3-2 彼だけは
文字数 6,431文字
紙コップ式の自販機から、湯気の立つココアを取り出す。そうして長椅子に座る伊霧匠の元まで歩み寄ると
「ココアとコンポタ、どっちがいいかな」
とコップを持った両手を少しだけ掲げてみせた。
「えっと……じゃぁ、コンポタで」
「そしたら、こっちだね」
夏波は少し湯気のおさまった紙コップを手渡す。匠は若干首をすくめ、それを受け取った。
「すみません、話がしたいって言ったのオレの方なのに、気を使わせてしまって……」
「ううん、先に声かけたのは僕だし、……僕もお話したいと思っていたので」
そう言いつつ、夏波は少年の隣にゆっくりと腰を下ろした。
こうして伊霧匠と会うのは、彼が退院してからは初めてのことだ。
伊霧芽郁が亡くなった後、彼の見舞いには何度か訪れていたが、しっかりと会話は出来ていなかった。いつも見舞いの品を置いて、容態を訊いて、逃げるように立ち去ることしか出来ていなかったのだ。
それから間もなく拉致事件に遭い、退院したら彼の元に行こうと考えていた所に、ばったりと鉢合わせたわけだ。
「今日は、どうして病院に?」
「半月に1回来るように言われてて、……それで」
少年の様子は、元気とは言い難い。通院は恐らく内的な問題を含んでのものだろうと分かるほど、憔悴しているのが見て取れる。
自分の手にある紙コップに何度か息を吹きかけ、夏波はちびりとココアを舐めた。甘さより先に熱さが勝って、飲むのは一度諦める。
「夏波さんは、……入院してるんですか」
「うん、ちょっと怪我しちゃって」
剣や村山がこの場にいたら「何がちょっとか」と怒られそうだが、下手に重症だったと触れ回る意味もない。
「警察って大変なんですね、……本当に」
「うーん、まぁ、今回は警察だから怪我したわけじゃない、かも」
「そうなんですか?」
伊霧匠は、それからもぽつりぽつりと世間話の内容を模索しつつ、夏波に言葉を投げかけた。
初めて出会った時は口の悪い男の子だと思ったものだが、こうして関わってみるとなかなかどうして大人びているようにも思う。
いや、大人びているという表現も失礼か。夏波が中学生の時だって、年上にはきちんと敬語を使っていたし、何だかんだ今とそう変わらない程度に思考を回していたはずだ。
子どもだからと見くびられるのを、彼らは何よりも嫌う。十ウン年前まで中学生だった夏波にも、それはよく解っていた。
そうして、夏波が紙コップのココアを半分まで飲み進めた時。会話が途切れた沈黙の最中、伊霧匠は何かを決心したかのようにおもむろに切り出す。
「……あの、改めてお訊きしたいことがあるんです」
心臓が音を立てた。
覚悟はしていたはずなのだ。それでも、匠の目をどうしても見ることができず、夏波はゆらゆらと揺れるココアへ視線を落とす。
「姉ちゃんは……自殺だって聞きました。でも遺書とかもないし、どうしてそんな事をしたのかは分からないって。父さんと母さんの事も、よく分かんないんです。だってただの塩見せられて、あれが父さんと母さんだって、あの人……」
そこまで息もつかずに喋り終え、匠は一度言葉を詰まらせた。
静寂の中、夏波は必死に言葉を探す。
これはどう返すのが正しいのだろうか、と。
匠の言う『あの人』が志賀太陽であるとは、すぐに分かった。むしろ、志賀以外がその真実を伊霧匠に対して語る事はあり得ない。
そしてこれは、夏波が特殊対策室に入ってから判明した、志賀太陽という男が他部署に嫌われる最大の理由でもあった。
こうした異常事件の真実をありのまま遺族に伝えてしまうからこそ、彼は無為にトラブルを引き起こす厄介者として疎まれているのである。
それはそうだろう。ただの塩の塊を突きつけて『これがお前の家族だ』などと言われても、信じる者がいる訳がない。ふざけるなと激怒されて然るべきなのだ。たとて、それが真実であったとしても。
