お梅の夢
文字数 2,882文字
栄三郎は、吉次の腕を後ろに捻り上げたまま畳の上に押し倒すと、膝頭で背中を押さえつけ、吉次の耳元に低い声で、
「お梅の腹を蹴ったな。」
と、脅しをかけるように言った。
「してねぇよ。」
吉次はわめくと、栄三郎の膝の下で首を持ち上げ、激しく頭を振った。吉次の額の傷から出た血が、頭を振るごとに流れ出て来る。壁に張り付くように座って怯えていたお染は、それを見て袖で顔を隠して震え出した。真輔が気づいて、更にたたみかけようとしている栄三郎を目で制した。そっとお梅の体を畳の上に横たえると、お染に近寄り側に膝まづいた。
「おまえが、お染か。」
お染は袖で顔を隠したまま頷いた。真輔は静かな声で、
「吉次の額の傷は、お梅がやったのか。」
と聞いた。お染は袖から少し顔を出し、また頷いた。真輔が、投げ出された木の足つきの膳を指さして、あれでかと問うと、袖を下し
「はい。」
と小さく返事をした。
「それで、殴られた吉次はどうした。」
「怒って、お梅ちゃんから膳を取り上げて、お梅ちゃんを押しました。」
「腹か。」
「いいえ、もっと上、この辺り。」
お染は自分の帯の上を手で示した。
「そしたら、お梅ちゃんが倒れて、そしたら、急に血が出てきて…」
お染は泣き出し、吉次は観念したように大人しくなった。
「もう一つ教えてくれ。お梅の子をおろした医者を知っているか。」
「はい…。春庵先生です。おかみさんの、鶴屋のおかみさんのかかりつけです。」
「近くの医者か。」
「はい、四件先です。」
栄三郎を追って来た平太が吉次に縄をかけ、柱に括り付けた。
「平太、春庵を連れて来い。」
栄三郎の指図で座敷を出た平太は、ほどなく一人で戻って来た。
「旦那、親分、春庵は鶴屋に行っているそうです。」
と報告した。
「笠原様、あっしが深川の藤太親分に話を通して、鶴屋に乗り込んで春庵を連れてまいります。」
「頼む。」
「はい。平太、しっかり見張っていろよ。」
栄三郎が出かけると、真輔は心を落ち着けて何があったのかを考えた。お梅の死の原因は、流産による出血だ。だが、その速さは普通ではない。お梅の体を検分する。頬にはたかれたような跡がかすかにある。着物を開いて、胸と腹を確認した。胸にもかすかな痣があり、腹には押されたり蹴られたりしたような跡はなかった。
再び、すっかり呆けたようになっているお染の側に行き、
「吉次は、お梅の顔をたたいたのか。」
と聞くと、お染はゆっくり頷いた。
「お梅ちゃんが怒って、吉っあんにしつこく文句を言ったから」
「お梅は何を怒っていたのかな」
「お腹の子のことで…。河内屋が養子を取ったとか、吉っあんが何とかを殺したのか、とか。お梅ちゃん、怒り出すと止まらないから」
「俺は誰も殺してねぇ」
柱に括り付けられた吉次がわめいた。真輔は、今度は吉次に向かって聞いた。
「お梅は喜作のことを言ったのか」
「…」
「喜作を殺したのがおまえじゃないなら、誰なんだ」
「し、知らねえよ」
「言わないと、おめえがやったことになるぜ」
声と共に、白髪で大柄な男がぬうと現れた。
「親分…」
お染がすがりつくような声を出した。真輔と目が合うと、初老の男は小腰をかがめ、
「笠原様ですね。あっしは深川の藤太と申します。お初にお目にかかります。鶴屋の方は栄三郎さんと倅が向かいましたので、お役に立てることがあるかとこちらにまいりました」
「わざわざありがとうございます」
真輔が丁寧に頭を下げて礼を言うと、藤太は目を細めた。
「(これが、栄三郎が惚れこんだ旦那か)」
藤太は吉次が縛られている柱に近づくと、片手で柱をどんとつき、真上から吉次を見下ろした。
「え、どうなんだ。おめえはそれでいいのか」
「お、俺は、西門の権蔵のところに連れて行っただけだ」
「西門の権蔵か。深川の賭場の新しい元締めだな。俺はそのご尊顔を拝んじゃいないんだが、おめえは親しいのか。で、どんな奴だい」
「俺も会ったことはねぇ。連れて行った場所も権蔵の家じゃねぇよ。賭場だよ」
「そこからどうした」
「知らねぇ。おまえは帰れって言われたから、帰ったよ」
「それで、一人でいるのが怖くて、お染のところに逃げ込んだのか」
「じ、自分の女に会いに来ちゃいけねぇのかよ」
吉次は言い逃れができそうだと思ったのか、言葉に勢いがついたが、
「ここは、おまえが金を出している家じゃないだろう」
「うっ…」
すぐにしぼんでしまった。
藤太と吉次のやりとりを聞きながら、真輔は別のことを考えていた。
