それぞれの探索
文字数 3,225文字
根岸廻りの同心大崎は、寮番の女房を船に乗せて、奉行所近くの大番屋に連れて行った。船は、手札を与えた岡っ引きの源蔵が操っている。源蔵は元船頭で、兄が営む船宿から屋根付きの船を借りてきた。これなら、人の目も耳も気にせずに話が聞ける。大崎は、船の中で女房から話を聞くつもりだった。亭主が側に居た時はほとんど言葉を発しなかったが、一人なら、口がほぐれた途端に話が止まらなくなるに違いないと読んでいた。
「旦那が朝帰りをしたことはなかったのか?」
女房は、首を横に振っただけだった。
「あるのか…。あんな寂しい所に一人で留守番させられたら、心細いだろう。」
「慣れましたよ。」
「それなら、今日は何で心配になった?」
「そりゃあ、あんなことがあった後だから…」
「河内屋の旦那が亡くなったことかい?」
女房は、両手で自分の腕を抱きしめた。川の上とはいえ、葦簀で四方を覆われた船の中は、薄い屋根板から伝わる日差しの熱で蒸し暑かったのだから、寒気は女房のおびえを表していた。
「それだけじゃありませんから、怖いんですよ私は。」
大崎の予想通り、その先は止めどなく続いた。大番屋に女房を預けるまでに、大崎は夫婦の歴史までも大方聞かされていた。
与左衛門が命を落とした日、庭にいた寮番の夫婦はお梅の怒声を聞いて、驚いて土間に駆け込んだ。そこに、走るように居間から板の間に入って来た与左衛門は、草履を履こうと上がり框に腰をかけた。居間から追って来たお梅は、板の間の隅に積んであった囲炉裏に使う薪を掴んで振り上げた。それを見た寮番夫婦の悲鳴に立ち上がりかけた与左衛門の頭に、お梅の振り上げた薪が当たった。慌てて寮番の亭主が板の間に上がり、お梅を後ろから羽交い絞めにして押さえたのだった。ほっとした女房が与左衛門を見ると、後頭部に手を当てながらも、何事もなく立ち上がっている。そして、与左衛門は不快そうにお梅を見ると、何も言わずに土間を出て、船着き場に向かって歩いていった。亭主に押さえられたお梅は言葉にならない怒声を発していたが、与左衛門の姿が見えなくなると急に倒れこみ、寮番夫婦は、その介抱に追われ、与左衛門を見送ることはしなかった。
翌朝、与左衛門が石段で倒れているのを見つけた亭主が、お梅に知らせた時に何を言われたのかは、女房は知らなかった。だが、お梅が殴ったことは誰にも話すな、河内屋に知られたら自分たちが寮を追われるかもしれないからと、亭主に口止めされた後、亭主が囲炉裏の灰の中に何か隠したことに気が付いていた。
「大方、口止め料を巻き上げたんでしょう。八丁堀の旦那たちまで出てきたから、あの人はもっとゆすれると思ったんでしょうよ。」
「お梅をか?」
「さあねぇ。お梅さんか、吉次さんか…。上手くいっても帰って来ないつもりだったでしょうけど。」
女房は吐き捨てるように言った。
「おまえは、吉次を知ってるのか?」
「お梅さんを寮に連れて来たのは吉次さんですよ。それからも三回ぐらい根岸まで、来ましたから。」
「吉次はお梅のこれか?」
大崎が出した小指を見て、女房は頭を横に振った。
「お梅さんに頼まれたものやら、江戸で流行りの菓子やら持ってきて、居間に四半刻ばかりいるとそそくさと帰っちまいましたよ。暑いから戸は開けっ放しですから、話も筒抜けですよ。」
「なるほど。それで、おまえは亭主のゆすりが上手く行かなかったと思って、俺たちに頼ったのか?」
「上手くいった例がありませんから。とばっちりがこわくてねぇ。今までだって…」
その先に続いた話は土井に報告するまでもなかろう、と思いながら大崎は辛抱強く聞いていた。
一方、神田の分河内屋に向かった神田廻り同心の荻原は、真輔の推論通り、番頭から寮番の亭主らしき男が現れたことを聞き出した。