警察としても、“能力”による事件の被害者は、行方不明として扱うのが関の山のようだった。
宮藤のように“能力”そのものの存在に理解を示す上層部もいない訳ではないらしい。が、“能力”が一般的に認知されていない現状では、それを前提とした事件報告や後処理はできないのだという。
しかしそれでも、志賀は頑として書類上に『行方不明』とは書かず、遺族にそう伝えることもしなかった。
交番で亡くなっていた警官の家族に罵られようと、空き家の管理者に怪訝な顔をされようと、決してその部分だけは曲げようとしないのだ。
遺族に対して必ず一度は“能力”の説明さえ試みる彼の在り方は、最初は至極不可思議に見えた。
だが、いざこうして直接問われると難しい話だったのだと実感する。
『行方不明』が嘘であることを、はっきりと知っているからだ。
彼らが帰ってくる事は決して無いと、夏波は知っている。
その事実を知らせず、彼らが生きている可能性を信じさせる事は果たして正しいのだろうか。
「信じられないし、信じたくないけど、……でもあの人が嘘をついてるとは思えなくて。それさえ信じられないのに、姉ちゃんがやったとか、訳わかんないし、……事故だとは言ってたけど、……でも姉ちゃんは、死んじゃって……」
絞り出すように、そして必死に声が震えないように、伊霧匠は言葉を紡いだ。
「本当、なんですか」
夏波は奥歯を噛み締め、項垂れる。
きっと、『行方不明』だと伝えた方が楽なのだ。
塩の塊を死体として扱う事ができない警察としても、そんな形で亡くなったなんて信じられないだろう伊霧匠としても、今こうして話を聞いている夏波としても。
日本では、生死不明の状態が七年続いた人間に対しては、失踪宣告により戸籍上の死亡認定ができるようになる。それを届け出るかは彼の選択によるものが大きいはずであり、両親は帰ってこないと諦めるか、それとも待ち続けるかを七年後以降彼自身が決めることだってできる。
真実を知らせない方が楽なのだ。誰にとっても。
「その話は」
意を決して、夏波は口を開く。
「本当なんだ。……志賀さんは、嘘をついてる訳じゃない」
顔を持ち上げて伊霧匠を見た。
こちらを見つめていた彼の顔に、驚きの色は浮かんでいない。どこか腑に落ちた様子で
「……やっぱり、そうなんですね」
と、安堵した様子で言う。
夏波はもう一度、しっかりと頷いた。
嘘をついた方が楽だ、とも思う。本当の事を告げたら、精神状態が安定していないだろう彼を追い詰める形になるかもしれない、とも。
それでも、志賀が告げた真実を否定する事はできなかったし、したくもなかった。
少年は夏波から視線を外して手元のコップを見つめると、またぽつぽつと言葉を落とした。
「あの人以外の警察は、父さんと母さんは『行方不明』だって言うんです。でも、オレどうしてもそう思えなくて、……嘘ついてないように見えるの、……志賀さんだけで。……何がホントか分かんなくて、苦しくて」
ぼと、と病院の灰色の床に水が落ちた。うつむく伊霧匠の顔から、また数滴溢れ落ちる。
――きっと、絶対的な正解なんてないけれど
何が正しいのかなんて分からないけれど。それでも、夏波も志賀も選んだのだ。彼に真実を告げる事を。
そして伊霧匠も、そんな現実味のない言葉を必死に受け入れようとしている。
痛みが無いわけがない。曖昧に誤魔化していたほうが苦しくなかったかもしれない。
受け入れきれずに、彼が壊れてしまう心配だってある。
夏波はそっと少年の背中に手を乗せた。うずくまるように下を向く彼の背をゆっくりと何度も撫でる。
『これは、私の選択です』
あの日の伊霧芽郁の言葉を、必死に胸から追い払った。
真実を知った伊霧匠が、“死”を選ぶ事だけはないように。
それが、起こってしまった残酷な事実を伝えた者としての責務なのだ。
――せめて、彼だけは
