5-1 未視感
文字数 5,532文字
「それでね、最近は全然避けられなくなったし、色々話も聞いてくれるんだよ。仕事のやり方もちょくちょく教えてもらってて、前より大分――」
「よーし!もうその話は止め!」
いい加減耐えきれないといった様子で、三科が箸をおいて顔を上げる。
それまでにこにこと話をしていた夏波は、突如豆鉄砲を受けた鳩と化した。
「どして?」
「どうしてって……」
三科は思い切り顔を顰め、片言で答える。
「オレ、ソイツ、キライ」
思わず吹き出しかけ、夏波は慌てて自分の口を手で塞いだ。耐えた拍子に気道に入った昼食を追い出すべく、何度か咳き込んでから改めて苦笑する。
「三科、素直だよね」
「お前ほどじゃねえわ」
中央署内に設置された小さな食堂内。昼食を摂る警官達が生み出すささやかな喧騒の中、三科は再び中華麺を啜った。
中央署内で久々に鉢合わせた三科は、眼の下に多少の隈を作って眠たげだった。話を聞けば、無事相勤者も決まったらしく、今日は密行明け。それも帰りの道すがらだったようだ。それでも夏波に近況を聞かせろと肩を組み、署内の食堂に誘い出す辺り、まだ余裕はあるのだろう。
夏波としても彼の誘いは嬉しく、意気揚々と志賀との話を三科に報告していた。だが、三科の志賀に対する不信感や不満は、どうやら思った以上に根深いらしい。
「ったく……。お前ホントに好き嫌い分かりやすいよなァ」
「そう?」
「そりゃもう、隙あらば好きな人の話ばっか」
面と向かって指摘されると、何となく照れくさい。しかし否定の文言も出てこず、夏波は萎縮しつつ箸で定食をつついた。
「出てくる話が毎度愚痴じゃないってのは、美徳だけどさ。今日に限っちゃムカつく」
三科は自分で放った台詞に腹を立てたのか、しかめっ面をさらにくしゃりと潰す。最早変顔に近づいてきた彼を見てくすくすと笑えば、三科はさっと顔を元に戻した。
「けど、分かりやすいってのも罪なもんだよな」
「え?」
カラン、と蓮華を丼の中に放り、三科は上半身を軽く机の上に乗り出す。
「お前、美月幸平は苦手なんだろ?」
「へっ!?」
ポロリと箸の先から唐揚げがこぼれた。
「な、なんで……」
狼狽を一切隠しきれていない夏波を見て、三科はからからと笑い声を立てる。
だが、夏波からすればとても笑い事ではない。そもそも三科が、美月と夏波に親交があると知っている事からして驚きなのだ。確かに拉致事件の際、志賀と情報共有を行ったと言ってはいた。そうはいっても、今も美月と連絡を取り合っている事は誰も知らないはず。
驚きを通り越して訝しげな表情を作り始めた夏波に、三科はニヤリと笑いかけ、仰々しく口を開いた。
「これは至って初歩的な事だよワトソン君。まず、あの日のカフェで俺にそっぽを向いていた人間が美月幸平であることは、この前の拉致事件の時に判明した。そこで俺は考える訳だ。小心者の夏波奏が、時の人である美月幸平とふたりっきりで遊びに行こう、なんて自分から言い出すか?いいや、有り得ない。十中八九向こうからの誘いだ。だとすれば、向こうは夏波奏を悪しからず思っているはず。更に夏波奏という人間は、他者とそう簡単に縁を切らない――いや、切れない」
やけに芝居がかった口調。口も挟もうとした夏波に所作だけで待ったをかけ、三科は続ける。
「美月幸平とどうして仲良くなったのか。それは俺の知る所ではないが、これまで夏波奏の口から彼の名前がでたことはない。仮に関係性をバラしてはいけない場合であったとしても、夏波は好きな人の話はしたがりだ。相手を少しでも好ましく思っていれば、名前をぼかして話題に上げるくらいはしそうなモンだが、それさえない。
ということはつまり、夏波奏は美月幸平が苦手か、関係がうまく行っていないかの2択だ。――と、俺の灰色の脳細胞が告げた訳だな。分かるかねヘイスティングス君。じっちゃんの名にかけて、真実はいつも1つなのだ」
