5-7 血だまり
文字数 2,467文字
伊霧匠の腕を引いて、夏波は公園の噴水が設置されている場所まで駆け戻った。この辺りはまだ人通りがある。最悪追いかけてこられても、助けを求めやすくはなったはずだ。2人は大きな桜の木の前で立ち止まり、ぜいぜいと肩で息をした。
「今の、何なんすか」
「ぼ、僕も、全然。ただ、危ない人って、事だけ」
呼吸を整えつつ、夏波は「取り敢えず、人呼ばないと」とポケットから携帯端末を取り出す。
「大丈夫……なんですか、あの人」
「……うん、大丈夫」
それは半ば希望的な答えでもある。逃げている間に、夏波の耳には銃声らしい音が届いていた。志賀に向けて発砲されたのだと思えば胸が竦む。けれど伊霧匠を放置して戻る訳にもいかず、かといって連れて戻れば本末転倒だ。
夏波は呼吸を整えながら、嫌な想像を頭から追い出すように何度か首を振った。そうして110番を鳴らすべく指を動かす。しかし
「キャァ――――――――ッ!!」
通話開始のボタンを押す直前、突然女の悲鳴が空に鳴り響いた。それはあまりにもけたたましく、血も凍るような恐怖と怯えを孕んだ声。伊霧匠が怯えた様子で夏波の側に寄り添う程に、尋常では無いものだ。
「な、何、今の……」
「分かんない、ですけど……」
声の響きからは、何処にその女がいるのかは分からない。先程襲われた事実と今の悲鳴でパニックを起こしかけているのか、伊霧匠の呼吸は以前荒いままだった。
「とにかく、もう少し人の多い所に行こう」
頷いた匠と共に、夏波は歩き出す。入力しっぱなしだった110番を繋げ、端的に場所と拳銃を持った人間がいると伝えながら、2人は公園の階段を降りた。
――志賀さん
大丈夫だと信じてはいる。けれどそれは根拠の無い『願い』に近い。そうだと分かりつつ、それでも夏波には必死に祈る事しかできないのだ。
公園から出て程近く、コンサート会場前まで差し掛かると、そこには帰りがけと思われる人々で溢れかえっていた。
「流石にここなら……」
人通りのある街道を歩いてきた事もあるのか、伊霧匠の呼吸は幾分か落ち着いてきている。
これだけの人数がいれば、面と向かって襲われるということもないだろう。
しかし夏波の気持ちは早るばかりだ。できるなら、これから来るであろう警官達に伊霧匠を任せ、志賀の安否確認に向かいたい。しかし誰かに託すまでは伊霧匠を1人にしておきたくもない。気を揉みながら道を覗き込むが、当然パトカーのサイレン音が聞こえてくる気配はなかった。
「夏波さん、……あそこ……」
ふと、それまで後ろを歩いていた匠が立ち止まる。そしてコンサート開場側に視線を向け、眉を顰めた。
夏波が匠の視線を追えば、そこには人だかりができ、何かを囲んでいるようであった。その中には携帯端末を掲げて撮影を行う者も少なく無く、中心に何かがあるのは間違いない。
「……あれ、何なんでしょう」
気にはなる。だが今それを確認している状況でもない気もする。夏波がわたわたと狼狽えていると、その背後から声が投げられた。
「おい」
「おぎゃぁ!!?……あっ、し、志賀さん!?」
「どんな悲鳴だ……」
呆れた様子でそこに立っていたのは、先程置いて行った筈の志賀太陽の姿だった。ポケットに手を入れて立つ彼には、腕の傷以外に目立った外傷は見当たらない。夏波は目を丸くした後、半泣きになって
「良かった……!生きてた……!!」
と志賀に手を伸ばして抱きつこうとした。しかし志賀はその手をサッと避け
「やめろ、大仰すぎる」
と無慈悲に返す。
「大仰じゃないです!拳銃で撃たれて万が一があったらって、僕……」
「別に何ともなかったんだ。そんなんで泣くな」
「そんなんじゃないし……まだギリ泣いてないですし……」
目をぐしぐしと擦って涙を拭い去った。最悪の想定が頭の中を巡り続けていた反動で、安堵の涙が出てしまうのだ。隣に立つ伊霧匠も表情を柔らかくし、ほっと息をついている。が、当の本人の表情は相変わらず厳しいままだ。