彼だけは。その先の願いをどう紡ぐべきなのか、夏波は分からなかった。
苦しまないで欲しいのだろうか。幸せになって欲しいのだろうか。それとも、――
思考を巡らせながら、夏波は手袋のはまったその手で彼の背中を撫で続けた。撫で続けることしか、出来なかった。
*
「すみません、長い時間付き合わせてしまって」
病院の閉館時間が三十分後に迫る頃合いには、伊霧匠は落ち着いていた。
「色々教えていただいてありがとうございました」
「ううん、こちらこそ。信じられないような話ばっかりしちゃって、……でもちゃんと聞いてくれてありがとう」
少年はまっすぐと夏波の顔を見据え、薄く苦笑する。
伊霧匠は、既に志賀から“能力”や伊霧芽郁の死の間際の話を説明されているようだった。
それでも夏波の能力についてと彼女の最期の言葉までは伝えきれていなかったようで、夏波はできるだけ慎重に言葉を選びつつ、彼に事の次第を話す事にしたのだ。
匠は肯定も否定もせず、ただじっと夏波の言葉に耳を傾け、そしてやはりどこか腑に落ちた様に飲み込んだ。
夏波を見つめる目は少し赤くなっていたものの、最初に見た時ほどの戸惑いはないように思える。というのは、夏波がそう思いたいから、そう見えるだけなのだろうか。
「姉ちゃんの事に関しては、オレも調べてみます。だから、何か分かったら連絡ください」
「うん。……分かった。約束する。
匠くんも、もし何か吐き出したいことあったら呼んでね。僕で良ければ何でも聞くから」
夏波が頷けば、匠も呼応するように頷いた。
リュックサックを背負い直し、少年は病院の自動ドアを潜ろうと足を向ける。
手を振って見送る夏波だったが、ふと振り向いた匠と視線がぶつかった。
「あの」
伊霧匠はその双眸に夏波を写す。
「姉ちゃんを助けようとしてくれて、ありがとうございました」
思いもよらない言葉。
夏波は呆然と少年を見つめ、立ち尽くす事しかできなかった。
そんな夏波に、伊霧匠はもう一度近寄る。
「夏波さん、記憶が読めるんですよね」
「う……うん、多分」
「なら、……俺の記憶、読んでくれませんか」
そう言って、匠は自分の服の袖をまくりあげる。肘部分まで袖を上げると、どうやら擦りむいたらしい傷が存在した。かさぶたになってふさがってはいるが、傷には変わりない。
「元気だった頃の姉ちゃんの事、少しでも誰かに覚えてて欲しいんです。……本当なら、死にたいなんて言う人じゃないから、それを見てほしいなって」
「……いいの?」
「はい。……お願いします」
腕を差し出す。
戸惑いがない訳では無い。しかしこの申し出を断るのも気が引けて、夏波は手袋を外し、彼の傷に手を伸ばした。
伊霧芽郁がどんな人物だったのか。その一端だけでも知りたくて、夏波は傷にそっと触れる。
*
「匠ー、散歩行こー!」
朗らかな声が耳に届いた。
ゲーム画面を見つめていた視界が動き、部屋の入口に立つ少女を捉える。
――伊霧芽郁
今はもう亡き、少女の姿。
視界の持ち主は、もう一度ゲーム画面に向き直った後
「行かねーよ。一人で行けよ」
と投げやりな声をあげた。
近付いてくる足音の後、身体が外部からの力で揺らされる。
「えー、いいの?折角父さんがアイス買うお金くれたのに。一緒に行かないなら、2つとももらっちゃうよ?」
それを聞くなり、身体の持ち主は大きく息を吐きだして、ゲームをスリープモードに切り替えた。
「わーったよ、いくよ」
「いこいこ!」
ゲーム機をその場に適当において、立ち上がる。そして嬉しそうに玄関へと歩く少女の後ろ姿を追った。
「姉ちゃん、歩くの好きだよな」
屈んで靴を履きながら、玄関の扉を開け放つ彼女に声を投げる。
「何で?めんどくね?」
「んー?」
日常の、何気ない問いかけ。
振り返って、伊霧芽郁は首を傾げる。そして僅かに考えると、ニコリと笑顔を浮かべた。
「自分の足で前に進む感覚って、面白くない?」