「いや長いし人変わってるしツッコミ所が多過ぎる」
推理モノ好きから袋叩きにされそうな台詞の羅列に、夏波はとうとう吹き出した。三科はそれを満足そうに見届けると、わざとらしい咳払いをして声を整える。
「で?どうなんだよ、実際の所」
「いやぁ、まぁ、その……」
「当たりか」
へどもどした返事を肯定と捉え、三科は口の端を吊り上げる。
「話したくなきゃそれでいいんだけどよ。話した方が楽になる事もあるぜ?」
「う……うん……」
正直気は進まない。しかしこのまま美月の話を誰にも打ち明けないでいるのもそろそろ限界だった。
夏波はぽつぽつと話を始める。
馴れ初めから、能力の話はぼかし、そして最近の様子を簡単に掻い摘んで。
美月からの連絡は、今現在もほとんど絶え間なくやってきていた。その内容は少しずつ親密さを増し、それと同時に頻度も増した。最近では目まぐるしく鳴る通知に辟易し、仕事を言い訳に避けている状態だ。
『今お話できないかな?』
『何してる?』
『夏波さん、もしかしてボク、迷惑かな……?迷惑だよね、ごめんね……』
『そう?なら良かった!ボク、夏波さんにお話聞いて貰えるの嬉しくって!』
『夏波さんは、今日はどんなことして過ごしてたの?』
一通り話し終え、ラインの一部分まで見せると、三科は呆れ気味に頬杖をつく。
「お前、メンヘラに捕まってんじゃねーよ」
「メンヘラって……」
遠慮もへったくれもない物言いに、夏波は苦笑を禁じえない。
「悪い人じゃないんだよ。凄い良い人で、色んな事頑張ってて……だけど、僕の事頼りにしてくれてるみたいだから、あしらうのも申し訳なくて……」
「いやー、俺なら耐えきれんね。なァにが『迷惑でしたよね……』だ。相手に『そんなこと無いですよ〜』って言わせる気満々のかまってちゃんじゃねェか」
「三科って美月幸平ファンじゃなかったっけ?」
「そうだけど?」
「ファンとは……?」
首を捻る夏波に、三科は「そんなもんだ」と投げやりだ。
てっきりミツキを援護する意見が返ってくるかと思いきや、三科は得も言えぬ表情を作っている。
「ご、ごめんね……好きな俳優さんのこんな話……」
「ンなこたァどうだっていいんだよ!」
「ファン……とは……?」
三科は、ダン、と握った拳で軽く机を叩く。
「夏波、悪い事は言わねえ。早めに距離取れ」
「え?」
三科の瞳はいつになく真剣だ。
「このテのメンヘラはな、人の話聞かねェんだ。それどころか、はっきり嫌だって拒否すると、まるで自分が被害者みたいに振る舞いやがる。『ボクは何もしてないのに、向こうが酷いこと言うんです〜』とか言ってな。周りの同情を買って外堀埋められ始めたら、お前本格的に逃げられなくなるぞ」
「な、何でそんなに実感こもってるの……?」
「こもってない」
「こもってるよ」
「こもってない」
「頑なだな……」
視線が落ちる。
三科の言っている意味は何となく分かっていた。今はそこまで酷くないが、美月は夏波のささやかな遠慮の言葉を、彼の都合が良い様に組み換えてしまう節がある。
しかし、それは常にポジティブな彼の良い所であり、夏波が否定していい事ではない、と心にブレーキがかかるのだ。
「……あ、そうだ」
ふと思い出す。
ポケットを探り、夏波は自分の財布を取り出した。その中から抜き取ったのは2枚のイベントチケット。1枚は先日美月本人からもらったもので、開催日時はわずか数日後に迫っている。
「それ……」
「この前美月さんにもらったんだ。イベントに来てねって。でも1人で行くのもあれかなと思って、個人的にもう1枚買い足してたんだけど……」
「どうせ誰も誘えてねーんだろ」
またも図星を突かれ、う、と言葉を飲んだ。
だが、実を言えば誘えていないのではなく、誘っていないのだ。ミツキとの関係性を打ち明けられる友人はそう多くないし、何より社会人の友人達とは大抵予定が合わない。村山と剣はしっかり業務日だったため、頼みの綱は三科くらいのもので。