「吉次さんはいないかと聞かれました。」
「吉次はいたのか?」
「いえ、店に来られることはありませんので、私はお顔も存じません。だから、その男にはそう伝えました。」
「だが、名前は知っていたんだな?」
「女中たちの噂から、聞き覚えておりました。」
「ほぉ、どんな噂だ?」
「ご勘弁を。」
「では、吉左衛門を呼んでもらおうか。」
番頭はうんざりとした顔で、ため息をついた。
「呼びたいのはこちらの方でございます。昨日、ぷいと店を出て、それきりでございますから。」
「それは、男が来た後か、前か?」
「さあ、覚えておりません。」
番頭は、忙しいのでとあからさまな言い訳をして、店の奥に消えて行った。荻原は、客の相手をしていた辛作の手が空くと、呼び寄せた。
「旦那様は、吉次さんを訪ねて来た男が店を出ると、店の奥から出てきて、帳場の金を取って外に出ました。俺は、また借金取りかと思ったのですが、ちょっと様子が違ったので、気になって外を覗いたんです。旦那様は、歩き出した男に追いつくと、話しながら歩いていきました。」
「借金取りか。よく来るのか?」
「たまに…。旦那様はその度に帳場の金を渡しちまうんです。」
「借金取りは、どんな奴だ?」
「一見、お店者風なんですが、何かおっかないというか…」
萩原は吉左衛門が借金をした相手を探ったが、番頭も、実家に帰った女房も本当に知らないようで、何も聞き出せなかった。本人に直接確かめるしかないと、吉左衛門探しに岡っ引きたちを走らせた。
深川に向かった栄三郎と平太は、まっすぐに吉次の住む長屋に向かった。躊躇なく戸を引き開けて踏み込む。栄三郎の予想通り、吉次は自分の家にはいなかった。次に向かう先も決まっている。お染の家だ。
お染の家を突き止めてくれたのは、深川を仕切る岡っ引きの藤太の息子だった。
「半月ほど前に、鶴屋を出て、すぐ近くのしもた屋を借りてます。金主は日本橋のお店の旦那だという噂ですが、吉次もこっそり出入りしているようです。向かいの蕎麦屋は知り合いですから、何かあったら使ってください。」
お染の家は小さな二階家だが、ぐるりと塀が巡らせてあり、横道から入れる木戸もあった。幸い、背中合わせの家の敷地が広く高い塀に阻まれ、横道は行き止まりになっていた。堀の反対側にある蕎麦屋が暖簾を出したのを見ると、栄三郎は平太を伴って、近くの橋を渡り蕎麦屋の暖簾をくぐった。蕎麦屋の主は開店早々の客に、顔をほころばせた。
栄三郎は、蕎麦を食べながらも、お染の家から目を離さなかった。その様子に気が付いたのか、主が茶を継ぎながら、話しかけてきた。
「旦那方、向いの家に何かご用ですか?」
「うん、ちょいとな。」
栄三郎は懐の十手をちらりと見せた。
「どちらさんで?」
「日本橋通町の栄三郎というが。」
「やっぱり。藤太の親分さんから、来られたら助けるように言われております。」
「それはありがたい。向かいの家に、昨夜からこっち、誰か訪ねてこなかったか?」
「へえ、来ましたよ。夜明け前に、家の戸をがんがんと叩いておりました。この季節、窓を開けっぱなしで寝ておりましたから、うるさくって目が覚めちまいました。」
「どんな奴か見たかね。」
「よく来る若い男でしたよ。」
「ぞろりとした羽織を着た、やさ男か?」
「そうです、そうです。どこがいいんだか、あんなやさ男。」
「まったくだ。それで、そいつはまだいるかね。」
「おりましたよ。うちの二階から、向かいの二階の家の中が見えるんでね。旦那たちも見張りをするなら、うちの二階を使ってください。」
「助かる、甘えさせてもうよ。」
「いいか、平太。吉次が家を出たら、後をつけて行き先を確かめろ。確かめたら、ここに俺が戻っていなかったら、藤太親分の家に知らせに来い。」
