2-3 本物
文字数 6,943文字
事の顛末を聞いた志賀は、正しく鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした後、すぐにぶすくれた表情に戻った。
「……で、連絡は来たが、未だ怖くて返信できてないと」
「はい……」
「雑魚かよ」
志賀の鋭い一言に、夏波は「う」とだけ発して項垂れた。
多くの人間が慌ただしく動いている光景を眺めた後、志賀は藍色の帽子を被り直してから壁にもたれかかった。
「まさか、今日を待たずに接触したとはな」
「想定外過ぎて、何が何やら……」
夏波は背筋を伸ばして立ちつつも、白い鉄骨とガラスで構成されたアトリウムをぼんやりと見上げる。
高い天井に全面ガラス張りの窓と開放感あふれるこの空間は、アエルと呼ばれる複合商業施設のエントランス部分にあたる。先程からこの場には大量の物品が搬入され、見る間にイベント会場らしい装いを作り上げていた。
『近々、ミツキが仙台に来るわ』
あの日、特殊対策室で宮藤は言った。
『宮城のテレビ番組がミツキを呼ぶらしいのよ。で、私のツテにそのテレビ局関係者がいるから、ウチから警備を派遣しましょうかって前々から打診してたの。そしたら昨日、急遽ではあるけどって正式に依頼が届いたわ』
宮藤がそこで志賀と夏波に求めたのは二つ。一つはその番組における美月幸平の警護。もう一つが美月幸平への協力要請だ。
“能力”についての情報が圧倒的に足りない以上、協力を求めやすい人間には積極的に求めた方が良い。そう話す宮藤に、志賀も特に反論はないようだった。
結果、今日ばかりは私服警官というわけにもいかず、夏波は警察らしい藍色の活動服に指定の黒手袋を着けてきた訳だが
「なんだ」
「あ、いえ……」
志賀に視線を送ったのは一瞬だ。しかしそれでも即気づかれて夏波は志賀から目を背ける。
意外だった。活動帽を目深に被ってはいるものの、志賀は夏波と似たような警察の活動服に身を包んでいるのである。今朝夏波が出勤した時は金髪パーカー姿だったので、それで出るのだろうと勝手に思い込んでいた。だが、今の彼は髪も黒染めし――恐らくスプレーか何かを使っているのだろう――藍色の活動服を着崩したりもしていない。この格好であれば警察か否かを疑われることは無いだろう。が、顔が見えないので、かなり怪しさはある。
「すみません、お待たせしました!」
ぱたぱたと足音を立て、スーツ姿の男性が二人の前に駆けてきた。夏波は改めて背筋を伸ばしたが、志賀は壁にもたれかかったまま動く素振りを見せすらしない。
「直前の打ち合わせが立て込んでしまいまして。あ、これどうぞ」
胸ポケットから名刺入れを取り出し、やってきた男は夏波と志賀のそれぞれに名刺を差し出す。右下にオレンジの犬型キャラクターが印刷された、シンプルなものだ。
「ミヤギテレビの田島と申します。今回お二方が番組の警護をしてくれるとお聴きしましたが……」
「はい。青葉中央警察署から参りました、夏波です。……で、こちらは志賀と申します。よろしくお願いします」
自分の自己紹介だけで終えようかとも思ったが、思い直して志賀の名前まで一気に告げた。案の定と言うべきか、志賀はペコリと頭を下げるだけで口を開く気配はない。
「こちら、今日のスケジュールです。最初ここでオープニングを撮って、それから仙台の街を歩き、最後にここに戻ってくるというものになります。お二方には警察車両で着いてきていただく形になるかと」
田島と名乗った男は、ぺらぺらと早口で今回の企画内容を説明する。要は、美月幸平が数年前に主役を演じた映画に出てきたスポットを本人が回って観光する、というものらしい。
スケジュール内容や車両で追従して警備を行う事などは、事前に宮藤から聞いていた通りだ。
「では、もうそろそろ始まりますので。よろしくお願い致します」
田島は会釈をすると、他の社員やスタッフに声をかけに走ってゆく。夏波がほっと息をつくと同時に、ポケットの中に入れた端末が揺れたような気がして、夏波はこっそりと画面を半分だけポケットから出して確認した。
――どうしよう
