3-12 限界
文字数 1,997文字
どれほどの時間そうしていたのだろうか。
夏波の嗚咽と涙が収まるまで、志賀は一言も発さずにただきつく抱きしめていた。
「ごめん、なさい……」
夏波がそう零すと、志賀はようやく腕の力を少しずつ解 く。しゃくりあげながらも腕で涙を拭い、夏波は志賀から身体を離した。だが、それでも服の袖までは離せず、手に力がこもってしまう。
「何を、……してたんですか」
暗がりの中でも表情が見える程近く、志賀の哀しげな面持ちに不安を掻き立てられる。彼が立ち上がろうとしたのを察し、夏波は袖を引き寄せた。
志賀は困り果てた様子を隠しきれないまま、
「全部話す。……だから、ちょっと待ってろ」
と声をかけ、夏波の頭をもう一度撫でる。
不安の色と重さは変わらなかったが、夏波は力を緩め、その行方を志賀に委ねた。志賀はできるだけ慎重に夏波の手を外し、膝を立てて立ち上がる。そして背後を振り返ると、横たわっている男の元に歩み寄った。
ごそごそとコートの内側から何かを取り出して準備をしているようだったが、夏波の位置からでは何をしているのか分からない。呆然と志賀の横顔を見つめるうち、彼は男を仰向けにしてシャツのボタンを外すと、自らの口に小型の懐中電灯を咥え、男の腕を慎重に持ち上げた。
途端、バチンと何かが弾けるような音と共に、目の前が一瞬白く染まる。
苦しげな志賀の呻き声。何かが焼け焦げたような臭いが鼻を突いた。夏波が思わず瞑っていた瞼を開けると、志賀は苦痛に顔を顰めつつ、それでも男の腕を掲げるように掴んでいる。
そこでようやく、夏波は志賀が片手に注射針を持ち、何かの薬品を注入しようとしているのだと気付いた。
志賀はそのまま男の脇の下部分に注射針を挿入する。片方の腕に薬品を入れ終えた後、もう一方の腕にも同じ様に処置をした。
「それは、何を……」
「麻酔だ」
志賀は懐中電灯を口から取り去って答える。男の服を整えてから注射針をしまい、そこでやっと息をついた。
「その人は……能力者なんですか」
「あぁ」
返事をし、志賀はポケットから黒い手袋を取り出す。そして男の手に触れても問題ない事を確認してから装着させた。
「マル暴の人間だったせいでかなり手間取った。……後々話が通じりゃいいんだが」
ぼやきながら立ち上がり、志賀は夏波の目の前で膝を折る。
「一旦コイツを病院に連れて行く。……お前も来い」
夏波が素直に頷いた事を確認して、志賀は心做しか安堵した表情を作った気がした。それを見て、夏波は志賀に手を伸ばしかけていた手を下ろす。
「……どうした」
「いえ、あの……」
自分が何を求めて手を伸ばしたのかは夏波自身にも分かっていない。力なく首を振って立ち上がろうとした所に、黒い手袋のはまった手が差し伸べられた。
「……すみま」
「謝らなくていい」
夏波の謝罪の言葉を遮って、志賀はなおも手を差し出していた。
「……ありがとうございます」
おずおずと夏波は志賀の手を取る。お互いの手袋の厚みのせいで触れ合う感触など殆ど無い。夏波はゆっくりと、存外力強い志賀の手に引かれて立ち上がった。
*
眠る夏波の横顔から目を離す。
病院の駐車場内に止めた車内で、志賀はじっと静寂 を仰いだ。
――何してんだろうな、俺は。
ほんの数刻前、自分に埋もれて肩を震わせる夏波は、あまりにも脆く崩れかけだった。
何故こうなっているのか、に対する心当たりは多かった。確かに危惧はしていたのだ。いつか潰れてしまうのではないかと恐れ、だからこそ遠ざけた。何も知らせず、何も見せない事が、夏波の心を救うと信じたかった。
しかし、壊れかけていた夏波の姿を見る限り、それが間違いだったのだと痛感する。
子どものように縋り付いて泣く程追い詰められていたというのに、何も気付かなかった。いや、気付かないように立ち居振る舞った。
手を伸ばし、夏波に触れる事を怖がって避け続けていたから、ここまで弱っている事に気付けなかったのだ。
瞼を落とした志賀は、ポケットの中で小さな形見を握りしめた。
――似てるよ
できるだけ思わないようにしていた。
しかし、夏波を見れば見るほど。知れば知る程似ているのだ。違う人間だと分かっているのに、それでも重ねてしまう。その度に心を掻きむしりたくなる程の息苦しさに襲われる。
「生きてたのが、お前なら良かったのにな」
きっと仲良くできる。きっと夏波を救えている。
それは、これまでに何度も自分を責め立てた呪いだ。
何故自分だけが生きているのだろうか。不思議でならなかった。消えてなくなりたいと数え切れない程に願った。――今でも願い続けている。
答えを求めて何度も問いかけるが、答えをくれる存在はどこにもいない。
「……銀 」
