火事跡の子供

文字数 2,860文字

 真輔が八丁堀に帰り着いた頃には、夕立で湿った地面が早くも乾き始めていた。油の壺を手に、空腹を抱えて家に近づくと、塀越しにうなぎの香りがした。子供の頃から、目が悪い分なのか、耳が良いし、鼻も利く。足が早まり、門を入るころには小走りになっていた。

 息を弾ませている真輔の姿に、急いで玄関に出てきた百合は目を丸くした。

 「また、どこかにお出かけになるのですか?」
 「いや、何故だ?」
 「お急ぎのようでしたから…」
 「それは…、腹が減っていてね。」
 「良かった。今夜はうなぎでございます。」
 「うん、それで足が早まった。」
 「まあ、お鼻の良いこと。」

 百合は、子供のように素直な真輔の言葉に、思わず声を上げて笑った。その声を聞いた女中のおまつは、近頃のお嬢様は、昔のようによくお笑いになるようになった、と嬉しく思っていた。

 真輔を婿に迎える前に、百合は父親を殺されていた。下手人は上がらず、その後の辛い出来事のせいで、真輔との生活にも長く影が差していた。だが、婚姻の前から百合に思いを寄せていた真輔の気持ちが通じ、夫婦としての平穏な生活が始まっていた。母のいない百合を幼い頃から世話をしていたおまつにとって、百合に笑顔を取り戻させてくれた真輔は、亡くなった百合の父親同様の大切な主人になっていた。

 手早く汗を流して着替えた真輔が居間に入ると、膳の支度がされている。台所脇の板の間で、おまつや佐吉も一緒に食事をするのが常なので、戸惑っていると、

 「栄三郎が待っておりますので、こちらで先にお召し上がりください。うなぎは栄三郎の手土産ですの。私たちは、奥で頂きます。」

 と百合が給仕を始めた。

 「待たせては悪いな。先に話を聞こう。」
 「先に召し上がって欲しいと、栄三郎が申しているのです。さあ、どうぞ。」

 促されて席に着くと、真輔は空腹もあり箸が止まらず、あっという間に食べ終わってしまった。百合が膳を下げ、栄三郎を呼んで来た。

 「待たせてすまぬ。うなぎまで、申し訳ない。」
 「土用の丑の日を過ぎますと、うなぎの値が下がります。うちでは、毎年、安くなったら食べることにしていまして、こちらにもお届けさせていただいております。まとめて買うと、更に安くなりますので。」
 「今日は疲れていたので、本当にありがたかった。」
 「喜んで頂けて、良うございました。今日は、神田までいらしたそうですね。河内屋の分家をお探りになったのですか?」
 「探ったと言うほどのことはできていないがな。油を買ってきただけだ。それでも、ひどいありさまなのはわかる。主人一家は誰も店に出ていないし、番頭はやる気がない、手代は素人で、まともなのは、河内屋の本家から手伝いに来ている小僧一人だった。」
 「その小僧は、背丈のある年長のものですか?」
 「知っているのか。客に辛坊と呼ばれていたが。」
 「やはり、辛作ですか。親は版木刷りの職人なのですが、読み書きもそろばんも覚えが速いので、大家が河内屋に推したんですよ。来年には手代に昇格するんじゃないでしょうか。わたしの方は、お梅のことをもう少し調べて来ました。」


 栄三郎は、深川の岡っ引きに紹介された鶴屋に籍を置く芸者だった女に会いに、永代橋を渡った。広小路の茶屋のおかみに収まっていた女は、鶴屋のおかみについて、思うところがあるのか、色々と話してくれた。相手の話したいように話させながら、要所では適格な問いを出すのが栄三郎のやり方であった。
 女はお梅のこともよく覚えていた。

 「あの子は、深川で火事があった後、鶴屋のおかみさんが連れてきたんですよ。親を亡くしちまったかわいそうな子だから、引き取ったと言ってね。火事跡でわんわん泣いていたんだそうです。握り飯を食べさせて、風呂に入れたら、なかなかの器量なんですぐわかりましたよ。恩で絡めて芸者にする気だなと。」
 「恩で絡めるとは、どういうことだ?」
 「育てた恩をたてにして、花代を取り上げられたり、旦那を押し付けられたりしても、文句を言わないようにですよ。」

 女の話では、お染も親を亡くして、鶴屋のおかみに引き取られた子供だったそうだ。器量が良く、芸事もそつなくこなすお染は売れっ子になったが、お梅は芸事が身につかなった。女は先輩芸者として教える立場だったが、お梅は根気がなく、踊りも三味線も覚えらなかったと言った。それでも教えようとするとかんしゃくを起こして泣きわめくので、女も鶴屋のおかみも匙を投げだしたのだった。次第に厄介者になっていったお梅を、鶴屋のおかみは売れっ子のお染を守るために利用した。

 「私は鶴屋のおかみに恩も義理もありませんからね。鶴屋のおかみのあこぎなやり方にうんざりして、後添いにと請われたのを幸いに、芸者は退かせていただきましたから、これは、お染が酔っぱらって話していったことで、本当かどうかは知りませんよ。」

 長々と言い訳した後に聞かされた話は、何とも嫌な話で、栄三郎の顔は曇った。鶴屋のおかみは、お染の贔屓客から大金を受け取り、寝所に案内する。すると、その部屋にはお染ではなくお梅が待っている。客は暗がりで気づかずにお梅を抱いてしまう。芸事は駄目でも、年に似合わぬ豊満な体は、布団の中で客に満足を与えられるようだった。だが、お梅はそれで孕んでしまい、おかみはすぐに始末させたと言う。

 「二度、三度と続いて、さすがにごうつくばりのあのおかみでも、あきらめたようなんですけど、今度はお染が自分が客を取らされるんじゃないかと、心配してましたよ。」
 「お染は、ここに良く顔を出すのかい?」
 「あの娘は、私の妹分みたいなものでしたから、月に一遍ぐらいはぐちりに来てましたけど、ここんところ顔を出さないんですよ。だんなが私のところに来るのは、鶴屋に何かあったからなんですか?」
 「知らねえほうが身のためだぜ。」
 「おや、怖い。」

 怖いのは、今聞いた話の方だと栄三郎は腹の中が熱くなる思いだった。

 話を聞き終えた真輔も沈痛な表情になっていた。吉次がお梅を与左衛門に合わせた理由も、その方法もわかった気がした。ただ、与左衛門が子供を作ろうとした理由は、謎だった。

 布団の上に座りぼんやりと外をみている真輔に、風呂から出て蚊帳の中に入って来た百合が声を掛けた。

 「長いお話でしたのね。」
 「あ、あぁ。」

 真輔は振り返ると、暗い眼差しで微笑んだ。

 「自分の世間知らずを思い知らされた気がするよ。」
 「やはり、辛いお話でしたか。栄三郎が話は食事の後にしたいと言ったので…」
 「うん、話の後では、飯の味がしなかっただろうな。」
 「この仕事は人の不幸を目にすることが多いが、その中で自分の知らない幸せを見かけたり、尊い志に触れることもある、それを糧にお役目に勤めるのだと、父が申しておりました。」
 「そうだな。ありがとう。」

 真輔の目に光が戻ったようだった。真輔は、微笑んで布団をめくる百合の頬に、今日は躊躇せずに手を伸ばした。百合の手が、その手をやさしく包んだ。 
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになってきている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせるようになっている。

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