3-4 ふたりの話
文字数 7,003文字
「あーあーー……」
項垂れた途端、ごつ、と小さなテーブルにおでこがぶつかる。だが夏波はそのまま突っ伏したまま、大きく大きく息を吐き出した。
こじんまりとした一室に置かれたテレビからは、ニュースキャスターが昼のニュースを読み上げている。
「どうしたー?やっぱり苦手な物あった?」
キッチンからひょこりと顔を出すのは村山だ。両手に大皿を持って現れた彼女に気が付くなり、夏波は咄嗟に背筋を伸ばして首を大きく横に振った。
「あ、いや、料理の話じゃないです!」
「そう?もしあったら抜いてあげるから言ってねー」
そうして夏波の目の前に置かれたのは、色鮮やかなキュウリとトマトが添えられた棒々鶏の大皿。そこからさして間を置かず、ボウルに入った人参とツナのサラダやら、ネギダレのかかったカツオのたたきやらが並べられ、あっという間にテーブルの茶色い天板は見えなくなった。
「全部美味しそう……!」
正座をして前のめりになりながら、夏波は並べられた料理の数々に目を輝かせる。
キッチンに戻りがてらの村山が、からからと笑い声を立てていた。
「全部簡単なものばっかだよ?」
「全くそうは見えませんが……」
展開された馳走の数はかなりのものであり、その全てが出来立てだ。同じ手際で料理を並べられる自信は、夏波にはない。
「チューハイは冷蔵庫にあるやつ勝手に取っていいからね。佐助君にたかったから、沢山あるよー」
「たかったって……」
笑顔の村山につられて、夏波の顔も自然と綻んだ。
割り箸と冷えた缶チューハイを夏波に手渡し、村山は夏波の90度隣に腰を下ろす。そして缶のプルタブを引き開け
「それじゃ、夏波の復帰にかんぱーい」
コツンとぶつけ合う。飲み口から喉へ液体を一気に流し込めば、炭酸特有の刺激が喉を覆った。
小気味のいい音を立てて缶をテーブルに置くと、村山は満足そうに息をつく。
「やー、やっぱ世の中カルピスサワーしか勝たんねぇ」
「この前はコークハイが勝ってませんでした?」
「まぁ、世の中喧嘩両成敗って言葉がありますんで」
「もう酔ってます?」
微妙に成立していない会話を繰り広げつつも、村山は満足げだ。
夏波も缶を一口煽ってから、「いただきます!」と元気よく声をかけ、料理に手を付ける。
「――美味しい!」
棒々鶏を口に入れた瞬間、ぱっと夏波の顔が華やいだ。
醤油と塩コショウの味のバランスは絶妙で、噛めば噛むほど鶏肉の旨味がタレと混ざり合う。
夏波は興奮気味に
「村山さん、すごい美味しいです!」
と褒め称えつつ、また別の大皿に箸を伸ばした。
「うんうん、沢山食べな。今日は全部夏波の為に作ったんだよ」
ぱくりと頬張っては噛み締めて、そしてまた口に入れてにこにこと幸せを味わう夏波。
村山は、ぐっと自分のTシャツの左胸部分をわしづかみ、小さく呻いた。
「ホントに愛おしいわーこの子」
しかしその呟きは、料理を堪能している夏波には届かない。
幸せそうな後輩を肴に、村山もちびちびと料理をつまんだ。こうして美味しそうに食べる後輩もなかなか乙な景色である。
一通りの料理に手を付けて空腹を満たした夏波は、ようやっと村山が自分を眺めていることに気づき、顔を赤くした。
「す、すみません、……がっついちゃって……」
「全然。むしろ元気になって良かったなぁって」
村山は笑う。
「せっかくの復帰祝いだし、ホントなら佐助君と三科も呼びたかったんだけどね」
「三科が日勤なのは聞きましたけど、剣さんは……?」
「あの子は本部のお気に入りだからさ。そっちに引っ張られて行っちゃったよ」
かわいそうに、とうそぶく言葉には、同情の色が多分に含まれている。夏波もまた、剣佐助という男が接待下手である事実を思い返して、僅かに苦笑した。
「剣さん、人付合いが得意じゃないっておっしゃってる割には、色んな方に好かれてますよね」