「こんな話しといてなんだけど、三科、ミツキさんのファンだったし、どうかなー……って……」
三科は夏波の差し出したチケットを眺め、首を横に振る。
「……悪い。俺は行けねェ」
「そっかぁ……。やっぱり1人で行くしか無いかな……」
「そんなに憂鬱なら、そもそも行かなきゃ良いじゃねェか。仕事だ何だっていくらでも言い訳つくだろ。やめとけよ」
「うーん……でも嘘つくのもちょっとね」
「……そーかよ」
というよりも、行かなかった後が面倒臭くなりそうなのだ。
美月は機嫌が斜めになると少々扱いづらく、『ボクのこと嫌いですか』に類似する発言があからさまに増える。宥めるのにそれ相応の精神力を使うので、できる限り機嫌を損ねるような事はしたくない。
そんな夏波の心境を知ってか知らずか、三科はしばし黙りこくった。
やがて、少々――いや、かなり不満げかつ不本意そうに、彼は口を開く。
「……志賀サンには、話したのか?」
「え?」
意外な名前。夏波は瞼を瞬かせた。
頬杖をつく三科は、まるでゲテモノを無理に飲み下した後のような顔をしている。
「誘ってみりゃ良いじゃねぇか」
不本意であることを一切隠さない口調に、夏波は苦笑を禁じ得ない。
「でも、興味あるかな?こういうの行かなさそうなんだけど……」
「そもそも美月に関わる事になったのだってアイツのせいだろ?万が一断られたら、俺がブン殴ってでも引き摺り出してやんよ」
「うーん、暴力」
一瞬の沈黙。そして2人で同時に笑い出す。
「分かった。1回誘ってみる」
「あぁ。そうしろそうしろ」
その後、ふたりはしばらく談笑を重ね、互いの近況報告に花を咲かせた。
不意に休憩時間終了を知らせるアラームが端末から鳴って、夏波は眉尻を下げる。
「あ……と、そろそろ戻らないとだ」
「そんじゃ、俺も帰りますかね」
食器を返却口へと戻し、食堂前で三科は朗らかに手を振った。
夏波も片手をあげかけ、そこでふと「あれ?」と声が溢れる。
「ん?どした」
「三科、……香水つけてる?」
何気無い疑問だった。
三科が手を挙げた瞬間、食堂にはそぐわない、不可思議な匂いが鼻先を掠めたのだ。
それは、どこか懐かしさを伴う形容し難い匂い。柑橘系ともフローラルとも違う、どこか、――どこか深い海の底を思わせる、それにしては潮気のない重い香り。
もう一度空気を吸い込めば、やはり香りがどこからか漂っている。
「み……」
返事がなく、不可思議に思ってもう一度名前を呼ぼうとした、その刹那の事だ。
背中をうっすら撫でられるかのような瞬間的な気味の悪さに襲われ、夏波は思わず口を閉ざした。
それは強烈な――未視感 とでも呼ぶべき感覚。
背中を突き抜けた透明な手が、身体の内側を、胸を、ざらざらと撫でている。
「匂いがするのか?」
ふと声が聞こえた。それが聞き慣れた声であると認識するのに、夏波の脳は僅かに時間を要した。
何故か、目の前の人間の表情が認識できない。
「え、……う、うん」
辛うじて言葉の意味を理解し、夏波は頷く。それから僅かに時間が空いたような気がしたが、それが一瞬だったのか数十秒経過したのかも、どこか浮ついて判断がつかなかった。
「どんな匂いなんだ?」
「ええと……香水かなと思ったけど、何か……変な匂いかも。海の底みたいで、でも、アスファルトの匂いが混じってるみたいな……」
「何だそりゃ」
三科の声だ。
そう理解した途端、その薄気味悪い手が意識を離れ、未視感は忽然と姿を消す。
不思議そうな表情を作った三科が夏波を見つめ、そして肩を竦めていた。
「ケーサツだぜ?香水なんかつけらんねーよ。そもそもそんなビミョーな匂い、いやだろ」
「だ、だよね。ごめん、気のせいか」
首を振る夏波の肩を叩き、三科は踵を返す。だが、すぐに足を止め、ふと首だけを夏波の方へと回した。
「なぁ、夏波」
「何?」
その瞳が揺れている。
――あれ……?