端末は、美月幸平から新着メッセージが入っている事を知らせている。
昨日、彼は『どうしても外せない用事がある』と言って改札の奥へ消えていった。プチパニックを起した夏波は、その後全速力で家に逃げ帰り、布団の中で震えて思い悩んでいる間に寝こけたのだ。そのせいで、夜のうちに届いていた美月幸平からのメッセージを開くタイミングを失い、今に至る。
何が送られているのか見るのが怖い、と志賀には話したが、この後どうせ顔を会わせることを知っている身としては、なんと返していいのか分からない、と言ったほうが適切なのかもしれない。
よし、もうここまで来たら『見てない』って事にして接しよう。夏波がそう決意を固めたタイミングで、志賀がぼそりと
「行くぞ」
と声をかけて歩き出した。
テレビ局の人員が続々と配置に付き始め、この場には徐々に観衆が集まってきている。慌てて志賀の後を歩き、夏波は関係者以外が立ち入らないよう張らされたテープの前に立った。
集まった人々は、ぱっと見た印象では若者が多い。だが、中には高齢の女性の姿や、仕事中と思わしきスーツ姿の中年男性なども含まれていた。事前に告知されていたイベントというわけではないので、恐らく彼らは美月の純粋なファンというよりも、名前を見かけて寄って来た野次馬に近いのだろう。だが、平日の真昼間だというのに、集まった人々がその場を離れる様子はない。時間が経つほどに人は増える。
「あっ、ミツキー!!」
持ち場についてしばらく。夏波の目の前にいた大学生程の女性達が黄色い歓声を上げた。ちらりと、夏波は一瞬だけ背後を振り返り、「うわ」と思わず出かけた声を咄嗟に飲み込む。何事もなかったかのように前を向いて、再び防波堤としての役割に徹するが、内心は感心の嵐だ。
一瞬だけ視界の端に捉えたミツキの顔は、動画で見たまま、といってしまえば間違いない。しかし、現実にあれだけ顔立ちの整った人間を目にするとため息すら出てしまう。優しげな目つきとほっそりした体格は、少なくとも夏波はお目にかかったことがないほど洗練されているように感じた。
やっぱ、芸能人ってオーラあるなぁ。などという感想を抱くのは、昨日自分が一度出会っている事実から全速力で目を背けているからである。
歓声は次第に止み、椅子を引くようなガタガタという音が鳴り響いた。そしてテレビ局スタッフの掛け声。背後で収録が始まったようだ。
「仙台は5年ぶりなんです。楽しみですね」
朗らかに話す声を聞いて、ああそうだったと思い返した。
この声は間違いなく昨日聞いた青年の声だ。とすると、やはり今ポケットの中に入りっぱなしの通知は、背後で話している人物のものからなのだ。夏波が軽い頭痛にじっと耐えているうちに、話はインタビュー調で進んでいき、やがて“超能力”の話に移行した。
「すごいよねぇ。手品とかじゃないんでしょ?」
「ええ、違いますよ」
爽やかな声で否定する。
「やってみましょうか」
観衆がざわついた。テープの向こう側で、首を伸ばしたりつま先立ちになる者が目に見えて増える。
「すみません、そこのおまわりさん」
はて、と夏波は一瞬呆気にとられた。この場にはテレビ局の警備員は大勢いれど、警官と分かるのは警察の腕章を肩につけている自分と、それから志賀の二人しかいない。嫌な予感に振り向けば、舞台の近くに立っていた志賀の元に、テレビカメラとミツキの視線が向いていた。ミツキはニコリと眩しすぎる笑顔を浮かべ、口振りだけは申し訳無さそうに志賀に向けて言う。
「すみませんが、その帽子を貸していただけませんか?」
確かに、腕章までつけている警察官であればサクラを疑われない、という魂胆なのだろう。
でも、どうしてよりにもよって志賀さんに。
はかはかと夏波が状況を見守る中、しかし志賀は存外あっさりと頷いた。
「……自分の姿は映さないよう願います」
軍人じみた口調でテレビカメラに睨みをきかせる。カメラマンは気圧されつつも承諾し、志賀の手元だけを映すように場所を移動した。
誰もが押し黙って見守る中、志賀はミツキの元まで歩み、帽子を脱いで手渡す。夏波の正面の少女達が「え、あの警察官めっちゃかわいー、小さくて」と笑っていたのは、この際聞かなかったことにした。