*
「……夏波さん?」
立ち眩みの様な感覚。目の前には自分を心配する面持ちの少年がいる。
見えたものは、あまりにもありふれた日常だった。彼らは遣る瀬無いほどに普通の人間であり、平和を享受していたはずの人々だった。
――それがどうして
不意に目頭が熱くなり、夏波は慌てて伊霧匠の腕から手を離す。
「あ、ありがとう。ちゃんと、見えたよ」
「そう、ですか……?」
不思議そうに袖を戻す匠に気付かれないよう、必死に顔に力を入れて涙を押し止める。
「それじゃぁ、……俺、帰ります。お大事にしてください」
「うん、――ありがとう」
ぺこりと頭を下げ、匠は直ぐに歩き出した。
道を曲がって見えなくなってしまった彼の行く先を呆然と見つめ、夏波はしばし立ち尽くす。
ゆっくりと、踵を返した。ぱた、ぱた。床をスリッパの叩く音。それが少しずつ早くなって、夏波は早鐘を打つ心臓の鼓動と同じ速度で歩く。
胸のうちから込み上がる涙が抑えきれず、いつの間にか息を止めていた。
許されるのなら走り出してしまいたい。しかしそうしてしまうと声まで出てしまいそうで、夏波は必死に唇を噛み締めて歩き、そして自分に割り当てられた病室に飛び込む。
布団に潜り込む間もなく、枕に顔を埋め、やっと堪らえていた嗚咽を吐き出した。
――救いたかった
それは、あの日からずっと夏波に付き纏い続けていた罪の意識。
何度も夢を見た。何もしていない時は考えてしまった。
あの時助ける事ができていたら、彼らは先程見た記憶と同じ日常を送れていたのではないだろうか。
心に住み続ける不気味で生温いわだかまりが、ずっと夏波を責め立て続けていた。
――でも
『姉ちゃんを救おうとしてくれて、ありがとうございました』
伊霧匠の言葉が何度も心に反響する。
礼を言われる立場ではないはずなのに、それでも、安堵せざるを得なかったのだ。
これまでずっと伊霧匠に恨まれて然るべきだと思っていたから。
お前が助けてさえいれば。お前が手を離さなければ、伊霧芽郁は死ななかったのに。そう責め立てられるとばかり思い込んでいた。彼にはそれを言う権利があって、夏波はそれを受けねばならない義務があると、そう思っていたのだ。
手を伸ばさなければ、こんな思いをしなかったのだろうかと考えてしまった事もある。けれどそれだけは間違っていたのだと、今ならば言える。
――止まったら駄目だ
人は亡くなったら、もう二度と会えなくなる。話すこともできなくなる。
残るものは記憶だけだ。
なのに、亡くなった人の最期の想いすら知らぬままその人を記憶に刻むのは、きっと酷く苦しい事なのだと夏波は思う。
伊霧匠は真実を受け入れようとしている。
伊霧芽郁の死の真相を知る事が彼の手助けになると分かった今、夏波の心はほどける様な感覚に包まれていた。
許された訳ではない。それでもまだ、できる事があるはずなのだ。
枕で声を殺しながら、夏波は一人、胸のわだかまりを零し続けた。
*
翌朝。起きると瞼が酷く腫れぼったかった。
身体を起こせば、カーテンの隙間から差し込む朝日に丁度顔が晒される。
手で遮ろうとしたところで、自分に掛け布団がきちんとかけられていることに気がついた。泣いているうちに眠りこけてしまったのだろう。巡回の看護師さんがかけてくれたのだろうか。
お風呂に入っていないうちに寝ちゃったな、なんて脳天気に思考回路が回り始め、夏波は顔を洗うためにずるずるとベッドから抜け降りた。
ふと、ベッド脇の棚に目が行く。小型テレビの前に緑の表紙をした文庫本が置かれていた。
そうだ、そういえば昨日売店で文庫本を買ったのだ。しかし思い返してみると、伊霧匠と会話した後、文庫本を手に持って戻ってきた記憶がない。
――これも、看護師さんかな
だとすれば手間をかけさせてしまった。朝食を摂り行く時にお礼を言いに行こう。