「悪いが、アイツは取り逃した。安心できる状況じゃない」
「えぇ……あの状況から捕まえるつもりだったんですか?」
「? 当たり前だろ。銃刀法と殺人未遂で現逮できたんだ」
「問題はそこじゃない気がしますけど……」
現行犯か否かの前に、拳銃を向ける相手を丸腰で捕まえようとするのは如何なものか。志賀の無謀とも言える行動に、夏波はううんと唸らざるを得なかった。しかし志賀はさも当然といった様相で夏波の言葉を受け流す。
「あれは……何かあったのか?」
その視線の先は、匠の見つけた人だかりだ。
「分かりません、僕たちも今来たところで……って、ちょっと!?」
夏波が答えを言い切る前に、志賀はとっととそちらへ足を向けてしまった。夏波は側に立つ伊霧匠と目を合わせ、一先ず人混みの近くまで歩みを寄せる。
「う……」
近づくにつれ、酷い匂いが鼻をついた。真っ先に分かるのは鉄の臭い。けれどそればかりではない。後追いで、汚物や生ごみを全てかき混ぜたような喉に来る臭さに襲われるのだ。
一体何があれば街中でこの様な臭いが発されるのだろうか。確認したいところだが、まさか匠を置いていく訳にも、人混みの中に連れて行く訳にもいかない。
「はーい、ちょっと通してねー」
ふと、背後から突然現れた警官が、人混みに向かって声をかけた。サイレンの音も無くパトカーが見当たらないことから、近場の交番から直接やってきたのだろう。が、夏波の応援に応えたにしてはあまりにも装備が軽すぎる。
人々は警官の声に気づくと、自然と彼の為に道を開けていった。その隙間から見えた光景に、夏波と匠は息を呑む。
赤く染まり切った地面の上で、女性が泣いている。我を失って、ただそれだけに終始しているかの様に、ひたすら地面に縋りついて泣いていた。
その掌と左半身は血に塗れていたが、彼女自身の血液では無いのだろう。
何が起こったかなど、その一瞬では判断しようもない。けれど夏波の胸には確かな確信があった。
――能力だ
仙台の夜の街には、遠くサイレンの音が鳴り響いている。
「今の、何なんすか」
「ぼ、僕も、全然。ただ、危ない人って、事だけ」
呼吸を整えつつ、夏波は「取り敢えず、人呼ばないと」とポケットから携帯端末を取り出す。
「大丈夫……なんですか、あの人」
「……うん、大丈夫」
それは半ば希望的な答えでもある。逃げている間に、夏波の耳には銃声らしい音が届いていた。志賀に向けて発砲されたのだと思えば胸が竦む。けれど伊霧匠を放置して戻る訳にもいかず、かといって連れて戻れば本末転倒だ。
夏波は呼吸を整えながら、嫌な想像を頭から追い出すように何度か首を振った。そうして110番を鳴らすべく指を動かす。しかし
「キャァ――――――――ッ!!」
通話開始のボタンを押す直前、突然女の悲鳴が空に鳴り響いた。それはあまりにもけたたましく、血も凍るような恐怖と怯えを孕んだ声。伊霧匠が怯えた様子で夏波の側に寄り添う程に、尋常では無いものだ。
「な、何、今の……」
「分かんない、ですけど……」
声の響きからは、何処にその女がいるのかは分からない。先程襲われた事実と今の悲鳴でパニックを起こしかけているのか、伊霧匠の呼吸は以前荒いままだった。
「とにかく、もう少し人の多い所に行こう」
頷いた匠と共に、夏波は歩き出す。入力しっぱなしだった110番を繋げ、端的に場所と拳銃を持った人間がいると伝えながら、2人は公園の階段を降りた。
――志賀さん
大丈夫だと信じてはいる。けれどそれは根拠の無い『願い』に近い。そうだと分かりつつ、それでも夏波には必死に祈る事しかできないのだ。
公園から出て程近く、コンサート会場前まで差し掛かると、そこには帰りがけと思われる人々で溢れかえっていた。
「流石にここなら……」
人通りのある街道を歩いてきた事もあるのか、伊霧匠の呼吸は幾分か落ち着いてきている。
