悲鳴
文字数 2,110文字
河内屋の主人の死は、正式に不慮の事故として扱われることになり、河内屋に伝えられた。おかみの康江は、全てを飲み込んで受け入れているようであった。だが、寮番の亭主の喜作の亡骸は、不慮の事故とは言えない状態で見つかった。連日の炎天で水位の下がった掘割で見つかった、水で膨れた亡骸は、体に重しが紐づけられていた。重しの紐が体に巻かれていたために、体から離れなかった着物で、女房が亭主だと認めた。河内屋は、寮番の女房に葬儀と見舞いに充分すぎる金子 を出した。女房は亭主を埋葬すると、大崎の世話した八王子の奉公先に、誰にも行き先を告げずに去って行った。
そして、全てが終わったかのようにみえた日に、お梅が河内屋から消えた。その知らせは町廻り中の真輔の元に、河内屋の奉公人が息を切らせながら知らせて来た。お梅は側で使える女中のおつねの頭を殴り、気を失わせて河内屋の裏戸から出て行ったという。
「おつねは無事なのか?」
「はぁ、は、はい、おつねが目を覚まして私達に教えてくれました。奥には誰もいなかったもので」
「お梅の足でどこへ。そうか、猪牙船か」
「う、裏の掘割に出れば、すぐに拾えます」
「佐吉、奉行所へ行って土井様に、深川のお染の家に行くと伝えてくれ」
真輔は知らせに駆け付けて来た河内屋の奉公人の顔に見覚えがあったが、名前がわからない。
「おまえは、栄三郎に同じことを伝えてくれるか」
「お染の家に行くですね、わかりました」
佐吉はすでに走り出していた。河内屋の奉公人も、真輔の指図に頷くと再び走り出す。真輔も間髪をおかず、深川に向かった。
そのころお染は、明け放した障子から、小さな庭を見つめたまま固まっていた。手にした酒器は、隣の吉次の手の中の杯の上で傾いたままで、杯の酒はすぐに溢れ出た。
「おいっ」
と言ったまま、吉次もまたお染の視線の先に目をやると、杯を取り落とした。そこには、二人を睨みつけるお梅がいる。
両の拳を握りしめ目を吊り上げて、お梅は大きな声で、
「ちょいと、吉次、河内屋が養子を取ったよ。えぇ、これはどういうことだい」
と言うなり、縁側から土足でつかつかと座敷に上がって来た。ひっ、とお染めは酒器を放り投げて、座ったまま後じさりする。吉次はその場で膝立ちになり、お梅に負けない大声で答えた。
「し、知らねえよ」
「知らないじゃすまないよ」
「お梅、落ち着け。河内屋の養子なんて、俺が口を挟めることじゃないんだ」
「河内屋に跡継ぎがいないから、跡継ぎを作るために旦那の相手をしろって言ったのは、あんただよ」
「そうさ。だけど、それをぶち壊したのはてめぇだろう。おまえが与左衛門を殴って殺しちまったせいで、河内屋は養子をとるんだろうよ」
「殺してなんかいないよ、生きてたよ」
「てめぇが殴らなければ、今も生きてただろうよ」
お梅を鎮めるどころか、吉次も興奮して泡を吹かんばかりになる。その様子を見て、お染は青くなっていた。
吉次は芸者だった母親の元で、白粉の匂う女に囲まれて育ったせいか、見た目通り、中身も当たりの柔らかい、口の上手な男である。お染は、幼い頃に見た母親に手を上げる父親の姿が目に焼き付いていたためか、吉次の虫も殺せぬような意気地のなさが好きだった。だが、お梅に怒りをぶつける吉次は、やはり父親と変わらぬ男に見えた。
「寮番の男が見たんだ。与左衛門は金でおまえを追い払うつもりだったんだろう」
「あんた、喜作に会ったのかい?」
吉次は、余計なことを言ってしまったと顔をそむけて座りなおした。その目の前にお梅が座って詰め寄った。
「殺したんだね、喜作を」
「俺じゃねぇよ」
「じゃあ、誰さ。言ってごらんよ。そいつに言わなきゃ。この腹の子をどうしてくれんだって、河内屋の跡取りにしてくれるのかって。えぇ」
「う、うるせぇ」
しつこく食い下がるお梅の頬を、吉次がはたいた。
「ちくしょう、何しやがる」
お梅は吠えるように言うと、立ち上がって吉次の前にあった膳を掴んで吉次の頭を殴りつけた。
「このやろう」
吉次も立ち上がるとお梅の手から膳をもぎ取り、お梅を突き飛ばした。壁際に寄って固まっていたお染が、ついに悲鳴を上げた。倒れたお梅が立ち上がろうとして、急に苦悶の表情を浮かべたからだ。
その時、玄関先で声をかけようとしていた真輔がその悲鳴を聞き、狭い家の中に飛び込んで来た。
「お梅っ」
真輔が見つけたお梅は、仰向けに倒れ、はだけた着物から見える足の間から血を流していた。お梅はゆっくりと頭を持ち上げ血にまみれた下半身を見て、声にならない声を上げた。真輔は駆け寄ってお梅の体を支えたが、流れ出るおびただしい血を止めるすべはなかった。
「お梅、しっかりしろ。大丈夫だ。すぐ医者を呼ぶ」