「良い子なのよあの子は」
「親御さん目線の感想だな……」
村山はひょいと口の中に鶏肉を放り込む。
「でも、来年くらいには捜一 の方に行っちゃうんじゃないかなぁ」
「え、そうなんですか?」
「あの子はきっちり出世街道乗ってるからね。皆そろって私のこと置いてっちゃうんだから、もー」
口ぶりは非常に軽いものだが、全くの冗談というわけでもないのだろう。いの一番に機動捜査隊を離れる事になった夏波としては、空笑いを返すことしかできない。
「剣さんと村山さんって、どれくらいの付き合いなんですか?」
「2年半かな。来年も佐助君が機捜にいるなら3年ってとこ」
「そうなんですね」
相槌を打ちつつチューハイを煽る夏波を、村山は不思議そうに見やる。
「というか、むしろ夏波と三科の方が、彼とは付き合い長いんじゃないの?」
「え、どうしてですか?」
「佐助君、機捜に来る前は配属が警察学校だったって聞いてるけど」
飲み込んでいた酒が気道に滑り込み、夏波は何度か咳き込んだ。背中を撫でる村山に礼を述べてから、目を丸くする。
「そうだったんですか!?」
「あれ?知らなかった感じ?」
完全に初耳だ。3年前という事は、剣が25歳――今の夏波と同じ年の頃である。それだけ若い人間が年配の教官の中に混ざっていたら、確実に印象に残るはずだ。
しかし、夏波が剣から指導を受けた事は勿論ないし、何なら見かけた記憶すらない。
「教官じゃなくて、補佐の指導員だったらしいから、事務の人に見えたのかもねー」
「まぁ……それならちょっと分かんないですね……。剣さんから怒鳴られたとかだったら100パー覚えてると思いますし……」
「あっはは!佐助君、怒るとクッソ怖いもんねー」
楽しげに笑い転げる村山。
元々目つきの悪い剣に凄まれると、並大抵の人間は蛇に睨まれた蛙と成り果てる。それは犯人や被疑者も同様のようで、彼と一緒に行動していると、とにかく絡まれる頻度が減るのだそうだ。
女だと見るや否や舐めてくる人間なんてごまんといるから、相勤が剣で助かったと、かつて村山が言っていた。
「にしても、初耳だったとは思わなかったよ」
夏波は大袈裟に首を振りながら、「びっくりしました」と返す。
「三科も驚くと思いますよ」
「あー、それはちょっと現場見たーい」
常にリアクションの大きい三科なら、聞いた瞬間に仰け反るくらいはしてくれそうだ。想像して、二人揃って顔が綻んだ。
「でも確かに、佐助君がその時代の話を自分から話したことはないかも。私も聞いたのは人伝だしねー」
「良い思い出がなかった、とかですかね。指導員とはいえ、僕はあっち側に立つのは絶対無理だなって思うし……」
「指導側も大変だよねぇ。絶対嫌われるって分かっててやるわけだしさ。佐助君も怒るの苦手だからしんどかったのかもね」
警察学校での規律正しい生活には、大抵教官の怒号が付きまとう。時には理不尽な理由で怒られ、監視され、それでも怒られを繰り返していれば、当然教官に好印象は抱けない。
夏波も3年前はずっと『怖い』と怯えながら耐え抜いた記憶があり、彼らが好きかと問われたら、申し訳ないが答えは否だ。
「佐助君が志賀君くらいガンガン行けたら、めちゃくちゃ適任だろうにね」
不意に出てきたその名前に、夏波は思わず顔を伏せた。
村山はそれを見逃さず、すかさず「どしたん?」と声をかける。
「え、いや、特には、なにも……」
「マージで嘘つくの下手だよねぇ、夏波」
あっさりと見抜かれた。
話してご覧よ、と促す村山に、夏波はおずおずと言葉を選びながら口を開く。
「何というか、志賀さんの事なんですけど……」
「だろうね。どしたん?」
「広い意味で気を使われ過ぎてて気まずい、的な……」
何か特別な事があった、という訳ではない。何なら、あまりにも拉致直前の生活に戻りすぎて戸惑うほどだ。