ミツキはお礼を言ってそれを受け取ると、自らの右手につけていた白い手袋を取り去る。そして帽子を右手に持ち変えると、ひょいと志賀の背後に向けて放り投げた。
群衆がどよめく。そして歓声。中には若干の悲鳴も含まれていたようにも聞こえた。志賀が被っていたはずの帽子は、ふわりふわりと宙に浮かび上がり、そして床から1.5メートル程の高さの場所を漂ったのだ。
ひな壇にいた芸能人が、オーバーリアクションをとりながら浮いた帽子を触りに行く。
「ホントに浮いてるよ!すごいねぇ、ミツキ君!」
ミツキは照れ臭そうに笑い、再び手袋をはめ直した。しばらくふわふわと宙空を浮かんでいた帽子は、やがて重力を思い出したかのようにストンと床に落ちる。拾い上げ、ゴミを叩き落としてから、志賀は無言でまた帽子を目深に被った。
「どうでしたか、おまわりさん。びっくりしました?」
いたずらっぽい笑みだと夏波は感じた。最初に見た動画とは180度違う、余裕のある笑顔。歩き出していた志賀は足を止めて、
「ええ、とても」
と、とても感情があるとは思えない声で告げてから、淡々と持ち場に戻った。
その後は“超能力”の話をしつつも、つつがなく番組は進行していく。しばらくの後 、オープニングを撮り終えた彼らは「仙台の街へ繰り出そう」という台詞を残してその場を退出したようだった。ミツキの姿が奥へと消えると同時。或いはその少し前くらいから、大勢集まっていた観衆が一人、また一人と街へ戻っていく。
「あっ、次予定通りなので、よろしくお願いします!」
通行止めにしていた紐を取り払っていた夏波に、先ほどのテレビ局員が一言だけ声をかけて走り去った。
この後は、仙台の観光スポットをミツキの乗るクルマの跡を追いかけながら回ることになる。どうせ今回も運転するのは僕なんだろうな、と思いながら車に向かおうとしたところで
「確定だ」
「うわっ、びっくりした!」
不意に隣から志賀の声。夏波はビクついて声を上げたが、志賀はお構いなしに夏波の横を通り過ぎて先を歩いた。
「え、えと、何がですか?」
数歩駆け足で志賀の隣に立ってから夏波は問いかける。志賀は歩きながらも、ジロリと夏波を見上げた。
「“能力者”で間違いない。手品やヤラセなんかじゃない、本物だ」
「あの……それってまずいんじゃないですか……?」
「何がだ」
不思議そうに志賀は質問を打ち返した。夏波は「え」と困惑した声をあげる。
「いやだって、世間に“能力”が知れ渡ったら困るんじゃ……」
「何で困るんだ?」
志賀はなおも不思議そうに首を傾げた。
「俺達は別に、“能力”の存在を隠したいとは思っていないが」
「え、そうなんですか?」
てっきり隠すべきことなのかと思い込んでいた夏波にとって、志賀の返答は意外なものだった。だが確かに、志賀や宮藤は“能力”を忌避してはいるものの、秘匿しようとしている素振りはない。
建物の奥へと進んでいた志賀が、ふと立ち止まった。視線の先を追えば、通路上でスタッフと談笑しているミツキの姿がそこにある。志賀はそれを遠巻きに眺めながら、夏波の疑問に滔々と答えた。
「“能力”についての正しい理解が得られるのなら、むしろ広まった方が良い。不注意による被害が減るし、俺達も仕事がやりやすくなる」
「まあ、確かに……? でも、それなら警察が“能力”の存在を公表して注意喚起するとかすれば良いんじゃ……」
「お前、警察がいきなり『“超能力者”に気をつけてください』って言い始めたらどう思う」
んー、と少し考えてから
「警察も冗談言うんだなぁって思いますね」
「呑気だな、お前は……」
志賀はため息をついて続けた。
「要は、大々的に公表できる程、俺達は“能力”について知っている訳でも、説明できる訳でもないって事だ。中途半端な注意喚起程、混乱を招く」
志賀の話では、警視庁と大阪府警にも特殊対策室は存在しているのだそうだ。しかし、それも宮城と同じ規模の極小さな部署。更に言えば全員が能力者という訳でもないらしく、得られている情報が一番多いのはここ、宮城なのだという。
「言いたくはないが、警察の信用を揺らがせるリスクを犯すほど、被害が出ている訳でもないからな」