ふと、夏波の脳裏を記憶が掠めた。
その瞳の色を、どこかで見たことがある。滅多に見せない、悲しげとも言える三科のその瞳を、どこかで。
「俺さ、お前の事割と…………、あー、……なんだ、その、……」
珍しく言葉を探して四苦八苦している彼は、やがて
「気に入ってるっつーか、仲良いと思ってんだけど」
と続ける。
夏波は間髪入れず
「うん?え?ありがとう?僕もだけど?」
と返す。
「……なら……」
三科はその瞳を隠すように俯くと、また言葉を探し始めた。しかし、やがて諦めたかのように軽く頭を振ると
「……やっぱなんでもねぇ。イベント、どうせなら楽しんでこいよ」
夏波は素直に頷く。
「うん、そうするよ」
夏波のその言葉に頷き返し、今度こそ「じゃあな」と手を振って、三科は廊下を歩き去った。
その後ろ姿から目を離せないまま、夏波は呆然と立ち尽くす。
――何だったんだろう……?
先の未視感は、これまで志賀に抱いていた既視感 とは全く対を成すもののようだった。
見慣れたはずの、自分をよく理解してくれている友人が、――瞬間的に得体の知れない“何か”に思えたなど。流石に口にできようはずもない。
先程の三科の表情を必死に思い返す。あの瞳。どこで見ただろう。三科にしては珍しい表情なのだが。
――それに、……驚いてるように見えた
『香水を付けているか』と問いかけた時、未視感に襲われる直前の三科は、硬直し、愕然としているようにも見えた。
それが何故なのかは分からない。それに、本当にそんな表情をしていたのかも定かではなく、夏波は手袋のはまった手で軽く頭を押さえた。
――気のせいか
疲れているのだ。ここ最近は特に、気を張る事が多かった。
夏波はそう結論付け、特殊対策室への道をたどるのだった。
「よーし!もうその話は止め!」
いい加減耐えきれないといった様子で、三科が箸をおいて顔を上げる。
それまでにこにこと話をしていた夏波は、突如豆鉄砲を受けた鳩と化した。
「どして?」
「どうしてって……」
三科は思い切り顔を顰め、片言で答える。
「オレ、ソイツ、キライ」
思わず吹き出しかけ、夏波は慌てて自分の口を手で塞いだ。耐えた拍子に気道に入った昼食を追い出すべく、何度か咳き込んでから改めて苦笑する。
「三科、素直だよね」
「お前ほどじゃねえわ」
中央署内に設置された小さな食堂内。昼食を摂る警官達が生み出すささやかな喧騒の中、三科は再び中華麺を啜った。
中央署内で久々に鉢合わせた三科は、眼の下に多少の隈を作って眠たげだった。話を聞けば、無事相勤者も決まったらしく、今日は密行明け。それも帰りの道すがらだったようだ。それでも夏波に近況を聞かせろと肩を組み、署内の食堂に誘い出す辺り、まだ余裕はあるのだろう。
夏波としても彼の誘いは嬉しく、意気揚々と志賀との話を三科に報告していた。だが、三科の志賀に対する不信感や不満は、どうやら思った以上に根深いらしい。
「ったく……。お前ホントに好き嫌い分かりやすいよなァ」
「そう?」
「そりゃもう、隙あらば好きな人の話ばっか」
面と向かって指摘されると、何となく照れくさい。しかし否定の文言も出てこず、夏波は萎縮しつつ箸で定食をつついた。
「出てくる話が毎度愚痴じゃないってのは、美徳だけどさ。今日に限っちゃムカつく」
三科は自分で放った台詞に腹を立てたのか、しかめっ面をさらにくしゃりと潰す。最早変顔に近づいてきた彼を見てくすくすと笑えば、三科はさっと顔を元に戻した。
「けど、分かりやすいってのも罪なもんだよな」
「え?」
カラン、と蓮華を丼の中に放り、三科は上半身を軽く机の上に乗り出す。
「お前、美月幸平は苦手なんだろ?」
「へっ!?」
ポロリと箸の先から唐揚げがこぼれた。
「な、なんで……」