と平太に言い聞かせて、栄三郎は、藤太の家に向かった。
一体、吉次はお染の家に、どこから来たのか…。夜明け前なら、木戸を通らない場所だ。栄三郎は、土地勘のある藤太に知恵を借りようと思った。
「旦那が朝帰りをしたことはなかったのか?」
女房は、首を横に振っただけだった。
「あるのか…。あんな寂しい所に一人で留守番させられたら、心細いだろう。」
「慣れましたよ。」
「それなら、今日は何で心配になった?」
「そりゃあ、あんなことがあった後だから…」
「河内屋の旦那が亡くなったことかい?」
女房は、両手で自分の腕を抱きしめた。川の上とはいえ、葦簀で四方を覆われた船の中は、薄い屋根板から伝わる日差しの熱で蒸し暑かったのだから、寒気は女房のおびえを表していた。
「それだけじゃありませんから、怖いんですよ私は。」
大崎の予想通り、その先は止めどなく続いた。大番屋に女房を預けるまでに、大崎は夫婦の歴史までも大方聞かされていた。
与左衛門が命を落とした日、庭にいた寮番の夫婦はお梅の怒声を聞いて、驚いて土間に駆け込んだ。そこに、走るように居間から板の間に入って来た与左衛門は、草履を履こうと上がり框に腰をかけた。居間から追って来たお梅は、板の間の隅に積んであった囲炉裏に使う薪を掴んで振り上げた。それを見た寮番夫婦の悲鳴に立ち上がりかけた与左衛門の頭に、お梅の振り上げた薪が当たった。慌てて寮番の亭主が板の間に上がり、お梅を後ろから羽交い絞めにして押さえたのだった。ほっとした女房が与左衛門を見ると、後頭部に手を当てながらも、何事もなく立ち上がっている。そして、与左衛門は不快そうにお梅を見ると、何も言わずに土間を出て、船着き場に向かって歩いていった。亭主に押さえられたお梅は言葉にならない怒声を発していたが、与左衛門の姿が見えなくなると急に倒れこみ、寮番夫婦は、その介抱に追われ、与左衛門を見送ることはしなかった。
翌朝、与左衛門が石段で倒れているのを見つけた亭主が、お梅に知らせた時に何を言われたのかは、女房は知らなかった。だが、お梅が殴ったことは誰にも話すな、河内屋に知られたら自分たちが寮を追われるかもしれないからと、亭主に口止めされた後、亭主が囲炉裏の灰の中に何か隠したことに気が付いていた。
「大方、口止め料を巻き上げたんでしょう。八丁堀の旦那たちまで出てきたから、あの人はもっとゆすれると思ったんでしょうよ。」
「お梅をか?」
「さあねぇ。お梅さんか、吉次さんか…。上手くいっても帰って来ないつもりだったでしょうけど。」
女房は吐き捨てるように言った。
「おまえは、吉次を知ってるのか?」
「お梅さんを寮に連れて来たのは吉次さんですよ。それからも三回ぐらい根岸まで、来ましたから。」
「吉次はお梅のこれか?」
大崎が出した小指を見て、女房は頭を横に振った。
「お梅さんに頼まれたものやら、江戸で流行りの菓子やら持ってきて、居間に四半刻ばかりいるとそそくさと帰っちまいましたよ。暑いから戸は開けっ放しですから、話も筒抜けですよ。」
「なるほど。それで、おまえは亭主のゆすりが上手く行かなかったと思って、俺たちに頼ったのか?」
「上手くいった例がありませんから。とばっちりがこわくてねぇ。今までだって…」
その先に続いた話は土井に報告するまでもなかろう、と思いながら大崎は辛抱強く聞いていた。
一方、神田の分河内屋に向かった神田廻り同心の荻原は、真輔の推論通り、番頭から寮番の亭主らしき男が現れたことを聞き出した。
「吉次さんはいないかと聞かれました。」
「吉次はいたのか?」
「いえ、店に来られることはありませんので、私はお顔も存じません。だから、その男にはそう伝えました。」
「だが、名前は知っていたんだな?」