そうして準備を整え、ナースステーションに赴いたが、夏波の元に小説を届けた看護師は終ぞ見つけることができなかった。
「ココアとコンポタ、どっちがいいかな」
とコップを持った両手を少しだけ掲げてみせた。
「えっと……じゃぁ、コンポタで」
「そしたら、こっちだね」
夏波は少し湯気のおさまった紙コップを手渡す。匠は若干首をすくめ、それを受け取った。
「すみません、話がしたいって言ったのオレの方なのに、気を使わせてしまって……」
「ううん、先に声かけたのは僕だし、……僕もお話したいと思っていたので」
そう言いつつ、夏波は少年の隣にゆっくりと腰を下ろした。
こうして伊霧匠と会うのは、彼が退院してからは初めてのことだ。
伊霧芽郁が亡くなった後、彼の見舞いには何度か訪れていたが、しっかりと会話は出来ていなかった。いつも見舞いの品を置いて、容態を訊いて、逃げるように立ち去ることしか出来ていなかったのだ。
それから間もなく拉致事件に遭い、退院したら彼の元に行こうと考えていた所に、ばったりと鉢合わせたわけだ。
「今日は、どうして病院に?」
「半月に1回来るように言われてて、……それで」
少年の様子は、元気とは言い難い。通院は恐らく内的な問題を含んでのものだろうと分かるほど、憔悴しているのが見て取れる。
自分の手にある紙コップに何度か息を吹きかけ、夏波はちびりとココアを舐めた。甘さより先に熱さが勝って、飲むのは一度諦める。
「夏波さんは、……入院してるんですか」
「うん、ちょっと怪我しちゃって」
剣や村山がこの場にいたら「何がちょっとか」と怒られそうだが、下手に重症だったと触れ回る意味もない。
「警察って大変なんですね、……本当に」
「うーん、まぁ、今回は警察だから怪我したわけじゃない、かも」
「そうなんですか?」
伊霧匠は、それからもぽつりぽつりと世間話の内容を模索しつつ、夏波に言葉を投げかけた。
初めて出会った時は口の悪い男の子だと思ったものだが、こうして関わってみるとなかなかどうして大人びているようにも思う。
いや、大人びているという表現も失礼か。夏波が中学生の時だって、年上にはきちんと敬語を使っていたし、何だかんだ今とそう変わらない程度に思考を回していたはずだ。
子どもだからと見くびられるのを、彼らは何よりも嫌う。十ウン年前まで中学生だった夏波にも、それはよく解っていた。
そうして、夏波が紙コップのココアを半分まで飲み進めた時。会話が途切れた沈黙の最中、伊霧匠は何かを決心したかのようにおもむろに切り出す。
「……あの、改めてお訊きしたいことがあるんです」
心臓が音を立てた。
覚悟はしていたはずなのだ。それでも、匠の目をどうしても見ることができず、夏波はゆらゆらと揺れるココアへ視線を落とす。
「姉ちゃんは……自殺だって聞きました。でも遺書とかもないし、どうしてそんな事をしたのかは分からないって。父さんと母さんの事も、よく分かんないんです。だってただの塩見せられて、あれが父さんと母さんだって、あの人……」
そこまで息もつかずに喋り終え、匠は一度言葉を詰まらせた。
静寂の中、夏波は必死に言葉を探す。
これはどう返すのが正しいのだろうか、と。
匠の言う『あの人』が志賀太陽であるとは、すぐに分かった。むしろ、志賀以外がその真実を伊霧匠に対して語る事はあり得ない。
そしてこれは、夏波が特殊対策室に入ってから判明した、志賀太陽という男が他部署に嫌われる最大の理由でもあった。
こうした異常事件の真実をありのまま遺族に伝えてしまうからこそ、彼は無為にトラブルを引き起こす厄介者として疎まれているのである。
それはそうだろう。ただの塩の塊を突きつけて『これがお前の家族だ』などと言われても、信じる者がいる訳がない。ふざけるなと激怒されて然るべきなのだ。たとて、それが真実であったとしても。
警察としても、“能力”による事件の被害者は、行方不明として扱うのが関の山のようだった。