狼狽を一切隠しきれていない夏波を見て、三科はからからと笑い声を立てる。
だが、夏波からすればとても笑い事ではない。そもそも三科が、美月と夏波に親交があると知っている事からして驚きなのだ。確かに拉致事件の際、志賀と情報共有を行ったと言ってはいた。そうはいっても、今も美月と連絡を取り合っている事は誰も知らないはず。
驚きを通り越して訝しげな表情を作り始めた夏波に、三科はニヤリと笑いかけ、仰々しく口を開いた。
「これは至って初歩的な事だよワトソン君。まず、あの日のカフェで俺にそっぽを向いていた人間が美月幸平であることは、この前の拉致事件の時に判明した。そこで俺は考える訳だ。小心者の夏波奏が、時の人である美月幸平とふたりっきりで遊びに行こう、なんて自分から言い出すか?いいや、有り得ない。十中八九向こうからの誘いだ。だとすれば、向こうは夏波奏を悪しからず思っているはず。更に夏波奏という人間は、他者とそう簡単に縁を切らない――いや、切れない」
やけに芝居がかった口調。口も挟もうとした夏波に所作だけで待ったをかけ、三科は続ける。
「美月幸平とどうして仲良くなったのか。それは俺の知る所ではないが、これまで夏波奏の口から彼の名前がでたことはない。仮に関係性をバラしてはいけない場合であったとしても、夏波は好きな人の話はしたがりだ。相手を少しでも好ましく思っていれば、名前をぼかして話題に上げるくらいはしそうなモンだが、それさえない。
ということはつまり、夏波奏は美月幸平が苦手か、関係がうまく行っていないかの2択だ。――と、俺の灰色の脳細胞が告げた訳だな。分かるかねヘイスティングス君。じっちゃんの名にかけて、真実はいつも1つなのだ」
「いや長いし人変わってるしツッコミ所が多過ぎる」
推理モノ好きから袋叩きにされそうな台詞の羅列に、夏波はとうとう吹き出した。三科はそれを満足そうに見届けると、わざとらしい咳払いをして声を整える。
「で?どうなんだよ、実際の所」
「いやぁ、まぁ、その……」
「当たりか」
へどもどした返事を肯定と捉え、三科は口の端を吊り上げる。
「話したくなきゃそれでいいんだけどよ。話した方が楽になる事もあるぜ?」
「う……うん……」
正直気は進まない。しかしこのまま美月の話を誰にも打ち明けないでいるのもそろそろ限界だった。
夏波はぽつぽつと話を始める。
馴れ初めから、能力の話はぼかし、そして最近の様子を簡単に掻い摘んで。
美月からの連絡は、今現在もほとんど絶え間なくやってきていた。その内容は少しずつ親密さを増し、それと同時に頻度も増した。最近では目まぐるしく鳴る通知に辟易し、仕事を言い訳に避けている状態だ。
『今お話できないかな?』
『何してる?』
『夏波さん、もしかしてボク、迷惑かな……?迷惑だよね、ごめんね……』
『そう?なら良かった!ボク、夏波さんにお話聞いて貰えるの嬉しくって!』
『夏波さんは、今日はどんなことして過ごしてたの?』
一通り話し終え、ラインの一部分まで見せると、三科は呆れ気味に頬杖をつく。
「お前、メンヘラに捕まってんじゃねーよ」
「メンヘラって……」
遠慮もへったくれもない物言いに、夏波は苦笑を禁じえない。
「悪い人じゃないんだよ。凄い良い人で、色んな事頑張ってて……だけど、僕の事頼りにしてくれてるみたいだから、あしらうのも申し訳なくて……」
「いやー、俺なら耐えきれんね。なァにが『迷惑でしたよね……』だ。相手に『そんなこと無いですよ〜』って言わせる気満々のかまってちゃんじゃねェか」
「三科って美月幸平ファンじゃなかったっけ?」
「そうだけど?」
「ファンとは……?」
首を捻る夏波に、三科は「そんなもんだ」と投げやりだ。
