河内屋

文字数 3,162文字

 日本橋通にある河内屋では、朝から店を閉めていた。それでも、決まっていた配達や納品をこ
すために店に残った奉公人は、中番頭の下で忙しく立ち働いていた。
 その様子を見て、店に顔を出した真輔は河内屋の奉公人の水準の高さに感心し、しばらく店先で眺めていた。

 「これは笠原様、何かありましたでしょうか?」

 小僧が奥に知らせたらしく、中番頭が走り出てきた。今日はこれ以上悪い知らせは聞きたくないと、青ざめた真顔が語っている。真輔はあわてて首を振り、

 「いえ、書式を整えるために、確かめたいことがあってお邪魔しただけなのです。」
 「さようでございますか。申し訳ございません。あいにくおかみも番頭も寮から帰っておりませんので、私でよろしければなんなりとお尋ねくださいませ。」

 中番頭は、真輔を奥の座敷に通し、女中に茶を持ってくるように命じた。その間、真輔の頭には、別れ際の大崎の言葉が蘇っていた。



 その日、根岸の寮からまっすぐに奉行所に戻った真輔と大崎を出迎えたのは、上司である支配与力の土井であった。土井は、二人から話を聞くと大崎の判断に同意した。

 「幕府御用達の店の醜聞は、幕府の威信にかかわる。殺しではないというなら、河内屋の内々でうまく収めさせることだ。」

 土井は、頷きながらも考え込んでいる真輔に声をかけた。

 「笠原、何か気になることがあるのか?」
 「どうも、妾のお梅のことがよくわかりませぬ。言動が理屈に合わないというか…。」
 「うむ。大崎、お前はどう思う?」
 「同感です。あの女は読めませんな。」

 土井は、手元に用意していた書類をめくりだした。

 「あぁ、あった。幕府御用達の店の内情については、何かあれば隠密同心から報告が入るのだが、お梅のことも書かれているな。」
 「なんと書いてありますか?」
 「ふむ。深川の置屋で見習いをしている娘、お梅を河内屋の主人が根岸の寮で囲いだした、とだけある。ひと月前の日付だ。本妻に子供ができない大店の主人が妾を持つのは、珍しいことではないから、さほど突っこんだ調べはされていないようだ。だが、こういうことがあった後だ。笠原、お前が河内屋で直接お梅の素性を確かめてもおかしくなかろう。」
 「ありがとうございます。すぐに河内屋に向かいます。」
 「私の方は、引き続き寮番夫婦を見張らせましょう。お梅のついでに、寮番のことも河内屋で素性を確かめてもらえるとありがたい。」
 「承知しました。」

 真輔と大崎は早々に奉行所を退出した。根岸にくらべると、江戸市中は一段と暑さが増して感じられる。うんざりとした顔で空を見上げた大崎が、

 「何か腹に入れよう。」

 と、立ち止まった。二人は、遅い昼飯を取りに近くの蕎麦屋に入った。お互い考え事をしながら黙って蕎麦をすすっていたが、大崎が口火を切った。

 「時間が経つほどにお梅のことが気にかかってきたな。」
 「わたしもです。」
 「お梅がいた置屋がわかったら、岡っ引きを使ってそちらも調べられるか?」
 「栄三郎に頼みます。」
 「頼む。しかし、何だって河内屋の主人はあの女に手を出したんだろう。河内屋ほどの大店の主人なら、相手を選べるだろうに。」

 大崎の言葉に真輔は大きく頷いた。

 「私もそれが腑に落ちないのです。」
 「笠原、これには、理屈にあう答えがみつかるかもしれないな。」
 「はい。それも、置屋を探ればわかるかも知れませんね。」
 「うん、そこらへんも栄三郎なら、上手く調べてくれるだろう。」
 「大崎さんは、栄三郎をご存じですか?」
 「八丁堀は、栄三郎のやっている仕出し屋の得意先だぜ。」
 「なるほど。」

 大崎は冷めた番茶を飲み干すと、真輔の顔をまっすぐ見た。

 「この先はおまえさんの廻り先の河内屋が舞台だ。もめごとを起こさないように収めろと言うのが、土井さん、つまりは奉行所の意向だ。俺も、できればそれが一番だと考えている。だがな、これ以上の騒動が起きないとは限らねえ。その時は、捕らえるべき者は捕えて収めるしかないと、俺は思うし、土井さんも腹の中ではそう思っているよ。」
 