必死に声をかける間にも、お梅の顔は白くなり、半眼の瞳は何も映さなくなっていくようだった。
「笠原様」
呼びかけられて真輔が顔を上げると、いつのまに来たのか、栄三郎が吉次の腕を捻り上げていた。
「笠原様、お梅は」
真輔は、腕の中のお梅の首を触り、消えた脈を探したが無駄だった。栄三郎に向かって、小さく首を振った。
そして、全てが終わったかのようにみえた日に、お梅が河内屋から消えた。その知らせは町廻り中の真輔の元に、河内屋の奉公人が息を切らせながら知らせて来た。お梅は側で使える女中のおつねの頭を殴り、気を失わせて河内屋の裏戸から出て行ったという。
「おつねは無事なのか?」
「はぁ、は、はい、おつねが目を覚まして私達に教えてくれました。奥には誰もいなかったもので」
「お梅の足でどこへ。そうか、猪牙船か」
「う、裏の掘割に出れば、すぐに拾えます」
「佐吉、奉行所へ行って土井様に、深川のお染の家に行くと伝えてくれ」
真輔は知らせに駆け付けて来た河内屋の奉公人の顔に見覚えがあったが、名前がわからない。
「おまえは、栄三郎に同じことを伝えてくれるか」
「お染の家に行くですね、わかりました」
佐吉はすでに走り出していた。河内屋の奉公人も、真輔の指図に頷くと再び走り出す。真輔も間髪をおかず、深川に向かった。
そのころお染は、明け放した障子から、小さな庭を見つめたまま固まっていた。手にした酒器は、隣の吉次の手の中の杯の上で傾いたままで、杯の酒はすぐに溢れ出た。
「おいっ」
と言ったまま、吉次もまたお染の視線の先に目をやると、杯を取り落とした。そこには、二人を睨みつけるお梅がいる。
両の拳を握りしめ目を吊り上げて、お梅は大きな声で、
「ちょいと、吉次、河内屋が養子を取ったよ。えぇ、これはどういうことだい」
と言うなり、縁側から土足でつかつかと座敷に上がって来た。ひっ、とお染めは酒器を放り投げて、座ったまま後じさりする。吉次はその場で膝立ちになり、お梅に負けない大声で答えた。
「し、知らねえよ」
「知らないじゃすまないよ」
「お梅、落ち着け。河内屋の養子なんて、俺が口を挟めることじゃないんだ」
「河内屋に跡継ぎがいないから、跡継ぎを作るために旦那の相手をしろって言ったのは、あんただよ」
「そうさ。だけど、それをぶち壊したのはてめぇだろう。おまえが与左衛門を殴って殺しちまったせいで、河内屋は養子をとるんだろうよ」
「殺してなんかいないよ、生きてたよ」
「てめぇが殴らなければ、今も生きてただろうよ」
お梅を鎮めるどころか、吉次も興奮して泡を吹かんばかりになる。その様子を見て、お染は青くなっていた。
吉次は芸者だった母親の元で、白粉の匂う女に囲まれて育ったせいか、見た目通り、中身も当たりの柔らかい、口の上手な男である。お染は、幼い頃に見た母親に手を上げる父親の姿が目に焼き付いていたためか、吉次の虫も殺せぬような意気地のなさが好きだった。だが、お梅に怒りをぶつける吉次は、やはり父親と変わらぬ男に見えた。
「寮番の男が見たんだ。与左衛門は金でおまえを追い払うつもりだったんだろう」
「あんた、喜作に会ったのかい?」
吉次は、余計なことを言ってしまったと顔をそむけて座りなおした。その目の前にお梅が座って詰め寄った。
「殺したんだね、喜作を」
「俺じゃねぇよ」
「じゃあ、誰さ。言ってごらんよ。そいつに言わなきゃ。この腹の子をどうしてくれんだって、河内屋の跡取りにしてくれるのかって。えぇ」
「う、うるせぇ」
しつこく食い下がるお梅の頬を、吉次がはたいた。
「ちくしょう、何しやがる」
お梅は吠えるように言うと、立ち上がって吉次の前にあった膳を掴んで吉次の頭を殴りつけた。
「このやろう」
吉次も立ち上がるとお梅の手から膳をもぎ取り、お梅を突き飛ばした。壁際に寄って固まっていたお染が、ついに悲鳴を上げた。倒れたお梅が立ち上がろうとして、急に苦悶の表情を浮かべたからだ。
その時、玄関先で声をかけようとしていた真輔がその悲鳴を聞き、狭い家の中に飛び込んで来た。
「お梅っ」
真輔が見つけたお梅は、仰向けに倒れ、はだけた着物から見える足の間から血を流していた。お梅はゆっくりと頭を持ち上げ血にまみれた下半身を見て、声にならない声を上げた。真輔は駆け寄ってお梅の体を支えたが、流れ出るおびただしい血を止めるすべはなかった。
「お梅、しっかりしろ。大丈夫だ。すぐ医者を呼ぶ」
必死に声をかける間にも、お梅の顔は白くなり、半眼の瞳は何も映さなくなっていくようだった。
「笠原様」
呼びかけられて真輔が顔を上げると、いつのまに来たのか、栄三郎が吉次の腕を捻り上げていた。
「笠原様、お梅は」
真輔は、腕の中のお梅の首を触り、消えた脈を探したが無駄だった。栄三郎に向かって、小さく首を振った。