何故、お梅は急に河内屋を出て、ここへ来たのだろう…。河内屋が養子を取ることになったと言っていたそうだが、私が行ったときは、まだいずれはという段階だったのだが。そうか、寮番の喜作の死で、お梅の後ろに吉左衛門や吉次以外の影があることに気づいたのか。それで、河内屋の大おかみとおかみは、与左衛門の血を断ってでもお梅を河内屋から切り離そうと決心したのだろう。でも、お梅は腹の子が、河内屋に入ることにこだわっていた…。
「お染、お梅のことで知っていることを、何でも良い、話してくれ。」
真輔の問いに、お染はあきらめたような表情で話し出した。
「お梅ちゃんに子供が出来たのは、今度で四回目なんです。二回、春庵先生が流して、その次は春庵先生にかかる前に流れちゃったんです。その後、ひと月も寝込んでしまい、鶴屋のおかみさんももうお梅には客を取らせられない、と言っていたんです」
「今回のことは?」
「吉っあんは口が上手いから、おかみさんが話にのったんです。お梅ちゃんも、子供ができれば今度は産んで、その子が河内屋の子供になれば、河内屋は私の家にもなるんだよって嬉しそうに言ってました。だから、今回は大事にするって、河内屋の寮に移る前から、ほとんど部屋から出ませんでした。お梅ちゃんは、鶴屋のおかみさんも、お梅のお腹の子は河内屋の跡取りなんだからと、お梅ちゃんに上げ膳、据え膳を許してたんです」
「家…」
「お梅ちゃんも私も、帰る家のない子供でしたから。その気持ちはよくわかりました」
「河内屋はお梅とお腹の子に十分な手当てを出すだろうが…」
「それじゃだめなんです。お金じゃなくて、土台のしっかりした家に根を張りたかったんですよ」
「そうか、だから河内屋がお梅親子を家にいれないとわかって、我を忘れてここまで来てしまったのか」
真輔は、手ぬぐいを出すと、そっとお梅の顔を覆ってやった。そして吉次の正面に立つと言い放った。
「吉次、おまえはお梅の体に無理をさせ、その上お梅の夢を奪った。二重にお梅を殺したのだぞ」
「なんだよ、わけがわからねえよ」
お染が薄っすらと笑みを浮かべた。
「吉っあん。あんたは、ほんとにばかだねぇ」
そこへ、栄三郎と藤太の息子が春庵と鶴屋のおかみを引き立てて現れた。春庵は医者を名乗っていながら、大量の血を見て腰を抜かした。小柄な春庵よりも背が高く、肉付きの良い鶴屋のおかみはお梅を見て、むくんだような顔を冷酷にゆがませた。
「お梅の腹を蹴ったな。」
と、脅しをかけるように言った。
「してねぇよ。」
吉次はわめくと、栄三郎の膝の下で首を持ち上げ、激しく頭を振った。吉次の額の傷から出た血が、頭を振るごとに流れ出て来る。壁に張り付くように座って怯えていたお染は、それを見て袖で顔を隠して震え出した。真輔が気づいて、更にたたみかけようとしている栄三郎を目で制した。そっとお梅の体を畳の上に横たえると、お染に近寄り側に膝まづいた。
「おまえが、お染か。」
お染は袖で顔を隠したまま頷いた。真輔は静かな声で、
「吉次の額の傷は、お梅がやったのか。」
と聞いた。お染は袖から少し顔を出し、また頷いた。真輔が、投げ出された木の足つきの膳を指さして、あれでかと問うと、袖を下し
「はい。」
と小さく返事をした。
「それで、殴られた吉次はどうした。」
「怒って、お梅ちゃんから膳を取り上げて、お梅ちゃんを押しました。」
「腹か。」
「いいえ、もっと上、この辺り。」
お染は自分の帯の上を手で示した。
「そしたら、お梅ちゃんが倒れて、そしたら、急に血が出てきて…」
お染は泣き出し、吉次は観念したように大人しくなった。
「もう一つ教えてくれ。お梅の子をおろした医者を知っているか。」
「はい…。春庵先生です。おかみさんの、鶴屋のおかみさんのかかりつけです。」
「近くの医者か。」
「はい、四件先です。」
栄三郎を追って来た平太が吉次に縄をかけ、柱に括り付けた。
「平太、春庵を連れて来い。」
栄三郎の指図で座敷を出た平太は、ほどなく一人で戻って来た。
「旦那、親分、春庵は鶴屋に行っているそうです。」
と報告した。
「笠原様、あっしが深川の藤太親分に話を通して、鶴屋に乗り込んで春庵を連れてまいります。」
「頼む。」
「はい。平太、しっかり見張っていろよ。」
栄三郎が出かけると、真輔は心を落ち着けて何があったのかを考えた。お梅の死の原因は、流産による出血だ。だが、その速さは普通ではない。お梅の体を検分する。頬にはたかれたような跡がかすかにある。着物を開いて、胸と腹を確認した。胸にもかすかな痣があり、腹には押されたり蹴られたりしたような跡はなかった。