 「笠原様?」

 真輔の前に美しい色をした玉露の入った小さな茶器が置かれていた。

 「あ…失礼。実は、寮で会ったお梅という女の素性を教えてもらいたのだが。」
 「お梅さんですか…。私も詳しいことは存じ上げないのですが、本所の鶴屋という置屋で芸者の見習いをしていたそうです。なんでも、子供の頃に親を亡くして、鶴屋のおかみが引き取って育ててきたとかで、他に身寄りもいないと聞いております。ひと月ほど前に、旦那様から面倒を見ることになったと、番頭さんと私に話がありました。」
 「おかみの康江どのは、お梅のことを知っているようだったが?いや、寮に来た康江どのの様子から、そう推測したのだが。」

 真輔は、立ち入ったことを聞くことに気後れしていたが、中番頭はすぐに返事をした。

 「はい、おかみさんにも、旦那様がお話されたそうでございます。」
 「そうか。もう一つ、根岸の寮番夫婦の素性は知っているか?」
 「根岸の寮は、元々先代の旦那様のご実家でした。跡継ぎのいなかった旦那様のお兄様が、田畑をお売りになった折に、家だけは河内屋で買わせていただいたものです。寮番もご実家の奉公人が勤めておりましたが、年を取ってからその親戚筋の夫婦が手伝いに住み込みましたので、元の寮番が亡くなったあとはそのまま雇っております。」
 「では、根岸の土地の者なのか。」
 「それが、申し訳ございませんが、その辺は、はっきりとは存じておりません。店の奉公人なら身元はしっかり調べるのですが。これでお役に立つでしょうか?」
 「うむ、十分だ。忙しいところ、申し訳なかったな。」

 中番頭に見送られて店を出た真輔は、朝のうちに中元の佐吉と落ち合う約束した番屋に向かった。陽は傾き始めていたが、昼間の暑さがやわらぐ気配はまだなかった。番屋に入ると、佐吉と共に岡っ引きの栄三郎も待っていた。

 「栄三郎もいるのか。ちょうどよかった、頼みたいことがある。」
 「河内屋のことでございますか?」
 「うむ。先ずは、佐吉、今日は番屋廻りを任せてしまったが、何かなかったか?」
 「今日は事故も盗みの報告もなく、番太郎があくびをしておりました。」
 「そうか、ご苦労だった。さて、栄三郎は河内屋の妾のことを聞いているか?」
 「いえ、存じませんでした。根岸に囲っていたのですか?」
 
 真輔は根岸でのこと、大崎と真輔の気がかりを語った。

 「それで、深川でのお梅の素行や、どうやって河内屋の主人と知り合ったのかを調べて欲しい。だが、調べていることが目立つのは困るのだ。上手くやってもらえないか?」
 「承知しました。妾のことを知らなかったとは、うかつでした。申し訳ございません。」
 「奉公人でも上の者しか知らなかったのだから、致し方あるまい。」
 「鶴屋のある深川の親分とは旧知の仲ですから、そちらから探りを入れてみましょう。」
 「そうか、よろしく頼む。」

 その頃、河内屋へは大おかみの芳香と正弥、それにほとんどの奉公人が寮での仮葬儀を終えて店に戻っていた。大おかみの芳香は憔悴しきった様子で、帰るとすぐに正弥に付き添われて自室に入って休んでしまった。それで、中番頭は真輔の訪問を芳香には告げず、番頭の帰りを待つことにした。

 暑い盛りのことなので、河内屋では主人の与左衛門を、その日のうちに根岸で荼毘に付した。女房の康江が骨壺を抱えて船に乗ったのは、長い夏の日も西の空に微かな赤みを残すだけになった頃であった。船には、最後まで根岸に残っていた番頭と手代に、妾のお梅も同乗していた。音もなく川を進む船の上では皆、黙りこくり、お梅がせわしなく動かす団扇だけが耳障りな音を立てていた。
 
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになってきている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせるようになっている。

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