「そんな……」
志賀の言葉にうつむいて、夏波は拳を握った。伊霧匠の懇願する声が脳裏に反芻し、ぐ、と喉を絞る。
今回の塩化事件は、大量の人が亡くなったという訳ではない。しかし、伊霧芽郁を始めとして確実に被害者がいるのも事実なのだ。
“能力”の存在がきちんと認知されていれば、減らせた被害もあったかもしれない。そう思えばこそ、確かに“能力”を秘匿する事が悪手のように夏波には感じられた。
「だからこそ、“能力”の存在を着実に浸透させているミツキには、早く協力を求めなきゃならん」
「彼を利用する……って事ですか?」
夏波は眉をひそめる。志賀はそれを目ざとく見つけると「気が引けるか?」とせせら笑った。
「そういう面も無いわけじゃない。が、このまま放置すればミツキにも危害が及びかねんからな。あくまでもこれは能力者の保護だ」
「それはどういう……」
志賀の言葉に夏波が首を傾げる。その直後のことだ。
「あっ!さっきの!」
ぎくり、と夏波は肩を竦めた。近づく足音に思わず踵を返しかけたが、がしりと志賀に服を掴まれ、元の向きに戻される。致し方無く、夏波はせめてもの抵抗として被っていた帽子を目元まで引き下げた。
声の主は先程まで通路の奥で談笑していたミツキだった。彼は誰がどう見ても完璧と称するであろう笑顔を見せながら、志賀の前に駆け寄ってくる。
「あの、さっきはすみませんでした。帽子お借りしたのに、地面に落としてしまって」
「……美月幸平」
志賀がぼそりと名前を呼ぶ。瞬間、夏波の胸に嫌な予感が過ぎった。
いやいや流石に外の人間、それもこれから積もる話がある人間に無礼を働くことはないだろう。
そう思っていた時期が夏波にもあった。
「アンタに話がある。超能力についての大事な話だ。後でで構わんから少し時間を設けろ」
「――え?」
「ストップ!志賀さんストーップ!!」
あまりにも尊大な志賀の発言。ミツキは虚を突かれて動きを止める。流石の夏波も黙っていられず、志賀の肩を掴んで自分の方を向かせた。
「何だ」
「何だじゃありませんよ! なんでそんな上からなんですか!? てかさっきはちゃんと敬語使えてましたよね? 使ってくださいよ?!」
ボリュームを極力絞った夏波の悲鳴に、志賀は僅かに口をまげる。が、彼は渋々といった様子で再びミツキを見上げ、そしてのたまった。
「自分に対して謝罪の気持ちがあるのであれば、後で改めて謝罪の場を設けていただけますか」
「そうはならんだろ……!」
夏波はもう一度志賀を引き止める。
ここに机があったら、両手で拳を作って叩きつけていたところだ。
志賀の表情はやはり変わらない。
「敬語にしたが」
「ガワだけ取り繕えって意味じゃないんですよ……!」
「うるせぇなぁ。ならお前がやれ」
頼み事をする張本人の前でコソコソと話すのは気が引けるが、こればかりは注意せざるを得ない。
恐る恐るミツキの方を振り返れば、青年は困った様に笑顔を崩していた。
「あの、……ボク何かしましたか?」
「ええい、ままよ!」と夏波は腹を括る。屈んで志賀の耳元に寄せていた顔を上げ、背筋をしゃんと伸ばし、夏波はミツキと対峙した。
「すみません。自分達、ミツキさんにお伺いしたいことがあるのです。今はお忙しいと思いますので、また後でお話しに来てもよろしいですか?」
「それは……“超能力”についてのお話なんですか?」
「えっ、ええ……まぁ……」
しどろもどろに夏波が肯定する。すると、ミツキはしばらく躊躇逡巡し、夏波をじっと見つめた。冷や汗が背筋にたらりと流れる。どれくらいの間そうしていたのだろうか。夏波が再び口を開くべきかと思った瞬間
「ミツキ君!そろそろ出るよ!」
ミツキの後ろから女性スタッフの声がした。ミツキははっとして「はーい!今行きます!」と返事をしてから、夏波にもう一度向き合う。
「本当は、警察の方とそのお話するの、怖いので嫌なんです。……でも」
「え」
不意にミツキが一歩夏波に近付いた。これまでだって遠い距離感で話していた訳ではない。それを更に詰められて、夏波は思わず半歩退く。
「貴方となら、……お話しても良いかなって思います」
