矢先、退院後に会いたいと美月から申し出があった。
夏波が入院しているのは自分のせいだと悔やみ続ける彼の様子を見兼ねていたのもあり、『そんな事はない』と言う事を示すためにも、その誘いには乗ることにしたのだ。
このまま夏波が関係をフェードアウトさせることで、ミツキが人付き合いに対して臆病になってほしくはなかった。
だが、夏波の思いは虚しく、心労は募るばかりである。
「あのー……」
ふと聞き覚えのない声が聞こえ、夏波は思わず顔を上げた。正面に座っている美月の横に、高校生と思わしき男女が2人、やや申し訳無さそうにしながら立っていた。
夏波はそれを確認すると、慌てて顔を伏せ、ボードゲームを睨みつける。
――まただ
「違ってたら申し訳ないんですけど、美月幸平さん、ですよね?」
「えーと……あはは、バレちゃったな」
少年の問いかけに、美月はさして気にしていない様子で応答した。ちらりと窺い見れば、マスクをつけていても分かる爽やかな笑顔を見せ、青年は人差し指を顔の前に立てている。
「ごめんね、今プライベートだから。僕がここにいるって言うのは内緒にしてほしいな」
「あ、はい!でもあの、……写真とか、一緒に撮ったりとかって……」
「うん、SNSに上げないならいいよ」
こじんまりとした店内に、少女の黄色い悲鳴が小さく上がる。
携帯端末に向かってポーズを取る3人を横目に、夏波は顔を伏せたまま内心でため息を漏らした。
「あの……その方はお友達ですか?」
「うん、そうだよ」
「この前の動画でお話してた、記憶が読める人……だったり?」
「んー、ごめんだけど、この人は一般の人だから、詮索しないでもらえると嬉しいな」
楽しげに話すミツキに対して、夏波は内心で「やめてくれ」と悲鳴を上げる。
自分に降り注ぐ視線をひしひしと感じ、夏波はますます身体を縮こまらせ、帽子を目深に被った。
幸いな事に、夏波は見た目から性別の判断がつきにくい容姿と背格好をしているためか、これまで敵意らしい敵意を向けられたことはない。
だが、今日1日ずっとこんな調子なのだ。このボードゲームカフェも、夏波の知る限りかなり小さい場所を選んだつもりだったが、それでも声をかけてくる人間は絶えなかった。
美月も美月で来る者を拒まない質らしく、サインや写真を受け入れるどころか、夏波の存在を隠そうともしない。
ここまで潔いといっそ好ましいが、当事者である夏波にとってはたまったものではないのだ。
「すみません、中断させてしまって。駒動かしましたか?」
「い、いえ、動かす所を見てた方がいいかなと思って、まだ」
そう言いつつ、夏波は手に取った駒を一歩前進させる。
ミツキはそれを確認すると、やはり思考時間を割かず、あっさりと夏波の進めた駒に自分の駒をぶつけて盤面から取り去った。
「ありゃ、失敗したかな」
夏波から奪った駒を眺め、ミツキは笑う。
夏波もつられて笑顔を作ったが、上手く笑えているかまでは分からなかった。
「何だか……前にお会いした時よりも頻繁に声をかけられますね」
次はどの駒を動かそうか考えながら、夏波はちらりと美月を見やる。
美月はテーブルの端に寄せていたゲームのルールブックを手元に引き寄せつつ、「確かに」と頷いた。
「最近映画の番宣でよくテレビに出てるのと、動画チャンネルもちょっとずつ伸びてるからかな?」
彼は至極嬉しそうだった。
確かに喜ばしい事には変わりない。
しかし夏波としては、『これ、僕また殴られるんじゃないの』という恐怖心で一杯だ。
前回の拉致については、美月本人に全く非はない。確かに悪くはないのだが、それでも彼が有名人であるからこそ起こってしまった事件でもある。隣を歩いているだけで、また逆恨みされるのでは、と思ってしまうのも致し方ないだろう。
――遠慮すれば良かったかな……
ここまで心が休まらないとは思わなかった。それに、美月側も多少身バレしないように配慮してくれるだろうという勝手な期待もあった。
いや、配慮はあるのだ。ただ彼のイメージ的に、気付いてしまったファンを蔑ろにもできないだけであって。
「すみません……やっぱり、迷惑……でしたか」
黙りこくって駒を睨んでいた夏波に、ミツキはしょんぼりと肩と眉を落とした。
夏波は慌てて
「全然そんなことないですよ!僕、美月さんと遊べて嬉しいので!」
と返し、一番端の駒を前進させる。
――言えないよ
自分に会いたいと言ってくれて、ここまで好意を向けてくれる人間を、夏波とて邪険には出来ないのだ。
むしろ、夏波の心の中は申し訳無さで一杯だった。
自分が心から美月との時間を楽しめていたのなら良かったのに。そう思えていない自分が悪い。
「ボクも、嬉しいです」
目を細め、柔らかな視線を夏波に送る美月。
それからも美月は夏波の半分以下の思考時間で駒を進め続け、数手番後に「あ」と声を上げた。
「負けちゃいました」
そう言う割に、あまり悔しそうではない。しかし少し不思議そうに、
「何でボクがここに動かすって分かったんですか?」
と盤面上を指差しながら、ミツキは首を捻った。夏波は示された先を覗き込んで、ああ、と零す。
「美月さん、あんまりブラフをかけるタイプじゃないですよね?」