昨日、情報共有をした後、志賀と宮藤は『拉致事件の話』に蓋をした。まるで何事もなかったかのように振る舞って、夏波の追求を許さなかったのだ。
“鯨”や拉致犯の男についても、聞き込み調査は主に志賀が行う事となり、夏波には内勤が言い渡されている。
実質的に『一切関わるな』と言われているようなものだ。
確かに“保護”とは言われているし、これ以上危険に陥らないようにという配慮なのだろうが、これでは殆ど閑職である。
「あー、分かった。つまり過保護すぎると」
敢えて避けていた言葉をピンポイントで当てられて、夏波はがくりと首を落とす。
そう、一言で言うなれば『過保護』だ。夏波には何も知らせず、何もさせず、ただ特殊対策室という箱の中にいろ、と言外に彼らは言っている。
正直夏波にとっては相当不満なのだが、それ自体は彼らの好意なので、反抗するのも気が引けた。
「志賀君、よっぽど夏波の事気に入ったんだねぇ」
「そうなんでしょうか……」
志賀個人が夏波をどうこうというよりも、特殊対策室の業務として必要だから過保護になっているようにも感じられる。
しかし、村山は「分かってないなぁ」と頭 を振ってみせた。
「どうでも良かったら、あんな血相変えて探し回る事――はまぁするかもしれないけど、少なくとも何回もお見舞い行くなんてしないでしょ」
「え?」
素っ頓狂な声が飛ぶ。箸からカツオのたたきがずり落ちて、手首に醤油が跳ねた。慌ててティッシュを借りて拭き取りながら、夏波は訝しげに口を開く。
「お見舞いって……志賀さんが僕の病室に来た事はありませんが……」
「え?」
村山は目を点にした。
「だって、ナースステーションの看護師さんが言ってたよ」
お互いで疑問符を投げあって、顔を見合わせる。
「なんて言ってたんですか?」
「私がお見舞い行った時に志賀君とすれ違ったからさ、看護師さんに『あの人もよく来るんですかー?』って訊いたら、『週に2、3回くらい来ますよー』って」
「週に2、3回!?」
これまでに、ではなく週に、ともなればかなりの頻度だ。夏波の病室近くのナースステーションに覚えられるほどやって来ているくせに、一度も夏波の病室に訪れていないとは、一体何をしていたというのか。
しきりに首を傾げる夏波に、村山は問いかけた。
「え……会ってないの?」
「1回も会ってないですよ?」
「1回も!?何しに来てんねん!?」
夏波と全く同じツッコミを入れた後、村山は「ううむ」と口に出して考え込む。
「夏波と会うのが恥ずかしかった……とか?」
「そんなシャイボーイみたいな理由だったら笑っちゃうな、僕……」
喋れば横暴、黙ればガンをつけて歩く刃物のような少年に、この世で一番に合わない単語が寄り添った。
「いやいや、まあ恥ずかしい……は無いか。でも志賀君的に『容態は気になるし、1回くらいは顔を出そうと思って来てみたはいいけど、何を話せばいいか分からない……』ってなって毎回会えずに帰っちゃってる、とかありそうじゃない?」
「いや、そんな……」
あり得ない、とまでは言わないが、夏波の中の志賀のイメージには合わない。そんな理由なら、夏波と一度会って話さえすれば何度も来ずに済む訳で。合理的な思考を貫く志賀がそんな事するだろうかと、夏波はもう一度首を捻った。
「有り得ると思うけどねー。志賀君、結構繊細に見えるし」
少し面白そうにしながら、村山は中身の空いた缶をテーブルの端に寄せる。そして一度キッチンまで立つと、冷蔵庫から冷えたチューハイをもう1本引っ張り出した。
「夏波はいるー?」
「あ、僕まだ大丈夫です」
カシュ、と缶を開けながら戻ってきて、村山は腰を下ろす。
「夏波的にはどうなの?」
「え?」
「志賀君の事、どう思ってる感じ?」
夏波は思わず口をへの字に曲げて、宙空 へと視線を投じる。
――どう思ってる?