そう言って、ミツキは夏波の頭に手を伸ばした。あっ、と言う間もなく、深く被っていたはずの帽子が取り払われ、夏波の顔が通路の照明の元に晒される。
「会えて良かったです」
恥ずかしそうに、照れくさそうに笑う彼を前に、夏波はただただ顔を青ざめさせる事しかできなかった。
「……で、連絡は来たが、未だ怖くて返信できてないと」
「はい……」
「雑魚かよ」
志賀の鋭い一言に、夏波は「う」とだけ発して項垂れた。
多くの人間が慌ただしく動いている光景を眺めた後、志賀は藍色の帽子を被り直してから壁にもたれかかった。
「まさか、今日を待たずに接触したとはな」
「想定外過ぎて、何が何やら……」
夏波は背筋を伸ばして立ちつつも、白い鉄骨とガラスで構成されたアトリウムをぼんやりと見上げる。
高い天井に全面ガラス張りの窓と開放感あふれるこの空間は、アエルと呼ばれる複合商業施設のエントランス部分にあたる。先程からこの場には大量の物品が搬入され、見る間にイベント会場らしい装いを作り上げていた。
『近々、ミツキが仙台に来るわ』
あの日、特殊対策室で宮藤は言った。
『宮城のテレビ番組がミツキを呼ぶらしいのよ。で、私のツテにそのテレビ局関係者がいるから、ウチから警備を派遣しましょうかって前々から打診してたの。そしたら昨日、急遽ではあるけどって正式に依頼が届いたわ』
宮藤がそこで志賀と夏波に求めたのは二つ。一つはその番組における美月幸平の警護。もう一つが美月幸平への協力要請だ。
“能力”についての情報が圧倒的に足りない以上、協力を求めやすい人間には積極的に求めた方が良い。そう話す宮藤に、志賀も特に反論はないようだった。
結果、今日ばかりは私服警官というわけにもいかず、夏波は警察らしい藍色の活動服に指定の黒手袋を着けてきた訳だが
「なんだ」
「あ、いえ……」
志賀に視線を送ったのは一瞬だ。しかしそれでも即気づかれて夏波は志賀から目を背ける。
意外だった。活動帽を目深に被ってはいるものの、志賀は夏波と似たような警察の活動服に身を包んでいるのである。今朝夏波が出勤した時は金髪パーカー姿だったので、それで出るのだろうと勝手に思い込んでいた。だが、今の彼は髪も黒染めし――恐らくスプレーか何かを使っているのだろう――藍色の活動服を着崩したりもしていない。この格好であれば警察か否かを疑われることは無いだろう。が、顔が見えないので、かなり怪しさはある。
「すみません、お待たせしました!」
ぱたぱたと足音を立て、スーツ姿の男性が二人の前に駆けてきた。夏波は改めて背筋を伸ばしたが、志賀は壁にもたれかかったまま動く素振りを見せすらしない。
「直前の打ち合わせが立て込んでしまいまして。あ、これどうぞ」
胸ポケットから名刺入れを取り出し、やってきた男は夏波と志賀のそれぞれに名刺を差し出す。右下にオレンジの犬型キャラクターが印刷された、シンプルなものだ。
「ミヤギテレビの田島と申します。今回お二方が番組の警護をしてくれるとお聴きしましたが……」
「はい。青葉中央警察署から参りました、夏波です。……で、こちらは志賀と申します。よろしくお願いします」
自分の自己紹介だけで終えようかとも思ったが、思い直して志賀の名前まで一気に告げた。案の定と言うべきか、志賀はペコリと頭を下げるだけで口を開く気配はない。
「こちら、今日のスケジュールです。最初ここでオープニングを撮って、それから仙台の街を歩き、最後にここに戻ってくるというものになります。お二方には警察車両で着いてきていただく形になるかと」
田島と名乗った男は、ぺらぺらと早口で今回の企画内容を説明する。要は、美月幸平が数年前に主役を演じた映画に出てきたスポットを本人が回って観光する、というものらしい。
スケジュール内容や車両で追従して警備を行う事などは、事前に宮藤から聞いていた通りだ。
「では、もうそろそろ始まりますので。よろしくお願い致します」
田島は会釈をすると、他の社員やスタッフに声をかけに走ってゆく。夏波がほっと息をつくと同時に、ポケットの中に入れた端末が揺れたような気がして、夏波はこっそりと画面を半分だけポケットから出して確認した。
――どうしよう