再び、すっかり呆けたようになっているお染の側に行き、
「吉次は、お梅の顔をたたいたのか。」
と聞くと、お染はゆっくり頷いた。
「お梅ちゃんが怒って、吉っあんにしつこく文句を言ったから」
「お梅は何を怒っていたのかな」
「お腹の子のことで…。河内屋が養子を取ったとか、吉っあんが何とかを殺したのか、とか。お梅ちゃん、怒り出すと止まらないから」
「俺は誰も殺してねぇ」
柱に括り付けられた吉次がわめいた。真輔は、今度は吉次に向かって聞いた。
「お梅は喜作のことを言ったのか」
「…」
「喜作を殺したのがおまえじゃないなら、誰なんだ」
「し、知らねえよ」
「言わないと、おめえがやったことになるぜ」
声と共に、白髪で大柄な男がぬうと現れた。
「親分…」
お染がすがりつくような声を出した。真輔と目が合うと、初老の男は小腰をかがめ、
「笠原様ですね。あっしは深川の藤太と申します。お初にお目にかかります。鶴屋の方は栄三郎さんと倅が向かいましたので、お役に立てることがあるかとこちらにまいりました」
「わざわざありがとうございます」
真輔が丁寧に頭を下げて礼を言うと、藤太は目を細めた。
「(これが、栄三郎が惚れこんだ旦那か)」
藤太は吉次が縛られている柱に近づくと、片手で柱をどんとつき、真上から吉次を見下ろした。
「え、どうなんだ。おめえはそれでいいのか」
「お、俺は、西門の権蔵のところに連れて行っただけだ」
「西門の権蔵か。深川の賭場の新しい元締めだな。俺はそのご尊顔を拝んじゃいないんだが、おめえは親しいのか。で、どんな奴だい」
「俺も会ったことはねぇ。連れて行った場所も権蔵の家じゃねぇよ。賭場だよ」
「そこからどうした」
「知らねぇ。おまえは帰れって言われたから、帰ったよ」
「それで、一人でいるのが怖くて、お染のところに逃げ込んだのか」
「じ、自分の女に会いに来ちゃいけねぇのかよ」
吉次は言い逃れができそうだと思ったのか、言葉に勢いがついたが、
「ここは、おまえが金を出している家じゃないだろう」
「うっ…」
すぐにしぼんでしまった。
藤太と吉次のやりとりを聞きながら、真輔は別のことを考えていた。
何故、お梅は急に河内屋を出て、ここへ来たのだろう…。河内屋が養子を取ることになったと言っていたそうだが、私が行ったときは、まだいずれはという段階だったのだが。そうか、寮番の喜作の死で、お梅の後ろに吉左衛門や吉次以外の影があることに気づいたのか。それで、河内屋の大おかみとおかみは、与左衛門の血を断ってでもお梅を河内屋から切り離そうと決心したのだろう。でも、お梅は腹の子が、河内屋に入ることにこだわっていた…。
「お染、お梅のことで知っていることを、何でも良い、話してくれ。」
真輔の問いに、お染はあきらめたような表情で話し出した。
「お梅ちゃんに子供が出来たのは、今度で四回目なんです。二回、春庵先生が流して、その次は春庵先生にかかる前に流れちゃったんです。その後、ひと月も寝込んでしまい、鶴屋のおかみさんももうお梅には客を取らせられない、と言っていたんです」
「今回のことは?」
「吉っあんは口が上手いから、おかみさんが話にのったんです。お梅ちゃんも、子供ができれば今度は産んで、その子が河内屋の子供になれば、河内屋は私の家にもなるんだよって嬉しそうに言ってました。だから、今回は大事にするって、河内屋の寮に移る前から、ほとんど部屋から出ませんでした。お梅ちゃんは、鶴屋のおかみさんも、お梅のお腹の子は河内屋の跡取りなんだからと、お梅ちゃんに上げ膳、据え膳を許してたんです」
「家…」
「お梅ちゃんも私も、帰る家のない子供でしたから。その気持ちはよくわかりました」
「河内屋はお梅とお腹の子に十分な手当てを出すだろうが…」
「それじゃだめなんです。お金じゃなくて、土台のしっかりした家に根を張りたかったんですよ」
「そうか、だから河内屋がお梅親子を家にいれないとわかって、我を忘れてここまで来てしまったのか」
真輔は、手ぬぐいを出すと、そっとお梅の顔を覆ってやった。そして吉次の正面に立つと言い放った。
「吉次、おまえはお梅の体に無理をさせ、その上お梅の夢を奪った。二重にお梅を殺したのだぞ」
「なんだよ、わけがわからねえよ」
お染が薄っすらと笑みを浮かべた。
「吉っあん。あんたは、ほんとにばかだねぇ」
そこへ、栄三郎と藤太の息子が春庵と鶴屋のおかみを引き立てて現れた。春庵は医者を名乗っていながら、大量の血を見て腰を抜かした。小柄な春庵よりも背が高く、肉付きの良い鶴屋のおかみはお梅を見て、むくんだような顔を冷酷にゆがませた。