初めは――流石にヤバい奴だと思った。何せまともに顔を合わせるより先に飛び蹴りを食らわされているのだ。
その後だって、急に特殊対策室に引き抜かれたり、使い勝手の良い人質にされたりと扱いは散々だ。横暴で、自分勝手で、挙句の果てには隠し事をされて、突き放されて。そんな振る舞いを受け続けている。
確かに要所要所に気遣いは見えるが、普通の人間ならば彼に悪印象を抱いてもおかしくはない。
だというのに、こうして思い返してみると、夏波は自分でも驚くほど志賀に対して不快感や悪印象を抱いたことがないのだ。
むしろ、彼といる事に居心地の良さを見出している。
志賀に対しては『嫌われるかもしれない』という不安や恐怖が然程生じない、というのが主だった理由ではあるが、最近は分かりやすく夏波の身を案じてくれているのも大きいのかもしれない。
何にせよ、どう思っているのか、と問われるなら、夏波の中での答えは一つだ。
「僕は志賀さんの事好きですけど……」
「うーん、火の玉ストレート」
よしよし、と頭を撫でられるが、その理由は夏波には全く分からない。
「夏波はちょっと、言葉の威力ってのを覚えないと、いつか大変な事になりそうだねぇ」
「大変な事?」
何か不味いことを言ったのか、としょげる夏波に、村山は苦笑をこぼしながら「何でもないよ」と首を振る。
「夏波はさ、誰かと反りが合わないと『自分が悪い』『相手に申し訳無い』って思うタイプでしょ」
「え、……なんで……」
完全に図星を突かれ、夏波は狼狽えた。
確かに間違ってはいなかった。というよりも、それ以外の考え方を知らないのだ。
人付き合いが上手く行かないときは、大抵『自分がもっと上手くやれていれば』と落ち込んだり、或いは夜寝る前に頭の中で一人反省会を開いてしまうことばかりである。
――自分なんて
何がきっかけなのかも、何が原因なのかも分からない罪悪感が、常に胸につきまとうのだ。
価値のない自分なんかが、他者を不快にさせてはいけないと思う。他者に好かれる人間でいなければ、認めてもらえない気がする。
そして、周囲の人間や名も知らぬ他者に認めてもらえない事は、夏波にとって至極恐ろしいことなのだ。それこそ生きる意味を見失うほどに。
幼少期からこの考え方はあまり変わらない。自覚して治そうとしていた時期もあったが、今となっては諦めてしまった。どうにもならない悪癖なのだ。
「まぁ、……そうですね」
「夏波は遠慮し過ぎなんだって。そんな風に考えないでさ、志賀君とちゃんと話をしてみなよ。そんな感じじゃ、ふたりっきりの部署だと息詰まっちゃうでしょ」
「い、一応ふたりじゃないので、フォローはしてもらってるんですけど……」
「え?そうなの?」
伏し目がちに「はい」と答える。
「宮藤署長も特殊対策室所属なんです。兼任なので、たまにいらっしゃるくらいですけど」
宮藤が特殊対策室に顔を出す頻度はそう多くない。だが、彼女が来る度に細やかなフォローを入れているおかげで、現状に対する不満が爆発していない節はある。
本当に志賀と夏波ふたり切りの部署だとしたら、今頃空中分解が起こっている可能性は大だ。
ふと、夏波が伏せていた顔をあげると、いつになく真剣な顔をした村山はじっとアルミ缶を見つめていた。
「村山さん?」
名前を呼べば、彼女は珍しく何か躊躇している様子で視線を泳がせる。
「署長から指示受けてるの?」
その口調にはあからさまな負の感情が含まれており、夏波は驚きを隠せず「え」と声を上げた。
「な、何かあったんですか?」
「いや、……うーん……別に最近何かあった訳じゃないし……」
村山はへどもどと答えながら、困り果てたと言わんばかりに眉を寄せた。真意が掴みきれず、夏波はこてんと首を傾げる。
まさか、あの天真爛漫を絵に書いたような宮藤に対して、こんな反応が来るとは思わなかった。それも、普段他者を悪く言う事がない村山が、だ。
しばらく村山の返答を待つ。逡巡した彼女は、やがて何かを決心したように夏波を見ると、
「何でもないよ」
と首を振った。
「え、いや、その間で何でもないって事はないですよね?!」
この短期間で同じ台詞を2度も言うことになるとは。
しかし村山はまた笑顔を取り戻しながら、手をひらひらと振ってみせた。