死んだ人間は何も答えない。記憶の中でしか生きられない。
その記憶すらかき消したのは、紛れもなく志賀自身なのだから。
第三章 彼は誰
終
夏波の嗚咽と涙が収まるまで、志賀は一言も発さずにただきつく抱きしめていた。
「ごめん、なさい……」
夏波がそう零すと、志賀はようやく腕の力を少しずつ
「何を、……してたんですか」
暗がりの中でも表情が見える程近く、志賀の哀しげな面持ちに不安を掻き立てられる。彼が立ち上がろうとしたのを察し、夏波は袖を引き寄せた。
志賀は困り果てた様子を隠しきれないまま、
「全部話す。……だから、ちょっと待ってろ」
と声をかけ、夏波の頭をもう一度撫でる。
不安の色と重さは変わらなかったが、夏波は力を緩め、その行方を志賀に委ねた。志賀はできるだけ慎重に夏波の手を外し、膝を立てて立ち上がる。そして背後を振り返ると、横たわっている男の元に歩み寄った。
ごそごそとコートの内側から何かを取り出して準備をしているようだったが、夏波の位置からでは何をしているのか分からない。呆然と志賀の横顔を見つめるうち、彼は男を仰向けにしてシャツのボタンを外すと、自らの口に小型の懐中電灯を咥え、男の腕を慎重に持ち上げた。
途端、バチンと何かが弾けるような音と共に、目の前が一瞬白く染まる。
苦しげな志賀の呻き声。何かが焼け焦げたような臭いが鼻を突いた。夏波が思わず瞑っていた瞼を開けると、志賀は苦痛に顔を顰めつつ、それでも男の腕を掲げるように掴んでいる。
そこでようやく、夏波は志賀が片手に注射針を持ち、何かの薬品を注入しようとしているのだと気付いた。
志賀はそのまま男の脇の下部分に注射針を挿入する。片方の腕に薬品を入れ終えた後、もう一方の腕にも同じ様に処置をした。
「それは、何を……」
「麻酔だ」
志賀は懐中電灯を口から取り去って答える。男の服を整えてから注射針をしまい、そこでやっと息をついた。
「その人は……能力者なんですか」
「あぁ」
返事をし、志賀はポケットから黒い手袋を取り出す。そして男の手に触れても問題ない事を確認してから装着させた。
「マル暴の人間だったせいでかなり手間取った。……後々話が通じりゃいいんだが」
ぼやきながら立ち上がり、志賀は夏波の目の前で膝を折る。
「一旦コイツを病院に連れて行く。……お前も来い」
夏波が素直に頷いた事を確認して、志賀は心做しか安堵した表情を作った気がした。それを見て、夏波は志賀に手を伸ばしかけていた手を下ろす。
「……どうした」
「いえ、あの……」
自分が何を求めて手を伸ばしたのかは夏波自身にも分かっていない。力なく首を振って立ち上がろうとした所に、黒い手袋のはまった手が差し伸べられた。
「……すみま」
「謝らなくていい」
夏波の謝罪の言葉を遮って、志賀はなおも手を差し出していた。
「……ありがとうございます」
おずおずと夏波は志賀の手を取る。お互いの手袋の厚みのせいで触れ合う感触など殆ど無い。夏波はゆっくりと、存外力強い志賀の手に引かれて立ち上がった。
*
眠る夏波の横顔から目を離す。
病院の駐車場内に止めた車内で、志賀はじっと
――何してんだろうな、俺は。
ほんの数刻前、自分に埋もれて肩を震わせる夏波は、あまりにも脆く崩れかけだった。
何故こうなっているのか、に対する心当たりは多かった。確かに危惧はしていたのだ。いつか潰れてしまうのではないかと恐れ、だからこそ遠ざけた。何も知らせず、何も見せない事が、夏波の心を救うと信じたかった。
しかし、壊れかけていた夏波の姿を見る限り、それが間違いだったのだと痛感する。
子どものように縋り付いて泣く程追い詰められていたというのに、何も気付かなかった。いや、気付かないように立ち居振る舞った。
手を伸ばし、夏波に触れる事を怖がって避け続けていたから、ここまで弱っている事に気付けなかったのだ。
瞼を落とした志賀は、ポケットの中で小さな形見を握りしめた。
――似てるよ
できるだけ思わないようにしていた。
しかし、夏波を見れば見るほど。知れば知る程似ているのだ。違う人間だと分かっているのに、それでも重ねてしまう。その度に心を掻きむしりたくなる程の息苦しさに襲われる。
「生きてたのが、お前なら良かったのにな」
きっと仲良くできる。きっと夏波を救えている。
それは、これまでに何度も自分を責め立てた呪いだ。
何故自分だけが生きているのだろうか。不思議でならなかった。消えてなくなりたいと数え切れない程に願った。――今でも願い続けている。
答えを求めて何度も問いかけるが、答えをくれる存在はどこにもいない。
「……
死んだ人間は何も答えない。記憶の中でしか生きられない。
その記憶すらかき消したのは、紛れもなく志賀自身なのだから。
第三章 彼は誰
終