端末は、美月幸平から新着メッセージが入っている事を知らせている。
昨日、彼は『どうしても外せない用事がある』と言って改札の奥へ消えていった。プチパニックを起した夏波は、その後全速力で家に逃げ帰り、布団の中で震えて思い悩んでいる間に寝こけたのだ。そのせいで、夜のうちに届いていた美月幸平からのメッセージを開くタイミングを失い、今に至る。
何が送られているのか見るのが怖い、と志賀には話したが、この後どうせ顔を会わせることを知っている身としては、なんと返していいのか分からない、と言ったほうが適切なのかもしれない。
よし、もうここまで来たら『見てない』って事にして接しよう。夏波がそう決意を固めたタイミングで、志賀がぼそりと
「行くぞ」
と声をかけて歩き出した。
テレビ局の人員が続々と配置に付き始め、この場には徐々に観衆が集まってきている。慌てて志賀の後を歩き、夏波は関係者以外が立ち入らないよう張らされたテープの前に立った。
集まった人々は、ぱっと見た印象では若者が多い。だが、中には高齢の女性の姿や、仕事中と思わしきスーツ姿の中年男性なども含まれていた。事前に告知されていたイベントというわけではないので、恐らく彼らは美月の純粋なファンというよりも、名前を見かけて寄って来た野次馬に近いのだろう。だが、平日の真昼間だというのに、集まった人々がその場を離れる様子はない。時間が経つほどに人は増える。
「あっ、ミツキー!!」
持ち場についてしばらく。夏波の目の前にいた大学生程の女性達が黄色い歓声を上げた。ちらりと、夏波は一瞬だけ背後を振り返り、「うわ」と思わず出かけた声を咄嗟に飲み込む。何事もなかったかのように前を向いて、再び防波堤としての役割に徹するが、内心は感心の嵐だ。
一瞬だけ視界の端に捉えたミツキの顔は、動画で見たまま、といってしまえば間違いない。しかし、現実にあれだけ顔立ちの整った人間を目にするとため息すら出てしまう。優しげな目つきとほっそりした体格は、少なくとも夏波はお目にかかったことがないほど洗練されているように感じた。
やっぱ、芸能人ってオーラあるなぁ。などという感想を抱くのは、昨日自分が一度出会っている事実から全速力で目を背けているからである。
歓声は次第に止み、椅子を引くようなガタガタという音が鳴り響いた。そしてテレビ局スタッフの掛け声。背後で収録が始まったようだ。
「仙台は5年ぶりなんです。楽しみですね」
朗らかに話す声を聞いて、ああそうだったと思い返した。
この声は間違いなく昨日聞いた青年の声だ。とすると、やはり今ポケットの中に入りっぱなしの通知は、背後で話している人物のものからなのだ。夏波が軽い頭痛にじっと耐えているうちに、話はインタビュー調で進んでいき、やがて“超能力”の話に移行した。
「すごいよねぇ。手品とかじゃないんでしょ?」
「ええ、違いますよ」
爽やかな声で否定する。
「やってみましょうか」
観衆がざわついた。テープの向こう側で、首を伸ばしたりつま先立ちになる者が目に見えて増える。
「すみません、そこのおまわりさん」
はて、と夏波は一瞬呆気にとられた。この場にはテレビ局の警備員は大勢いれど、警官と分かるのは警察の腕章を肩につけている自分と、それから志賀の二人しかいない。嫌な予感に振り向けば、舞台の近くに立っていた志賀の元に、テレビカメラとミツキの視線が向いていた。ミツキはニコリと眩しすぎる笑顔を浮かべ、口振りだけは申し訳無さそうに志賀に向けて言う。
「すみませんが、その帽子を貸していただけませんか?」
確かに、腕章までつけている警察官であればサクラを疑われない、という魂胆なのだろう。
でも、どうしてよりにもよって志賀さんに。
はかはかと夏波が状況を見守る中、しかし志賀は存外あっさりと頷いた。
「……自分の姿は映さないよう願います」
軍人じみた口調でテレビカメラに睨みをきかせる。カメラマンは気圧されつつも承諾し、志賀の手元だけを映すように場所を移動した。
誰もが押し黙って見守る中、志賀はミツキの元まで歩み、帽子を脱いで手渡す。夏波の正面の少女達が「え、あの警察官めっちゃかわいー、小さくて」と笑っていたのは、この際聞かなかったことにした。