「今なんか嫌な事があったりする訳じゃないっしょ?」
「は、はい。特には……」
「んじゃ、大丈夫。……ただまぁ、気にならせたお詫びとして言うと、あの人昔はめちゃくちゃ厳しかったらしいからさ。ちょっと心配になっただけ」
厳しい、とは。宮藤に抱いたことのない感情にまた驚く。
目を丸くした夏波に、村山は複雑そうにしつつ、缶を煽った。
「私も詳しくは知らないし、それに昔の話だよ。だから気にしないのが一番かなって」
間違いなくネガティブな話なのだと分かる。だからこそ、夏波は問いかけたい気持ちを抑え込んだ。
宮藤が過去どんな人物だったのかが気にならない訳ではない。しかし、今の彼女に夏波が救われている事は紛れもない事実なのだ。わざわざ悪い話を聞くのも気が引ける。
それに村山としても、今の宮藤と夏波の関係性が壊れる事を懸念して、『何でもない』と言ったのだろう。
なので、村山がそれとなく話題を逸しても話を戻す気にはなれなかった。
――僕、知らない事ばっかだな
知ろうとしていない訳ではないはずなのに。皆が教えてくれないから、と不貞腐れるつもりはないが、何となく心に靄はかかっている。
胸に溜まった複雑な気持ちを洗い流すように、夏波はアルミ缶をぐいと煽り、酒を流し込んだのだった。
項垂れた途端、ごつ、と小さなテーブルにおでこがぶつかる。だが夏波はそのまま突っ伏したまま、大きく大きく息を吐き出した。
こじんまりとした一室に置かれたテレビからは、ニュースキャスターが昼のニュースを読み上げている。
「どうしたー?やっぱり苦手な物あった?」
キッチンからひょこりと顔を出すのは村山だ。両手に大皿を持って現れた彼女に気が付くなり、夏波は咄嗟に背筋を伸ばして首を大きく横に振った。
「あ、いや、料理の話じゃないです!」
「そう?もしあったら抜いてあげるから言ってねー」
そうして夏波の目の前に置かれたのは、色鮮やかなキュウリとトマトが添えられた棒々鶏の大皿。そこからさして間を置かず、ボウルに入った人参とツナのサラダやら、ネギダレのかかったカツオのたたきやらが並べられ、あっという間にテーブルの茶色い天板は見えなくなった。
「全部美味しそう……!」
正座をして前のめりになりながら、夏波は並べられた料理の数々に目を輝かせる。
キッチンに戻りがてらの村山が、からからと笑い声を立てていた。
「全部簡単なものばっかだよ?」
「全くそうは見えませんが……」
展開された馳走の数はかなりのものであり、その全てが出来立てだ。同じ手際で料理を並べられる自信は、夏波にはない。
「チューハイは冷蔵庫にあるやつ勝手に取っていいからね。佐助君にたかったから、沢山あるよー」
「たかったって……」
笑顔の村山につられて、夏波の顔も自然と綻んだ。
割り箸と冷えた缶チューハイを夏波に手渡し、村山は夏波の90度隣に腰を下ろす。そして缶のプルタブを引き開け
「それじゃ、夏波の復帰にかんぱーい」
コツンとぶつけ合う。飲み口から喉へ液体を一気に流し込めば、炭酸特有の刺激が喉を覆った。
小気味のいい音を立てて缶をテーブルに置くと、村山は満足そうに息をつく。
「やー、やっぱ世の中カルピスサワーしか勝たんねぇ」
「この前はコークハイが勝ってませんでした?」
「まぁ、世の中喧嘩両成敗って言葉がありますんで」
「もう酔ってます?」
微妙に成立していない会話を繰り広げつつも、村山は満足げだ。
夏波も缶を一口煽ってから、「いただきます!」と元気よく声をかけ、料理に手を付ける。
「――美味しい!」
棒々鶏を口に入れた瞬間、ぱっと夏波の顔が華やいだ。
醤油と塩コショウの味のバランスは絶妙で、噛めば噛むほど鶏肉の旨味がタレと混ざり合う。
夏波は興奮気味に
「村山さん、すごい美味しいです!」
と褒め称えつつ、また別の大皿に箸を伸ばした。
「うんうん、沢山食べな。今日は全部夏波の為に作ったんだよ」
ぱくりと頬張っては噛み締めて、そしてまた口に入れてにこにこと幸せを味わう夏波。
村山は、ぐっと自分のTシャツの左胸部分をわしづかみ、小さく呻いた。
「ホントに愛おしいわーこの子」
しかしその呟きは、料理を堪能している夏波には届かない。