宮藤のように“能力”そのものの存在に理解を示す上層部もいない訳ではないらしい。が、“能力”が一般的に認知されていない現状では、それを前提とした事件報告や後処理はできないのだという。
しかしそれでも、志賀は頑として書類上に『行方不明』とは書かず、遺族にそう伝えることもしなかった。
交番で亡くなっていた警官の家族に罵られようと、空き家の管理者に怪訝な顔をされようと、決してその部分だけは曲げようとしないのだ。
遺族に対して必ず一度は“能力”の説明さえ試みる彼の在り方は、最初は至極不可思議に見えた。
だが、いざこうして直接問われると難しい話だったのだと実感する。
『行方不明』が嘘であることを、はっきりと知っているからだ。
彼らが帰ってくる事は決して無いと、夏波は知っている。
その事実を知らせず、彼らが生きている可能性を信じさせる事は果たして正しいのだろうか。
「信じられないし、信じたくないけど、……でもあの人が嘘をついてるとは思えなくて。それさえ信じられないのに、姉ちゃんがやったとか、訳わかんないし、……事故だとは言ってたけど、……でも姉ちゃんは、死んじゃって……」
絞り出すように、そして必死に声が震えないように、伊霧匠は言葉を紡いだ。
「本当、なんですか」
夏波は奥歯を噛み締め、項垂れる。
きっと、『行方不明』だと伝えた方が楽なのだ。
塩の塊を死体として扱う事ができない警察としても、そんな形で亡くなったなんて信じられないだろう伊霧匠としても、今こうして話を聞いている夏波としても。
日本では、生死不明の状態が七年続いた人間に対しては、失踪宣告により戸籍上の死亡認定ができるようになる。それを届け出るかは彼の選択によるものが大きいはずであり、両親は帰ってこないと諦めるか、それとも待ち続けるかを七年後以降彼自身が決めることだってできる。
真実を知らせない方が楽なのだ。誰にとっても。
「その話は」
意を決して、夏波は口を開く。
「本当なんだ。……志賀さんは、嘘をついてる訳じゃない」
顔を持ち上げて伊霧匠を見た。
こちらを見つめていた彼の顔に、驚きの色は浮かんでいない。どこか腑に落ちた様子で
「……やっぱり、そうなんですね」
と、安堵した様子で言う。
夏波はもう一度、しっかりと頷いた。
嘘をついた方が楽だ、とも思う。本当の事を告げたら、精神状態が安定していないだろう彼を追い詰める形になるかもしれない、とも。
それでも、志賀が告げた真実を否定する事はできなかったし、したくもなかった。
少年は夏波から視線を外して手元のコップを見つめると、またぽつぽつと言葉を落とした。
「あの人以外の警察は、父さんと母さんは『行方不明』だって言うんです。でも、オレどうしてもそう思えなくて、……嘘ついてないように見えるの、……志賀さんだけで。……何がホントか分かんなくて、苦しくて」
ぼと、と病院の灰色の床に水が落ちた。うつむく伊霧匠の顔から、また数滴溢れ落ちる。
――きっと、絶対的な正解なんてないけれど
何が正しいのかなんて分からないけれど。それでも、夏波も志賀も選んだのだ。彼に真実を告げる事を。
そして伊霧匠も、そんな現実味のない言葉を必死に受け入れようとしている。
痛みが無いわけがない。曖昧に誤魔化していたほうが苦しくなかったかもしれない。
受け入れきれずに、彼が壊れてしまう心配だってある。
夏波はそっと少年の背中に手を乗せた。うずくまるように下を向く彼の背をゆっくりと何度も撫でる。
『これは、私の選択です』
あの日の伊霧芽郁の言葉を、必死に胸から追い払った。
真実を知った伊霧匠が、“死”を選ぶ事だけはないように。
それが、起こってしまった残酷な事実を伝えた者としての責務なのだ。
――せめて、彼だけは
彼だけは。その先の願いをどう紡ぐべきなのか、夏波は分からなかった。