てっきりミツキを援護する意見が返ってくるかと思いきや、三科は得も言えぬ表情を作っている。
「ご、ごめんね……好きな俳優さんのこんな話……」
「ンなこたァどうだっていいんだよ!」
「ファン……とは……?」
三科は、ダン、と握った拳で軽く机を叩く。
「夏波、悪い事は言わねえ。早めに距離取れ」
「え?」
三科の瞳はいつになく真剣だ。
「このテのメンヘラはな、人の話聞かねェんだ。それどころか、はっきり嫌だって拒否すると、まるで自分が被害者みたいに振る舞いやがる。『ボクは何もしてないのに、向こうが酷いこと言うんです〜』とか言ってな。周りの同情を買って外堀埋められ始めたら、お前本格的に逃げられなくなるぞ」
「な、何でそんなに実感こもってるの……?」
「こもってない」
「こもってるよ」
「こもってない」
「頑なだな……」
視線が落ちる。
三科の言っている意味は何となく分かっていた。今はそこまで酷くないが、美月は夏波のささやかな遠慮の言葉を、彼の都合が良い様に組み換えてしまう節がある。
しかし、それは常にポジティブな彼の良い所であり、夏波が否定していい事ではない、と心にブレーキがかかるのだ。
「……あ、そうだ」
ふと思い出す。
ポケットを探り、夏波は自分の財布を取り出した。その中から抜き取ったのは2枚のイベントチケット。1枚は先日美月本人からもらったもので、開催日時はわずか数日後に迫っている。
「それ……」
「この前美月さんにもらったんだ。イベントに来てねって。でも1人で行くのもあれかなと思って、個人的にもう1枚買い足してたんだけど……」
「どうせ誰も誘えてねーんだろ」
またも図星を突かれ、う、と言葉を飲んだ。
だが、実を言えば誘えていないのではなく、誘っていないのだ。ミツキとの関係性を打ち明けられる友人はそう多くないし、何より社会人の友人達とは大抵予定が合わない。村山と剣はしっかり業務日だったため、頼みの綱は三科くらいのもので。
「こんな話しといてなんだけど、三科、ミツキさんのファンだったし、どうかなー……って……」
三科は夏波の差し出したチケットを眺め、首を横に振る。
「……悪い。俺は行けねェ」
「そっかぁ……。やっぱり1人で行くしか無いかな……」
「そんなに憂鬱なら、そもそも行かなきゃ良いじゃねェか。仕事だ何だっていくらでも言い訳つくだろ。やめとけよ」
「うーん……でも嘘つくのもちょっとね」
「……そーかよ」
というよりも、行かなかった後が面倒臭くなりそうなのだ。
美月は機嫌が斜めになると少々扱いづらく、『ボクのこと嫌いですか』に類似する発言があからさまに増える。宥めるのにそれ相応の精神力を使うので、できる限り機嫌を損ねるような事はしたくない。
そんな夏波の心境を知ってか知らずか、三科はしばし黙りこくった。
やがて、少々――いや、かなり不満げかつ不本意そうに、彼は口を開く。
「……志賀サンには、話したのか?」
「え?」
意外な名前。夏波は瞼を瞬かせた。
頬杖をつく三科は、まるでゲテモノを無理に飲み下した後のような顔をしている。
「誘ってみりゃ良いじゃねぇか」
不本意であることを一切隠さない口調に、夏波は苦笑を禁じ得ない。
「でも、興味あるかな?こういうの行かなさそうなんだけど……」
「そもそも美月に関わる事になったのだってアイツのせいだろ?万が一断られたら、俺がブン殴ってでも引き摺り出してやんよ」
「うーん、暴力」
一瞬の沈黙。そして2人で同時に笑い出す。
「分かった。1回誘ってみる」
「あぁ。そうしろそうしろ」
その後、ふたりはしばらく談笑を重ね、互いの近況報告に花を咲かせた。
不意に休憩時間終了を知らせるアラームが端末から鳴って、夏波は眉尻を下げる。
「あ……と、そろそろ戻らないとだ」
「そんじゃ、俺も帰りますかね」