幸せそうな後輩を肴に、村山もちびちびと料理をつまんだ。こうして美味しそうに食べる後輩もなかなか乙な景色である。
一通りの料理に手を付けて空腹を満たした夏波は、ようやっと村山が自分を眺めていることに気づき、顔を赤くした。
「す、すみません、……がっついちゃって……」
「全然。むしろ元気になって良かったなぁって」
村山は笑う。
「せっかくの復帰祝いだし、ホントなら佐助君と三科も呼びたかったんだけどね」
「三科が日勤なのは聞きましたけど、剣さんは……?」
「あの子は本部のお気に入りだからさ。そっちに引っ張られて行っちゃったよ」
かわいそうに、とうそぶく言葉には、同情の色が多分に含まれている。夏波もまた、剣佐助という男が接待下手である事実を思い返して、僅かに苦笑した。
「剣さん、人付合いが得意じゃないっておっしゃってる割には、色んな方に好かれてますよね」
「良い子なのよあの子は」
「親御さん目線の感想だな……」
村山はひょいと口の中に鶏肉を放り込む。
「でも、来年くらいには
「え、そうなんですか?」
「あの子はきっちり出世街道乗ってるからね。皆そろって私のこと置いてっちゃうんだから、もー」
口ぶりは非常に軽いものだが、全くの冗談というわけでもないのだろう。いの一番に機動捜査隊を離れる事になった夏波としては、空笑いを返すことしかできない。
「剣さんと村山さんって、どれくらいの付き合いなんですか?」
「2年半かな。来年も佐助君が機捜にいるなら3年ってとこ」
「そうなんですね」
相槌を打ちつつチューハイを煽る夏波を、村山は不思議そうに見やる。
「というか、むしろ夏波と三科の方が、彼とは付き合い長いんじゃないの?」
「え、どうしてですか?」
「佐助君、機捜に来る前は配属が警察学校だったって聞いてるけど」
飲み込んでいた酒が気道に滑り込み、夏波は何度か咳き込んだ。背中を撫でる村山に礼を述べてから、目を丸くする。
「そうだったんですか!?」
「あれ?知らなかった感じ?」
完全に初耳だ。3年前という事は、剣が25歳――今の夏波と同じ年の頃である。それだけ若い人間が年配の教官の中に混ざっていたら、確実に印象に残るはずだ。
しかし、夏波が剣から指導を受けた事は勿論ないし、何なら見かけた記憶すらない。
「教官じゃなくて、補佐の指導員だったらしいから、事務の人に見えたのかもねー」
「まぁ……それならちょっと分かんないですね……。剣さんから怒鳴られたとかだったら100パー覚えてると思いますし……」
「あっはは!佐助君、怒るとクッソ怖いもんねー」
楽しげに笑い転げる村山。
元々目つきの悪い剣に凄まれると、並大抵の人間は蛇に睨まれた蛙と成り果てる。それは犯人や被疑者も同様のようで、彼と一緒に行動していると、とにかく絡まれる頻度が減るのだそうだ。
女だと見るや否や舐めてくる人間なんてごまんといるから、相勤が剣で助かったと、かつて村山が言っていた。
「にしても、初耳だったとは思わなかったよ」
夏波は大袈裟に首を振りながら、「びっくりしました」と返す。
「三科も驚くと思いますよ」
「あー、それはちょっと現場見たーい」
常にリアクションの大きい三科なら、聞いた瞬間に仰け反るくらいはしてくれそうだ。想像して、二人揃って顔が綻んだ。
「でも確かに、佐助君がその時代の話を自分から話したことはないかも。私も聞いたのは人伝だしねー」
「良い思い出がなかった、とかですかね。指導員とはいえ、僕はあっち側に立つのは絶対無理だなって思うし……」
「指導側も大変だよねぇ。絶対嫌われるって分かっててやるわけだしさ。佐助君も怒るの苦手だからしんどかったのかもね」
警察学校での規律正しい生活には、大抵教官の怒号が付きまとう。時には理不尽な理由で怒られ、監視され、それでも怒られを繰り返していれば、当然教官に好印象は抱けない。
夏波も3年前はずっと『怖い』と怯えながら耐え抜いた記憶があり、彼らが好きかと問われたら、申し訳ないが答えは否だ。
「佐助君が志賀君くらいガンガン行けたら、めちゃくちゃ適任だろうにね」
不意に出てきたその名前に、夏波は思わず顔を伏せた。
村山はそれを見逃さず、すかさず「どしたん?」と声をかける。
「え、いや、特には、なにも……」