ミツキはお礼を言ってそれを受け取ると、自らの右手につけていた白い手袋を取り去る。そして帽子を右手に持ち変えると、ひょいと志賀の背後に向けて放り投げた。
群衆がどよめく。そして歓声。中には若干の悲鳴も含まれていたようにも聞こえた。志賀が被っていたはずの帽子は、ふわりふわりと宙に浮かび上がり、そして床から1.5メートル程の高さの場所を漂ったのだ。
ひな壇にいた芸能人が、オーバーリアクションをとりながら浮いた帽子を触りに行く。
「ホントに浮いてるよ!すごいねぇ、ミツキ君!」
ミツキは照れ臭そうに笑い、再び手袋をはめ直した。しばらくふわふわと宙空を浮かんでいた帽子は、やがて重力を思い出したかのようにストンと床に落ちる。拾い上げ、ゴミを叩き落としてから、志賀は無言でまた帽子を目深に被った。
「どうでしたか、おまわりさん。びっくりしました?」
いたずらっぽい笑みだと夏波は感じた。最初に見た動画とは180度違う、余裕のある笑顔。歩き出していた志賀は足を止めて、
「ええ、とても」
と、とても感情があるとは思えない声で告げてから、淡々と持ち場に戻った。
その後は“超能力”の話をしつつも、つつがなく番組は進行していく。しばらくの
「あっ、次予定通りなので、よろしくお願いします!」
通行止めにしていた紐を取り払っていた夏波に、先ほどのテレビ局員が一言だけ声をかけて走り去った。
この後は、仙台の観光スポットをミツキの乗るクルマの跡を追いかけながら回ることになる。どうせ今回も運転するのは僕なんだろうな、と思いながら車に向かおうとしたところで
「確定だ」
「うわっ、びっくりした!」
不意に隣から志賀の声。夏波はビクついて声を上げたが、志賀はお構いなしに夏波の横を通り過ぎて先を歩いた。
「え、えと、何がですか?」
数歩駆け足で志賀の隣に立ってから夏波は問いかける。志賀は歩きながらも、ジロリと夏波を見上げた。
「“能力者”で間違いない。手品やヤラセなんかじゃない、本物だ」
「あの……それってまずいんじゃないですか……?」
「何がだ」
不思議そうに志賀は質問を打ち返した。夏波は「え」と困惑した声をあげる。
「いやだって、世間に“能力”が知れ渡ったら困るんじゃ……」
「何で困るんだ?」
志賀はなおも不思議そうに首を傾げた。
「俺達は別に、“能力”の存在を隠したいとは思っていないが」
「え、そうなんですか?」
てっきり隠すべきことなのかと思い込んでいた夏波にとって、志賀の返答は意外なものだった。だが確かに、志賀や宮藤は“能力”を忌避してはいるものの、秘匿しようとしている素振りはない。
建物の奥へと進んでいた志賀が、ふと立ち止まった。視線の先を追えば、通路上でスタッフと談笑しているミツキの姿がそこにある。志賀はそれを遠巻きに眺めながら、夏波の疑問に滔々と答えた。
「“能力”についての正しい理解が得られるのなら、むしろ広まった方が良い。不注意による被害が減るし、俺達も仕事がやりやすくなる」
「まあ、確かに……? でも、それなら警察が“能力”の存在を公表して注意喚起するとかすれば良いんじゃ……」
「お前、警察がいきなり『“超能力者”に気をつけてください』って言い始めたらどう思う」
んー、と少し考えてから
「警察も冗談言うんだなぁって思いますね」
「呑気だな、お前は……」
志賀はため息をついて続けた。
「要は、大々的に公表できる程、俺達は“能力”について知っている訳でも、説明できる訳でもないって事だ。中途半端な注意喚起程、混乱を招く」
志賀の話では、警視庁と大阪府警にも特殊対策室は存在しているのだそうだ。しかし、それも宮城と同じ規模の極小さな部署。更に言えば全員が能力者という訳でもないらしく、得られている情報が一番多いのはここ、宮城なのだという。
「言いたくはないが、警察の信用を揺らがせるリスクを犯すほど、被害が出ている訳でもないからな」
「そんな……」
志賀の言葉にうつむいて、夏波は拳を握った。伊霧匠の懇願する声が脳裏に反芻し、ぐ、と喉を絞る。
今回の塩化事件は、大量の人が亡くなったという訳ではない。しかし、伊霧芽郁を始めとして確実に被害者がいるのも事実なのだ。