「女中たちの噂から、聞き覚えておりました。」
「ほぉ、どんな噂だ?」
「ご勘弁を。」
「では、吉左衛門を呼んでもらおうか。」
番頭はうんざりとした顔で、ため息をついた。
「呼びたいのはこちらの方でございます。昨日、ぷいと店を出て、それきりでございますから。」
「それは、男が来た後か、前か?」
「さあ、覚えておりません。」
番頭は、忙しいのでとあからさまな言い訳をして、店の奥に消えて行った。荻原は、客の相手をしていた辛作の手が空くと、呼び寄せた。
「旦那様は、吉次さんを訪ねて来た男が店を出ると、店の奥から出てきて、帳場の金を取って外に出ました。俺は、また借金取りかと思ったのですが、ちょっと様子が違ったので、気になって外を覗いたんです。旦那様は、歩き出した男に追いつくと、話しながら歩いていきました。」
「借金取りか。よく来るのか?」
「たまに…。旦那様はその度に帳場の金を渡しちまうんです。」
「借金取りは、どんな奴だ?」
「一見、お店者風なんですが、何かおっかないというか…」
萩原は吉左衛門が借金をした相手を探ったが、番頭も、実家に帰った女房も本当に知らないようで、何も聞き出せなかった。本人に直接確かめるしかないと、吉左衛門探しに岡っ引きたちを走らせた。
深川に向かった栄三郎と平太は、まっすぐに吉次の住む長屋に向かった。躊躇なく戸を引き開けて踏み込む。栄三郎の予想通り、吉次は自分の家にはいなかった。次に向かう先も決まっている。お染の家だ。
お染の家を突き止めてくれたのは、深川を仕切る岡っ引きの藤太の息子だった。
「半月ほど前に、鶴屋を出て、すぐ近くのしもた屋を借りてます。金主は日本橋のお店の旦那だという噂ですが、吉次もこっそり出入りしているようです。向かいの蕎麦屋は知り合いですから、何かあったら使ってください。」
お染の家は小さな二階家だが、ぐるりと塀が巡らせてあり、横道から入れる木戸もあった。幸い、背中合わせの家の敷地が広く高い塀に阻まれ、横道は行き止まりになっていた。堀の反対側にある蕎麦屋が暖簾を出したのを見ると、栄三郎は平太を伴って、近くの橋を渡り蕎麦屋の暖簾をくぐった。蕎麦屋の主は開店早々の客に、顔をほころばせた。
栄三郎は、蕎麦を食べながらも、お染の家から目を離さなかった。その様子に気が付いたのか、主が茶を継ぎながら、話しかけてきた。
「旦那方、向いの家に何かご用ですか?」
「うん、ちょいとな。」
栄三郎は懐の十手をちらりと見せた。
「どちらさんで?」
「日本橋通町の栄三郎というが。」
「やっぱり。藤太の親分さんから、来られたら助けるように言われております。」
「それはありがたい。向かいの家に、昨夜からこっち、誰か訪ねてこなかったか?」
「へえ、来ましたよ。夜明け前に、家の戸をがんがんと叩いておりました。この季節、窓を開けっぱなしで寝ておりましたから、うるさくって目が覚めちまいました。」
「どんな奴か見たかね。」
「よく来る若い男でしたよ。」
「ぞろりとした羽織を着た、やさ男か?」
「そうです、そうです。どこがいいんだか、あんなやさ男。」
「まったくだ。それで、そいつはまだいるかね。」
「おりましたよ。うちの二階から、向かいの二階の家の中が見えるんでね。旦那たちも見張りをするなら、うちの二階を使ってください。」
「助かる、甘えさせてもうよ。」
「いいか、平太。吉次が家を出たら、後をつけて行き先を確かめろ。確かめたら、ここに俺が戻っていなかったら、藤太親分の家に知らせに来い。」
と平太に言い聞かせて、栄三郎は、藤太の家に向かった。
一体、吉次はお染の家に、どこから来たのか…。夜明け前なら、木戸を通らない場所だ。栄三郎は、土地勘のある藤太に知恵を借りようと思った。