「マージで嘘つくの下手だよねぇ、夏波」
あっさりと見抜かれた。
話してご覧よ、と促す村山に、夏波はおずおずと言葉を選びながら口を開く。
「何というか、志賀さんの事なんですけど……」
「だろうね。どしたん?」
「広い意味で気を使われ過ぎてて気まずい、的な……」
何か特別な事があった、という訳ではない。何なら、あまりにも拉致直前の生活に戻りすぎて戸惑うほどだ。
昨日、情報共有をした後、志賀と宮藤は『拉致事件の話』に蓋をした。まるで何事もなかったかのように振る舞って、夏波の追求を許さなかったのだ。
“鯨”や拉致犯の男についても、聞き込み調査は主に志賀が行う事となり、夏波には内勤が言い渡されている。
実質的に『一切関わるな』と言われているようなものだ。
確かに“保護”とは言われているし、これ以上危険に陥らないようにという配慮なのだろうが、これでは殆ど閑職である。
「あー、分かった。つまり過保護すぎると」
敢えて避けていた言葉をピンポイントで当てられて、夏波はがくりと首を落とす。
そう、一言で言うなれば『過保護』だ。夏波には何も知らせず、何もさせず、ただ特殊対策室という箱の中にいろ、と言外に彼らは言っている。
正直夏波にとっては相当不満なのだが、それ自体は彼らの好意なので、反抗するのも気が引けた。
「志賀君、よっぽど夏波の事気に入ったんだねぇ」
「そうなんでしょうか……」
志賀個人が夏波をどうこうというよりも、特殊対策室の業務として必要だから過保護になっているようにも感じられる。
しかし、村山は「分かってないなぁ」と
「どうでも良かったら、あんな血相変えて探し回る事――はまぁするかもしれないけど、少なくとも何回もお見舞い行くなんてしないでしょ」
「え?」
素っ頓狂な声が飛ぶ。箸からカツオのたたきがずり落ちて、手首に醤油が跳ねた。慌ててティッシュを借りて拭き取りながら、夏波は訝しげに口を開く。
「お見舞いって……志賀さんが僕の病室に来た事はありませんが……」
「え?」
村山は目を点にした。
「だって、ナースステーションの看護師さんが言ってたよ」
お互いで疑問符を投げあって、顔を見合わせる。
「なんて言ってたんですか?」
「私がお見舞い行った時に志賀君とすれ違ったからさ、看護師さんに『あの人もよく来るんですかー?』って訊いたら、『週に2、3回くらい来ますよー』って」
「週に2、3回!?」
これまでに、ではなく週に、ともなればかなりの頻度だ。夏波の病室近くのナースステーションに覚えられるほどやって来ているくせに、一度も夏波の病室に訪れていないとは、一体何をしていたというのか。
しきりに首を傾げる夏波に、村山は問いかけた。
「え……会ってないの?」
「1回も会ってないですよ?」
「1回も!?何しに来てんねん!?」
夏波と全く同じツッコミを入れた後、村山は「ううむ」と口に出して考え込む。
「夏波と会うのが恥ずかしかった……とか?」
「そんなシャイボーイみたいな理由だったら笑っちゃうな、僕……」
喋れば横暴、黙ればガンをつけて歩く刃物のような少年に、この世で一番に合わない単語が寄り添った。
「いやいや、まあ恥ずかしい……は無いか。でも志賀君的に『容態は気になるし、1回くらいは顔を出そうと思って来てみたはいいけど、何を話せばいいか分からない……』ってなって毎回会えずに帰っちゃってる、とかありそうじゃない?」
「いや、そんな……」
あり得ない、とまでは言わないが、夏波の中の志賀のイメージには合わない。そんな理由なら、夏波と一度会って話さえすれば何度も来ずに済む訳で。合理的な思考を貫く志賀がそんな事するだろうかと、夏波はもう一度首を捻った。
「有り得ると思うけどねー。志賀君、結構繊細に見えるし」
少し面白そうにしながら、村山は中身の空いた缶をテーブルの端に寄せる。そして一度キッチンまで立つと、冷蔵庫から冷えたチューハイをもう1本引っ張り出した。
「夏波はいるー?」
「あ、僕まだ大丈夫です」
カシュ、と缶を開けながら戻ってきて、村山は腰を下ろす。
「夏波的にはどうなの?」
「え?」
「志賀君の事、どう思ってる感じ?」
夏波は思わず口をへの字に曲げて、
――どう思ってる?