“能力”の存在がきちんと認知されていれば、減らせた被害もあったかもしれない。そう思えばこそ、確かに“能力”を秘匿する事が悪手のように夏波には感じられた。
「だからこそ、“能力”の存在を着実に浸透させているミツキには、早く協力を求めなきゃならん」
「彼を利用する……って事ですか?」
夏波は眉をひそめる。志賀はそれを目ざとく見つけると「気が引けるか?」とせせら笑った。
「そういう面も無いわけじゃない。が、このまま放置すればミツキにも危害が及びかねんからな。あくまでもこれは能力者の保護だ」
「それはどういう……」
志賀の言葉に夏波が首を傾げる。その直後のことだ。
「あっ!さっきの!」
ぎくり、と夏波は肩を竦めた。近づく足音に思わず踵を返しかけたが、がしりと志賀に服を掴まれ、元の向きに戻される。致し方無く、夏波はせめてもの抵抗として被っていた帽子を目元まで引き下げた。
声の主は先程まで通路の奥で談笑していたミツキだった。彼は誰がどう見ても完璧と称するであろう笑顔を見せながら、志賀の前に駆け寄ってくる。
「あの、さっきはすみませんでした。帽子お借りしたのに、地面に落としてしまって」
「……美月幸平」
志賀がぼそりと名前を呼ぶ。瞬間、夏波の胸に嫌な予感が過ぎった。
いやいや流石に外の人間、それもこれから積もる話がある人間に無礼を働くことはないだろう。
そう思っていた時期が夏波にもあった。
「アンタに話がある。超能力についての大事な話だ。後でで構わんから少し時間を設けろ」
「――え?」
「ストップ!志賀さんストーップ!!」
あまりにも尊大な志賀の発言。ミツキは虚を突かれて動きを止める。流石の夏波も黙っていられず、志賀の肩を掴んで自分の方を向かせた。
「何だ」
「何だじゃありませんよ! なんでそんな上からなんですか!? てかさっきはちゃんと敬語使えてましたよね? 使ってくださいよ?!」
ボリュームを極力絞った夏波の悲鳴に、志賀は僅かに口をまげる。が、彼は渋々といった様子で再びミツキを見上げ、そしてのたまった。
「自分に対して謝罪の気持ちがあるのであれば、後で改めて謝罪の場を設けていただけますか」
「そうはならんだろ……!」
夏波はもう一度志賀を引き止める。
ここに机があったら、両手で拳を作って叩きつけていたところだ。
志賀の表情はやはり変わらない。
「敬語にしたが」
「ガワだけ取り繕えって意味じゃないんですよ……!」
「うるせぇなぁ。ならお前がやれ」
頼み事をする張本人の前でコソコソと話すのは気が引けるが、こればかりは注意せざるを得ない。
恐る恐るミツキの方を振り返れば、青年は困った様に笑顔を崩していた。
「あの、……ボク何かしましたか?」
「ええい、ままよ!」と夏波は腹を括る。屈んで志賀の耳元に寄せていた顔を上げ、背筋をしゃんと伸ばし、夏波はミツキと対峙した。
「すみません。自分達、ミツキさんにお伺いしたいことがあるのです。今はお忙しいと思いますので、また後でお話しに来てもよろしいですか?」
「それは……“超能力”についてのお話なんですか?」
「えっ、ええ……まぁ……」
しどろもどろに夏波が肯定する。すると、ミツキはしばらく躊躇逡巡し、夏波をじっと見つめた。冷や汗が背筋にたらりと流れる。どれくらいの間そうしていたのだろうか。夏波が再び口を開くべきかと思った瞬間
「ミツキ君!そろそろ出るよ!」
ミツキの後ろから女性スタッフの声がした。ミツキははっとして「はーい!今行きます!」と返事をしてから、夏波にもう一度向き合う。
「本当は、警察の方とそのお話するの、怖いので嫌なんです。……でも」
「え」
不意にミツキが一歩夏波に近付いた。これまでだって遠い距離感で話していた訳ではない。それを更に詰められて、夏波は思わず半歩退く。
「貴方となら、……お話しても良いかなって思います」
そう言って、ミツキは夏波の頭に手を伸ばした。あっ、と言う間もなく、深く被っていたはずの帽子が取り払われ、夏波の顔が通路の照明の元に晒される。
「会えて良かったです」
恥ずかしそうに、照れくさそうに笑う彼を前に、夏波はただただ顔を青ざめさせる事しかできなかった。