「確かに、言われてみればやってませんね」
「普段ボードゲーム一緒にやる奴がブラフかけまくる嫌なタイプなので慣れてるってのもありますが……、そういうのが無い人はこっちに動かすかなって思いました」
対戦型で、心理戦要素のあるボードゲームでは、ある程度相手の癖を読み解くと勝ちやすくなる。上級者になればなるほど、癖があると相手に誤認させる、なんて手法を使ってくるので、油断ならないのだが、ミツキの戦略はかなり素直なものだった。
ちなみに、普段ボードゲームを一緒にやるブラフかけまくる嫌な奴、というのは何を隠そう三科の事であり、彼は夏波をあの手この手で騙くらかしては煽り散らかす
「凄いですね。……悔しいのでもう一戦やりません?」
ニコリ、と笑顔を見せる美月。
先程はそこまで悔しくなさそうに見えたが、夏波に完全に読まれていたと分かって燃えたのだろう。
人に内心を読み当てられるとあまり良い気分にならないのは、夏波にもよく分かる。
再戦に応じて何度か遊ぶ内に、夏波も徐々に負け始め、最終的な戦績は夏波6割、美月4割と言った所だった。
*
「面白いですね、ボードゲーム」
ボードゲームカフェを出た後、美月は朗らかに夏波と視線を合わせ、言った。
夏波もそれには同意して、足並みを揃えてアーケード街を歩く。
「また沢山教えてくださいね」
「はい。僕なんかで良ければ」
他愛の無い会話で花を咲かせながら仙台の街を行く。
やがて、自宅に程近い分岐路まで辿り着くと、夏波は振り返った。
「お見送りさせてしまってすみません。仙台駅はこの道を少し戻って右手に曲がればすぐ見えると思うので……」
「ありがとうございます。というかむしろ、家の前まで送りたいくらいですけど……」
「あ、もう本当に1分ないくらいなので、大丈夫ですよ」
夏波の言葉に、美月は食い下がる事まではしなかった。
代わりに、小さな灰色のボディバッグからチケットを取り出すと、「どうぞ」と手渡してくる。
「これは……?」
「今度、宮城でイベントをやるんです。前みたいなテレビの企画じゃなくて、ファンの皆と交流できる形の……ライブみたいな感じですかね?」
そう語るミツキの差し出したチケットを受け取り、夏波は軽く目を通す。
日付はクリスマス付近だ。当然予定などある訳もないので、断る理由が咄嗟に思いつかない。
「来ていただけませんか……?」
若干目を潤ませて――いる気がするだけかもしれないが――美月は夏波の瞳を見据える。
「貰っちゃっていいんですか?こういうの、ちゃんとお金払わなきゃいけないんじゃ……」
「気にしないでください。身内用に何枚かもらってるうちの1枚です」
「それなら、尚更僕がもらうのは申し訳ないような……」
「ボク、夏波さんに来てほしいんです。それにこれは、お詫びも兼ねてるので」
ずい、と顔を近付けられて、夏波はチケットを胸に抱える形で肩を竦める。
今日の午前中に会ってから、ミツキはずっとこんな調子だ。何かにつけてお詫びと称されては、受け入れないわけにもいかない。
実際深く後悔しているのか、顔を合わせてからは一度も“神隠し”や、“能力”の話は殆ど触れてこなかった。
もしかすると、志賀や宮藤から“神隠し”の真相について明かされ、佐久間ありさの事も聞き及んでいるのかもしれない。
少し拍子抜けした節はあったものの、夏波としても能力をひけらかしたい訳ではない。なので、夏波側から拉致事件に触れるような事も無かった。
「そこまで言うなら……ありがとうございます」
頭を下げて貰い受ける。美月は満足そうに頷くと、
「それじゃ、今日は本当にありがとうございました。また連絡しますね」
と挨拶をしてから手を振った。そうして踵を返した後も、何度か名残惜しそうに振り返り、やがて美月は人混みへと消えていく。
取り残された夏波は、そんな青年の後ろ姿が見えなくなるまで手を振って、そしてゆっくりと手を下ろした。
日は少しずつ傾いている。後もう数分もすれば夜闇に包まれる時間帯になるだろう。
帰らなければならない。それは分かっている。けれど、昨日の出来事を思い返して足が竦んだ。
――怖い
流石にまたあの男が家の中にいる、なんてことは無いだろう。しかし、昨日の体験は夏波にとって余りにも恐ろしい非日常だったのだ。
美月と別れた瞬間から、得も言われぬ恐怖と焦燥感に包まれている。心臓が潰れそうな程高鳴って、喉を通る空気も細い。ゆっくり意識して吸い込まなければ、途端に過呼吸になってしまいそうだった。
――誰か
誰か、助けてほしい。
けれど、一体誰に助けを求めれば良いのだろうか。
助けを求める事ですら怖いのだ。
もしも、迷惑をかけたら。もしも、嫌われたら。もしも――裏切られていたら。
そう思うと、誰にも連絡が取れなかった。
しかし、このまま立てなくなりでもしたら、自分はもう誰にも必要とされないのでは、という思考回路が夏波の心を追い込んでいく。
過去と現在の恐怖がないまぜになって、どうにかなりそうだった。
夏波は被っていたキャスケット帽を深く被り直し、自宅への道を辿る。
――嫌な事は、寝て忘れるんだ
かつての相棒の口癖を何度も唱え、夏波は一人帰路を急いだのだった。