食器を返却口へと戻し、食堂前で三科は朗らかに手を振った。
夏波も片手をあげかけ、そこでふと「あれ?」と声が溢れる。
「ん?どした」
「三科、……香水つけてる?」
何気無い疑問だった。
三科が手を挙げた瞬間、食堂にはそぐわない、不可思議な匂いが鼻先を掠めたのだ。
それは、どこか懐かしさを伴う形容し難い匂い。柑橘系ともフローラルとも違う、どこか、――どこか深い海の底を思わせる、それにしては潮気のない重い香り。
もう一度空気を吸い込めば、やはり香りがどこからか漂っている。
「み……」
返事がなく、不可思議に思ってもう一度名前を呼ぼうとした、その刹那の事だ。
背中をうっすら撫でられるかのような瞬間的な気味の悪さに襲われ、夏波は思わず口を閉ざした。
それは強烈な――
背中を突き抜けた透明な手が、身体の内側を、胸を、ざらざらと撫でている。
「匂いがするのか?」
ふと声が聞こえた。それが聞き慣れた声であると認識するのに、夏波の脳は僅かに時間を要した。
何故か、目の前の人間の表情が認識できない。
「え、……う、うん」
辛うじて言葉の意味を理解し、夏波は頷く。それから僅かに時間が空いたような気がしたが、それが一瞬だったのか数十秒経過したのかも、どこか浮ついて判断がつかなかった。
「どんな匂いなんだ?」
「ええと……香水かなと思ったけど、何か……変な匂いかも。海の底みたいで、でも、アスファルトの匂いが混じってるみたいな……」
「何だそりゃ」
三科の声だ。
そう理解した途端、その薄気味悪い手が意識を離れ、未視感は忽然と姿を消す。
不思議そうな表情を作った三科が夏波を見つめ、そして肩を竦めていた。
「ケーサツだぜ?香水なんかつけらんねーよ。そもそもそんなビミョーな匂い、いやだろ」
「だ、だよね。ごめん、気のせいか」
首を振る夏波の肩を叩き、三科は踵を返す。だが、すぐに足を止め、ふと首だけを夏波の方へと回した。
「なぁ、夏波」
「何?」
その瞳が揺れている。
――あれ……?
ふと、夏波の脳裏を記憶が掠めた。
その瞳の色を、どこかで見たことがある。滅多に見せない、悲しげとも言える三科のその瞳を、どこかで。
「俺さ、お前の事割と…………、あー、……なんだ、その、……」
珍しく言葉を探して四苦八苦している彼は、やがて
「気に入ってるっつーか、仲良いと思ってんだけど」
と続ける。
夏波は間髪入れず
「うん?え?ありがとう?僕もだけど?」
と返す。
「……なら……」
三科はその瞳を隠すように俯くと、また言葉を探し始めた。しかし、やがて諦めたかのように軽く頭を振ると
「……やっぱなんでもねぇ。イベント、どうせなら楽しんでこいよ」
夏波は素直に頷く。
「うん、そうするよ」
夏波のその言葉に頷き返し、今度こそ「じゃあな」と手を振って、三科は廊下を歩き去った。
その後ろ姿から目を離せないまま、夏波は呆然と立ち尽くす。
――何だったんだろう……?
先の未視感は、これまで志賀に抱いていた
見慣れたはずの、自分をよく理解してくれている友人が、――瞬間的に得体の知れない“何か”に思えたなど。流石に口にできようはずもない。
先程の三科の表情を必死に思い返す。あの瞳。どこで見ただろう。三科にしては珍しい表情なのだが。
――それに、……驚いてるように見えた
『香水を付けているか』と問いかけた時、未視感に襲われる直前の三科は、硬直し、愕然としているようにも見えた。
それが何故なのかは分からない。それに、本当にそんな表情をしていたのかも定かではなく、夏波は手袋のはまった手で軽く頭を押さえた。
――気のせいか
疲れているのだ。ここ最近は特に、気を張る事が多かった。
夏波はそう結論付け、特殊対策室への道をたどるのだった。