初めは――流石にヤバい奴だと思った。何せまともに顔を合わせるより先に飛び蹴りを食らわされているのだ。
その後だって、急に特殊対策室に引き抜かれたり、使い勝手の良い人質にされたりと扱いは散々だ。横暴で、自分勝手で、挙句の果てには隠し事をされて、突き放されて。そんな振る舞いを受け続けている。
確かに要所要所に気遣いは見えるが、普通の人間ならば彼に悪印象を抱いてもおかしくはない。
だというのに、こうして思い返してみると、夏波は自分でも驚くほど志賀に対して不快感や悪印象を抱いたことがないのだ。
むしろ、彼といる事に居心地の良さを見出している。
志賀に対しては『嫌われるかもしれない』という不安や恐怖が然程生じない、というのが主だった理由ではあるが、最近は分かりやすく夏波の身を案じてくれているのも大きいのかもしれない。
何にせよ、どう思っているのか、と問われるなら、夏波の中での答えは一つだ。
「僕は志賀さんの事好きですけど……」
「うーん、火の玉ストレート」
よしよし、と頭を撫でられるが、その理由は夏波には全く分からない。
「夏波はちょっと、言葉の威力ってのを覚えないと、いつか大変な事になりそうだねぇ」
「大変な事?」
何か不味いことを言ったのか、としょげる夏波に、村山は苦笑をこぼしながら「何でもないよ」と首を振る。
「夏波はさ、誰かと反りが合わないと『自分が悪い』『相手に申し訳無い』って思うタイプでしょ」
「え、……なんで……」
完全に図星を突かれ、夏波は狼狽えた。
確かに間違ってはいなかった。というよりも、それ以外の考え方を知らないのだ。
人付き合いが上手く行かないときは、大抵『自分がもっと上手くやれていれば』と落ち込んだり、或いは夜寝る前に頭の中で一人反省会を開いてしまうことばかりである。
――自分なんて
何がきっかけなのかも、何が原因なのかも分からない罪悪感が、常に胸につきまとうのだ。
価値のない自分なんかが、他者を不快にさせてはいけないと思う。他者に好かれる人間でいなければ、認めてもらえない気がする。
そして、周囲の人間や名も知らぬ他者に認めてもらえない事は、夏波にとって至極恐ろしいことなのだ。それこそ生きる意味を見失うほどに。
幼少期からこの考え方はあまり変わらない。自覚して治そうとしていた時期もあったが、今となっては諦めてしまった。どうにもならない悪癖なのだ。
「まぁ、……そうですね」
「夏波は遠慮し過ぎなんだって。そんな風に考えないでさ、志賀君とちゃんと話をしてみなよ。そんな感じじゃ、ふたりっきりの部署だと息詰まっちゃうでしょ」
「い、一応ふたりじゃないので、フォローはしてもらってるんですけど……」
「え?そうなの?」
伏し目がちに「はい」と答える。
「宮藤署長も特殊対策室所属なんです。兼任なので、たまにいらっしゃるくらいですけど」
宮藤が特殊対策室に顔を出す頻度はそう多くない。だが、彼女が来る度に細やかなフォローを入れているおかげで、現状に対する不満が爆発していない節はある。
本当に志賀と夏波ふたり切りの部署だとしたら、今頃空中分解が起こっている可能性は大だ。
ふと、夏波が伏せていた顔をあげると、いつになく真剣な顔をした村山はじっとアルミ缶を見つめていた。
「村山さん?」
名前を呼べば、彼女は珍しく何か躊躇している様子で視線を泳がせる。
「署長から指示受けてるの?」
その口調にはあからさまな負の感情が含まれており、夏波は驚きを隠せず「え」と声を上げた。
「な、何かあったんですか?」
「いや、……うーん……別に最近何かあった訳じゃないし……」
村山はへどもどと答えながら、困り果てたと言わんばかりに眉を寄せた。真意が掴みきれず、夏波はこてんと首を傾げる。
まさか、あの天真爛漫を絵に書いたような宮藤に対して、こんな反応が来るとは思わなかった。それも、普段他者を悪く言う事がない村山が、だ。
しばらく村山の返答を待つ。逡巡した彼女は、やがて何かを決心したように夏波を見ると、
「何でもないよ」
と首を振った。
「え、いや、その間で何でもないって事はないですよね?!」
この短期間で同じ台詞を2度も言うことになるとは。
しかし村山はまた笑顔を取り戻しながら、手をひらひらと振ってみせた。
「今なんか嫌な事があったりする訳じゃないっしょ?」
「は、はい。特には……」
「んじゃ、大丈夫。……ただまぁ、気にならせたお詫びとして言うと、あの人昔はめちゃくちゃ厳しかったらしいからさ。ちょっと心配になっただけ」
厳しい、とは。宮藤に抱いたことのない感情にまた驚く。
目を丸くした夏波に、村山は複雑そうにしつつ、缶を煽った。
「私も詳しくは知らないし、それに昔の話だよ。だから気にしないのが一番かなって」
間違いなくネガティブな話なのだと分かる。だからこそ、夏波は問いかけたい気持ちを抑え込んだ。
宮藤が過去どんな人物だったのかが気にならない訳ではない。しかし、今の彼女に夏波が救われている事は紛れもない事実なのだ。わざわざ悪い話を聞くのも気が引ける。
それに村山としても、今の宮藤と夏波の関係性が壊れる事を懸念して、『何でもない』と言ったのだろう。
なので、村山がそれとなく話題を逸しても話を戻す気にはなれなかった。
――僕、知らない事ばっかだな
知ろうとしていない訳ではないはずなのに。皆が教えてくれないから、と不貞腐れるつもりはないが、何となく心に靄はかかっている。
胸に溜まった複雑な気持ちを洗い流すように、夏波はアルミ缶をぐいと煽り、酒を流し込んだのだった。