苦しまないで欲しいのだろうか。幸せになって欲しいのだろうか。それとも、――
思考を巡らせながら、夏波は手袋のはまったその手で彼の背中を撫で続けた。撫で続けることしか、出来なかった。
*
「すみません、長い時間付き合わせてしまって」
病院の閉館時間が三十分後に迫る頃合いには、伊霧匠は落ち着いていた。
「色々教えていただいてありがとうございました」
「ううん、こちらこそ。信じられないような話ばっかりしちゃって、……でもちゃんと聞いてくれてありがとう」
少年はまっすぐと夏波の顔を見据え、薄く苦笑する。
伊霧匠は、既に志賀から“能力”や伊霧芽郁の死の間際の話を説明されているようだった。
それでも夏波の能力についてと彼女の最期の言葉までは伝えきれていなかったようで、夏波はできるだけ慎重に言葉を選びつつ、彼に事の次第を話す事にしたのだ。
匠は肯定も否定もせず、ただじっと夏波の言葉に耳を傾け、そしてやはりどこか腑に落ちた様に飲み込んだ。
夏波を見つめる目は少し赤くなっていたものの、最初に見た時ほどの戸惑いはないように思える。というのは、夏波がそう思いたいから、そう見えるだけなのだろうか。
「姉ちゃんの事に関しては、オレも調べてみます。だから、何か分かったら連絡ください」
「うん。……分かった。約束する。
匠くんも、もし何か吐き出したいことあったら呼んでね。僕で良ければ何でも聞くから」
夏波が頷けば、匠も呼応するように頷いた。
リュックサックを背負い直し、少年は病院の自動ドアを潜ろうと足を向ける。
手を振って見送る夏波だったが、ふと振り向いた匠と視線がぶつかった。
「あの」
伊霧匠はその双眸に夏波を写す。
「姉ちゃんを助けようとしてくれて、ありがとうございました」
思いもよらない言葉。
夏波は呆然と少年を見つめ、立ち尽くす事しかできなかった。
そんな夏波に、伊霧匠はもう一度近寄る。
「夏波さん、記憶が読めるんですよね」
「う……うん、多分」
「なら、……俺の記憶、読んでくれませんか」
そう言って、匠は自分の服の袖をまくりあげる。肘部分まで袖を上げると、どうやら擦りむいたらしい傷が存在した。かさぶたになってふさがってはいるが、傷には変わりない。
「元気だった頃の姉ちゃんの事、少しでも誰かに覚えてて欲しいんです。……本当なら、死にたいなんて言う人じゃないから、それを見てほしいなって」
「……いいの?」
「はい。……お願いします」
腕を差し出す。
戸惑いがない訳では無い。しかしこの申し出を断るのも気が引けて、夏波は手袋を外し、彼の傷に手を伸ばした。
伊霧芽郁がどんな人物だったのか。その一端だけでも知りたくて、夏波は傷にそっと触れる。
*
「匠ー、散歩行こー!」
朗らかな声が耳に届いた。
ゲーム画面を見つめていた視界が動き、部屋の入口に立つ少女を捉える。
――伊霧芽郁
今はもう亡き、少女の姿。
視界の持ち主は、もう一度ゲーム画面に向き直った後
「行かねーよ。一人で行けよ」
と投げやりな声をあげた。
近付いてくる足音の後、身体が外部からの力で揺らされる。
「えー、いいの?折角父さんがアイス買うお金くれたのに。一緒に行かないなら、2つとももらっちゃうよ?」
それを聞くなり、身体の持ち主は大きく息を吐きだして、ゲームをスリープモードに切り替えた。
「わーったよ、いくよ」
「いこいこ!」
ゲーム機をその場に適当において、立ち上がる。そして嬉しそうに玄関へと歩く少女の後ろ姿を追った。
「姉ちゃん、歩くの好きだよな」
屈んで靴を履きながら、玄関の扉を開け放つ彼女に声を投げる。
「何で?めんどくね?」
「んー?」
日常の、何気ない問いかけ。
振り返って、伊霧芽郁は首を傾げる。そして僅かに考えると、ニコリと笑顔を浮かべた。
「自分の足で前に進む感覚って、面白くない?」
*
「……夏波さん?」
立ち眩みの様な感覚。目の前には自分を心配する面持ちの少年がいる。