これだけの人数がいれば、面と向かって襲われるということもないだろう。
しかし夏波の気持ちは早るばかりだ。できるなら、これから来るであろう警官達に伊霧匠を任せ、志賀の安否確認に向かいたい。しかし誰かに託すまでは伊霧匠を1人にしておきたくもない。気を揉みながら道を覗き込むが、当然パトカーのサイレン音が聞こえてくる気配はなかった。
「夏波さん、……あそこ……」
ふと、それまで後ろを歩いていた匠が立ち止まる。そしてコンサート開場側に視線を向け、眉を顰めた。
夏波が匠の視線を追えば、そこには人だかりができ、何かを囲んでいるようであった。その中には携帯端末を掲げて撮影を行う者も少なく無く、中心に何かがあるのは間違いない。
「……あれ、何なんでしょう」
気にはなる。だが今それを確認している状況でもない気もする。夏波がわたわたと狼狽えていると、その背後から声が投げられた。
「おい」
「おぎゃぁ!!?……あっ、し、志賀さん!?」
「どんな悲鳴だ……」
呆れた様子でそこに立っていたのは、先程置いて行った筈の志賀太陽の姿だった。ポケットに手を入れて立つ彼には、腕の傷以外に目立った外傷は見当たらない。夏波は目を丸くした後、半泣きになって
「良かった……!生きてた……!!」
と志賀に手を伸ばして抱きつこうとした。しかし志賀はその手をサッと避け
「やめろ、大仰すぎる」
と無慈悲に返す。
「大仰じゃないです!拳銃で撃たれて万が一があったらって、僕……」
「別に何ともなかったんだ。そんなんで泣くな」
「そんなんじゃないし……まだギリ泣いてないですし……」
目をぐしぐしと擦って涙を拭い去った。最悪の想定が頭の中を巡り続けていた反動で、安堵の涙が出てしまうのだ。隣に立つ伊霧匠も表情を柔らかくし、ほっと息をついている。が、当の本人の表情は相変わらず厳しいままだ。
「悪いが、アイツは取り逃した。安心できる状況じゃない」
「えぇ……あの状況から捕まえるつもりだったんですか?」
「? 当たり前だろ。銃刀法と殺人未遂で現逮できたんだ」
「問題はそこじゃない気がしますけど……」
現行犯か否かの前に、拳銃を向ける相手を丸腰で捕まえようとするのは如何なものか。志賀の無謀とも言える行動に、夏波はううんと唸らざるを得なかった。しかし志賀はさも当然といった様相で夏波の言葉を受け流す。
「あれは……何かあったのか?」
その視線の先は、匠の見つけた人だかりだ。
「分かりません、僕たちも今来たところで……って、ちょっと!?」
夏波が答えを言い切る前に、志賀はとっととそちらへ足を向けてしまった。夏波は側に立つ伊霧匠と目を合わせ、一先ず人混みの近くまで歩みを寄せる。
「う……」
近づくにつれ、酷い匂いが鼻をついた。真っ先に分かるのは鉄の臭い。けれどそればかりではない。後追いで、汚物や生ごみを全てかき混ぜたような喉に来る臭さに襲われるのだ。
一体何があれば街中でこの様な臭いが発されるのだろうか。確認したいところだが、まさか匠を置いていく訳にも、人混みの中に連れて行く訳にもいかない。
「はーい、ちょっと通してねー」
ふと、背後から突然現れた警官が、人混みに向かって声をかけた。サイレンの音も無くパトカーが見当たらないことから、近場の交番から直接やってきたのだろう。が、夏波の応援に応えたにしてはあまりにも装備が軽すぎる。
人々は警官の声に気づくと、自然と彼の為に道を開けていった。その隙間から見えた光景に、夏波と匠は息を呑む。
赤く染まり切った地面の上で、女性が泣いている。我を失って、ただそれだけに終始しているかの様に、ひたすら地面に縋りついて泣いていた。
その掌と左半身は血に塗れていたが、彼女自身の血液では無いのだろう。
何が起こったかなど、その一瞬では判断しようもない。けれど夏波の胸には確かな確信があった。
――能力だ
仙台の夜の街には、遠くサイレンの音が鳴り響いている。