やぶ医者

文字数 2,198文字

 「逃げられました」

 真輔は大番屋に戻ると、支配与力の土井に頭を下げた。

 「そうか。なかなか見事な逃げっぷりだな」
 「お染の家からすぐに賭場を当たるべきでした」
 「そうするには、捕り方の人数が足りなかった。わしの読みが甘かったのだ、おまえのせいではない」
 「岡っ引きの寛一たちも殺されましたから、深川廻りの中川さんにすぐに報告をしなければならないのですが」
 「こちらでも探しているのだが、見つからん。あやつ、役宅にはほとんど帰らないようだ」

 そこへ、萩原が縄をかけられた分河内屋の当主、吉左衛門を連れて現れた。

 「おぉ、笠原、権蔵は捕まえたか?」
 「逃げられました」
 「残念だったな。吉次が吉左衛門の居場所を教えてくれたよ。昔々の女のところとは、たどりつけないわけだ。どちらも女のところに逃げ込んでいるとは、似た者親子だな」

 萩原は吉左衛門に向かって、

 「おい、権蔵とやらは雲隠れしたそうだから、おまえも心置きなく何があったか話してくれよ」

 と言うと吉左衛門を連れて奥に消えた。代わりに八丁堀の医師、良庵が現れた。

 「先生もいらしてたのですか?」
 「おぉ、婿殿。お梅の検視を頼まれてな。可哀そうに、赤子を(はぐく)めぬ体にされていたようだ。もっと早い段階で流れていれば、命を失うほどの出血にはならなかったかもしれんが、五月(いつつき)になっていては傷が広がってしまう」
 「待ってください。五月(いつつき)…。まだ三月(みつき)に満たないはずです」

 驚いた真輔が土井を見ると、土井も今知らされたようで、眉間に皺を寄せながら唸った。

 「大崎が根岸から戻ったので、大崎に鶴屋の連中を調べさせている。笠原、おまえも手伝ってこい」
 「はい」

 真輔は土井と良庵にお辞儀をすると、奥へ走って行った。

 「これは、婿殿には少々辛いことになりましたな」
 「みんな辛いよ。慣れるもんじゃないさ。医者だってそうだろ」
 「さようですな。私は、あの春庵とかいう、医者を名乗る人殺しが許せませんな」
 「俺は、あいつはもっと卑劣なことをしていると思うよ」
 「まさか…」

 土井の推量は当たっていた。真輔は、取り調べが行われている奥の土間で吉次を取り調べていた根岸廻りの同心、大崎に良庵の話を囁いた。大崎は、「見た目じゃわからなかったな」と呟くと、土間に座らされている吉次の目の前にしゃがみこんだ。鼻が触れ合うほど顔を近づけると、

 「残念だったな。お前の子供だったのか。もう五月(いつつき)になっていたそうじゃないか」
 「い、五月(いつつき)…」
 「自分の子供を河内屋に送り込もうって算段だったとはな」
 「し、知らねぇ。俺とお梅はそんな仲じゃねぇ」
 「おかしいと思ったんだよ。与左衛門は子供ができない(たち)だったんだろうに、お梅がすぐに授かったってのは出来過ぎだ」
 「そ、それは、あの医者が、春庵が薬を処方したから」
 「何の薬だ?」
 「こ、子供が授かる薬だって。た、高かったんだぜ。あのやぶ医者、だましやがったのか」

 大崎は真輔に、春庵を牢で調べろと耳打ちした。取り調べの前に、一人で牢に入れられている春庵は、抜け殻のように座り込んでいる。真輔は牢の中に入り、春庵の顔を、胸に沸き起こる憤りを押さえて提灯で照らした。

 「お梅の子供の父親は、河内屋与左衛門じゃなかった。お前は知っていたはずだ。全部話してもらおうか。」

 春庵は、半日も経たないうちにげっそりとしたような顔を真輔に向けると、小さく頭を振った。

 「お梅のことは、小さい頃から知っています。物覚えの悪い、癇癪持ちの子でしたが、体だけは丈夫でしたから、子沢山の母親になれたでしょう。長屋の井戸端で襁褓(むつき)を洗ってるのが似合うような子でしたよ。たとえ妾でも相手は大店だ。今度こそ子供を産んで、幸せになって欲しかっただけなんです」

 その時、真輔の背後から怒声が響いた。

 「この大噓つき、地獄に落ちろ。」

 いつのまにか、お染が牢の柵を掴んで立っていた。その横で牢番がお染を引き離そうとしていた。真輔は牢番に止めるように指示をすると、お染の近くまで立って行った。

 「この男は、どんな嘘をついているんだ」
 「こいつは、ずっとお梅ちゃんに手を出していたんですよ。診察するふりをして、鶴屋のおかみさんの目をごまかして。私はお梅ちゃんから聞いてたんだよ」

 春庵は座り込んだまま後ずさりしながら、

 「あ、あの娘は誰かれかまわず誘惑するんですよ。だ、だから腹の子が誰の種かなんてわかったもんじゃない。」

 と言い返した。

「違う。誰かれかまわずなんて、嘘。あれはあの()の仕事だったんだ」

 お染は牢の柵に持たれるようにして泣き出した。いつも大人しいお染の激高した姿を前に、春庵の顔が引きつっている。真輔は眼鏡越しに、春庵の顔を冷ややかに見下ろしながら、お染に聞いた。

 「鶴屋のおかみは、お梅に客を取らせるのを止めていたそうだな」
 「はい。お梅ちゃんが流産して寝込んだから、あきらめたんです」
 「だったら、お梅に近づけた男は、医者だけだな、春庵」

 「その通り。腹の子が与左衛門の子供じゃないと聞いて、さすがの鶴屋のおかみも驚いてたぜ。歯ぎしりしながらおまえを(ののし)ってたよ。」 

 大崎が、十手で手のひらを叩きながら、春庵の牢の前に立った。

 「一通り、話の筋は見えてきたな。土井さんに報告に行こう」
 「はい」

 暮れてもなお暑い一日の終わりに、真輔は心だけが冷え冷えとしていた。
 
 
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになってきている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせるようになっている。

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