見えたものは、あまりにもありふれた日常だった。彼らは遣る瀬無いほどに普通の人間であり、平和を享受していたはずの人々だった。
――それがどうして
不意に目頭が熱くなり、夏波は慌てて伊霧匠の腕から手を離す。
「あ、ありがとう。ちゃんと、見えたよ」
「そう、ですか……?」
不思議そうに袖を戻す匠に気付かれないよう、必死に顔に力を入れて涙を押し止める。
「それじゃぁ、……俺、帰ります。お大事にしてください」
「うん、――ありがとう」
ぺこりと頭を下げ、匠は直ぐに歩き出した。
道を曲がって見えなくなってしまった彼の行く先を呆然と見つめ、夏波はしばし立ち尽くす。
ゆっくりと、踵を返した。ぱた、ぱた。床をスリッパの叩く音。それが少しずつ早くなって、夏波は早鐘を打つ心臓の鼓動と同じ速度で歩く。
胸のうちから込み上がる涙が抑えきれず、いつの間にか息を止めていた。
許されるのなら走り出してしまいたい。しかしそうしてしまうと声まで出てしまいそうで、夏波は必死に唇を噛み締めて歩き、そして自分に割り当てられた病室に飛び込む。
布団に潜り込む間もなく、枕に顔を埋め、やっと堪らえていた嗚咽を吐き出した。
――救いたかった
それは、あの日からずっと夏波に付き纏い続けていた罪の意識。
何度も夢を見た。何もしていない時は考えてしまった。
あの時助ける事ができていたら、彼らは先程見た記憶と同じ日常を送れていたのではないだろうか。
心に住み続ける不気味で生温いわだかまりが、ずっと夏波を責め立て続けていた。
――でも
『姉ちゃんを救おうとしてくれて、ありがとうございました』
伊霧匠の言葉が何度も心に反響する。
礼を言われる立場ではないはずなのに、それでも、安堵せざるを得なかったのだ。
これまでずっと伊霧匠に恨まれて然るべきだと思っていたから。
お前が助けてさえいれば。お前が手を離さなければ、伊霧芽郁は死ななかったのに。そう責め立てられるとばかり思い込んでいた。彼にはそれを言う権利があって、夏波はそれを受けねばならない義務があると、そう思っていたのだ。
手を伸ばさなければ、こんな思いをしなかったのだろうかと考えてしまった事もある。けれどそれだけは間違っていたのだと、今ならば言える。
――止まったら駄目だ
人は亡くなったら、もう二度と会えなくなる。話すこともできなくなる。
残るものは記憶だけだ。
なのに、亡くなった人の最期の想いすら知らぬままその人を記憶に刻むのは、きっと酷く苦しい事なのだと夏波は思う。
伊霧匠は真実を受け入れようとしている。
伊霧芽郁の死の真相を知る事が彼の手助けになると分かった今、夏波の心はほどける様な感覚に包まれていた。
許された訳ではない。それでもまだ、できる事があるはずなのだ。
枕で声を殺しながら、夏波は一人、胸のわだかまりを零し続けた。
*
翌朝。起きると瞼が酷く腫れぼったかった。
身体を起こせば、カーテンの隙間から差し込む朝日に丁度顔が晒される。
手で遮ろうとしたところで、自分に掛け布団がきちんとかけられていることに気がついた。泣いているうちに眠りこけてしまったのだろう。巡回の看護師さんがかけてくれたのだろうか。
お風呂に入っていないうちに寝ちゃったな、なんて脳天気に思考回路が回り始め、夏波は顔を洗うためにずるずるとベッドから抜け降りた。
ふと、ベッド脇の棚に目が行く。小型テレビの前に緑の表紙をした文庫本が置かれていた。
そうだ、そういえば昨日売店で文庫本を買ったのだ。しかし思い返してみると、伊霧匠と会話した後、文庫本を手に持って戻ってきた記憶がない。
――これも、看護師さんかな
だとすれば手間をかけさせてしまった。朝食を摂り行く時にお礼を言いに行こう。
そうして準備を整え、ナースステーションに赴いたが、夏波の元に小説を届けた看護師は終ぞ見つけることができなかった。